第24話:塩パン
――記録に残らない放課後
放課後の廊下は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
窓の外で、風に揺れる木の葉がかすかに擦れる音だけがする。
「ねえ、澪」
昇降口へ向かう途中、透がふと思い出したように声をかける。
「今日さ……ちょっと寄り道しない?」
いつもより少しだけ柔らかい声だった。
断られることを、あまり想定していない誘い方。
澪は一瞬だけ歩調を緩める。
「……寄り道?」
「うん。すぐそこ。商店街のほう」
観察対象ファイルに記載あり。
――《商店街・古いパン屋》。
備考:朝霧陽菜と頻繁に立ち寄っていた場所。
澪は、何も知らない顔で小さく頷いた。
「いいよ」
それだけで、透は少し嬉しそうに笑った。
商店街は夕方の匂いがした。
惣菜の油、焼き立てのパン、少し古びた舗道の埃。
「ここ」
透が立ち止まったのは、年季の入った小さなパン屋だった。
ガラス越しに見える棚には、素朴な形のパンが並んでいる。
「前に話したでしょ。陽菜って子」
透は扉を押しながら、何でもないことのように言う。
「このパン屋ね、よく一緒に来てたんだ。
雰囲気が好きで……私の好きな場所に、澪も連れて来たいなって思って」
“好きな場所”。
“連れて来たい”。
澪は、初めて訪れたふりをして店内を見回す。
「……落ち着くね」
本当は、棚の配置も、人気の商品も、
どの時間帯にどのパンが残りやすいかも、全部知っている。
透はトレーを手に取り、楽しそうに棚の前を行き来する。
「どれにしよっかな……」
甘いパンに伸びかけた手が、ふと止まる。
それは、かつて陽菜が好んで選んでいた種類だった。
澪は、その動きを静かに観察していた。
(――合わせれば、距離は縮まる)
甘いものは苦手だ。
でも、それを言う理由は、任務上どこにもない。
澪が無言で甘いパンを取ろうとした、そのとき。
「待って」
透が、トレーを軽く引き寄せた。
「こっちにしよ」
棚から取ったのは、シンプルな塩パンだった。
「これ、美味しいよ。
あまり甘くないし、澪好きだと思う」
澪は、差し出された塩パンを見つめる。
「……なんで」
思わず、ぽつりと零れた。
「え?」
「どうして、それを」
透は少しだけ困ったように笑った。
「なんとなく、かな。
澪って、甘いのより、こういうの好きそうだなって」
――推測。
――観察ではなく、感覚。
澪は、それ以上何も言わず、塩パンをトレーに乗せた。
店内の小さな飲食スペース。
窓際の席に並んで座り、紙袋からパンを取り出す。
澪は、一口かじって――わずかに目を伏せた。
温かい。
塩気と、生地の甘さが、静かに広がる。
数値にも、文章にも、
《観察項目》のどこにも当てはまらない味。
これは、
記録には残らない感覚だった。
「どう?」
透が尋ねる。
「……美味しい」
それは、嘘ではなかった。
透は満足そうに頷き、自分のパンを食べ始める。
帰り道。
空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
「今日さ」
透が前を向いたまま言う。
「特別なこと、何もなかったけど……楽しかったね」
――特別じゃない、という言葉が、
どうしてこんなに引っかかるのか、澪には分からなかった。
「……うん」
それだけ返すのが、精一杯だった。
夜。
自室で、澪は端末を開く。
《観察対象ファイル:夏川 透》
今日の日付の欄をタップする。
指が止まった。
何を書けばいい?
会話内容。
行動。
感情変化。
――どれも、正しい。
でも、どれも、足りない。
澪は静かに入力欄を消し、代わりに一行だけ残した。
記録:なし
それは、澪が初めて
「書かなかった」記録だった。
画面を閉じる。
昼間、食べた塩パンの味が、まだ舌に残っている。
それは、
もう二度と、
任務だけでは説明できない味だった。




