第59話:“ワン”と鳴いた日から
僕は“あいつ”がそこにいるだけで、昔から身体も口も動かなくなる。
小さく軽い足取り。
弱々しい――はずなのに。
背筋が凍る。
「……おい」
高くもなく低くもない声。
だけど、ずっと喋ってない人の声に聞こえた。
自分の声に違和感があるのか喉を抑えながら不機嫌に舌打ちする姿は、自分の知っている“あいつ”と重なる。
「……返事はなしかよ。殺すぞ」
その一言で、喉が勝手に締まる。
「呼んだら来いっつってんだろ。何ボケっとしてんだよ」
ビクリ、と肩が跳ねた。
反射だった。
「ご、ごめ……ごめん……!」
視線を上げるのが怖い。
けど、上げないともっと怖い。
だから、恐る恐る顔を上げる。
そこにいたのは――
白くて、細くて、今にも壊れそうな女の子だった。
か、可愛い……。
長い髪。
血色の薄い頬。
病室のベッドが似合いそうな、儚い顔。
その女の子が昔から知ってる幼馴染だなんて、今でも信じられない。
正確に言うなら中身がだけど。
――たしか、菜々美って名前だったはずだ。
……あいつが、そう呼んでいた。
名前負けしていない可愛らしい名前だ。……違う。
外見は可憐な女の子でも中身は僕が知ってるアノ……由良だぞ。
外見に惑わされるな。
でも。
「何だその顔。殴られたいのか?」
目を釣り上げる姿も
可愛い――
……はずがない。
そう思わないと、壊れそうだった。
しっかりしろ僕。
可愛いと思ってしまう自分が、気持ち悪い。
物凄く怖く、今すぐ逃げ出したい。
これは違う。中身が、違う。
目つきも、声も――全部。
由良は、こんな透き通る声じゃない。
こいつは僕が知ってるあいつ、由良だ。
必死に、そう言い聞かせる。
昔からずっと僕を“犬”って呼んでた、
由良には決して、逆らえない。
「……犬はワンだろ?」
ゾッとした。
全然、嬉しくない。
むしろ――
逃げたくなる。
のに、瞬時に「ワンッ」と叫んでた。
口が、勝手に動いた。止められなかった。
自分で自分が情けない。
「な、――なんで、あの子に……」
その先が、どうしても言えない。
だけど、思わず漏れた言葉に、
由良は鼻で笑った。
「は? いちいち説明いんのか?」
ギロ、と睨まれる。
「お前は言われた通りやればいいんだよ」
軽く言ってる。
それが当たり前みたいに。
「……」
言葉が出ない。
だって、知ってる。
逆らったらどうなるか。
「で?」
由良は、つまらなそうに首を傾げた。
「やれって言ったこと、やってきたんだろうな?」
心臓が跳ねる。
さっきのことが、フラッシュバックする。
ぶつかった瞬間。
触れた感覚。
刻み込んだ“印”。
「……や、やった……よ」
声が震える。
嘘はついてない。
でも、どこかで――
やりたくなかった。
どうして、こんなものが僕に。
どうせならもっと別の……もっとマシな力を。
そこまで考えたところで由良の乾いた笑い。
「はっ、嫌で堪らないって顔に書いてあんぞ」
そう言いながら、由良は煙草を取り出す。
だけど火を付けたところで盛大に噎せ返る。
「っ……ゴホゴホ」
「だ、大丈夫っ?」
「あ〜クッソ!煙草も吸えねぇのかよ!ほんっとに使えねぇ身体」
グシャ、と煙草を握り潰し、
ぐい、と顎を掴まれる。
細い指なのに、
逃げられない。
「いいか、犬」
至近距離。
綺麗な顔が、すぐそこにある。
綺麗なのに―― だからこそ、怖い。
「今から俺の言う通りにしろよ?」
ニヤ、と笑う。
その笑みは、
この身体には似合わなすぎて――
余計に、気持ち悪かった。
「アイツは“餌”だ」
低く、楽しそうに。
「ーーゼロを引きずり出すためのな」
ドクン、と心臓が鳴る。
ゼロ。
その名前を聞いた瞬間、
全部、繋がった気がした。
「分かってんだろ?」
耳元で囁かれる。
「お前は犬だ」
逃げ場はない。
「命令は絶対だ
――昔からな」
逆らえない。
「――いいな?」
「……う、ん……」
頷くしかなかった。
それを見て、
そいつは満足そうに笑った。
その顔は――
やっぱり、綺麗で。
だからこそ余計に、
最悪だった。
「――今から」
その言葉は僕にとって運命を左右する言葉だった。
だけど僕に拒否権はある訳でもなく、
声も出せない僕に、由良は「行け」と顎で命じた。
逆らうという選択肢は、最初から存在しなかった。
――だから僕は、あの子を“もう一度”探しに行く。
行かなきゃいけない。
そう思ってるのが、もう自分じゃない気がした。
……いや。
最初から、僕に“自分”なんてなかったのかもしれない。
“ワン”って鳴いたあの時から、
ずっと――犬のままだ。




