第21話:疑われない夜
夜。
カラオケの廊下は、音と笑い声で満ちていた。
「次だれ歌うー!?」
「はいはいはい!!」
「透またバラード!?」
部屋の中は、昼の教室以上に賑やかだった。
マイクを握った蒼真が、音程も気にせず歌っている。
その横で、透は笑いながら手拍子をしていた。
澪はソファに腰掛け、その様子を静かに眺めている。
――楽しそう。
少なくとも、表面上は。
部屋の隅。
黒瀬は、腕を組んだまま黙っていた。
視線は一度も、澪から離れない。
「……黒瀬が参加してるの、珍しくね?」
「な」
「いつもこういうの来ないのに」
ひそひそと、クラスメイトの声。
黒瀬は気にも留めず、澪の指先、表情、距離感――
些細な動きまで、逃さない。
蒼真も同じだった。
歌ってはいるが、視線は透と澪を往復している。
ふざけているようで、気を抜いていない。
それでも、空気は明るかった。
「朝霧も歌わないの?」
「聞く専でしょ?」
「意外と上手そうなのに〜」
「……じゃあ、少しだけ」
マイクを受け取った澪が、小さく息を吸う。
流れ出したのは、静かな曲。
柔らかく、落ち着いた声。
透は、思わず息を呑んだ。
――やっぱり。
歌い方も、声の伸ばし方も。
記憶の中の誰かと、重なる。
曲が終わると、拍手が起きた。
「うまっ!!」
「普通に上手じゃん!!」
澪は少し照れたように、視線を落とす。
その時だった。
ガシャン――。
乾いた音。
「……っ!」
割れたコップ。
床に散らばる破片。
「透!?」
透の指先から、赤い雫が落ちた。
黒瀬と蒼真が、ほぼ同時に立ち上がる。
「動くな」
「触んな、ガラスある」
二人の声は、低く、鋭い。
「だ、大丈夫!ちょっと切っただけ――」
言い終わる前に、澪が立ち上がっていた。
「……怪我」
澪は慌てた様子で、鞄を探る。
そして、自分のハンカチを取り出した。
「押さえて」
迷いのない動き。
そっと、だが確実に、透の指を包む。
黒瀬と蒼真の視線が、澪に突き刺さる。
――今だ。
血。
目の前にある。
これで澪が黒なら此処で動く筈。そう思ったのは黒瀬だった。
だが、澪はそれ以上、何もしなかった。
触れない。
奪わない。
ただ、止血だけ。
「救急箱持ってくる!!」
誰かが部屋を飛び出す。
澪はその間も、そっとハンカチを当て続けた。
「……ごめん」
「私が不注意で……」
「違うよ」
澪は首を振る。
「誰にでもある」
視線が合う。
透の胸の奥が、少しだけ緩んだ。
救急箱が届き、澪はテープを貼り、最後まできちんと処置した。
その間も、黒瀬と蒼真は目を逸らさない。
「……」
澪は苦笑した。
「……手当、しにくい」
「っ……」
「もぉ!」
透が声を上げる。
「2人とも離れて!!!」
その時、澪は血の滲んだハンカチを黒瀬に差し出した。
「大丈夫。これ、捨ててきて」
黒瀬は一瞬だけ澪を見る。
――何もない。
少なくとも、今は。
無言でハンカチを受け取り、部屋を出た。
しばらくして、空気はまた明るさを取り戻す。
「透もう歌うなよー!」
「うるさい!」
笑い声。
何事もなかったかのように、夜は進む。
⸻
帰り道。
透と澪と黒瀬は、並んで歩いていた。
冷たい夜風。
街灯の下。
その頃――
カラオケハウスの外。
ゴミ集積所に、一つの影が立っていた。
袋の奥から、血の染みた布を取り出す。
「……これでいい」
小さな声。
影は、それを静かに持ち去る。
誰にも気づかれず。
誰にも疑われず。




