第38話:永遠の価値
鏡の中の自分に、彼女はゆっくりと微笑みかけた。
その笑みは、確認だ。
今日も崩れていない。
今日も衰えていない。
完璧だった。
光の角度も、肌の張りも、頬の艶も、首筋の滑らかさも。
四十を越えた身体とは思えない。
指先で目元をなぞる。
——化粧で必死に隠してた小皺は、もう無い。
あれほど忌々しかった影が、跡形もなく消えている。
「やっぱり……本物は違うわ」
吐息混じりの囁き。
透の血。
“C型”。
市場に出回らない、奇跡の資源。
限られた一部の人間だけが知ることを許される情報。
その情報に辿り着けた自分。
選ばれた側にいるという優越。
私はそのひと握りの人間だ。
そう、特別な人間なの。
老いが止まるなら——
半分は冗談で、半分は本気で願った。
だが一滴で確信した。
細胞が若返る感覚。
皮膚の内側から再生するような微熱。
内臓が軽くなり、血が澄む実感。
医療?
慈善?
笑わせないで。
これは“価値”だ。
金よりも確実な資産。
老いない身体。
衰えない肌。
永遠に近づく特権。
彼女はワイングラスを傾ける。
深い赤が揺れ、照明を受けて妖しく光る。
「もう少し……もう少しあれば」
喉を鳴らし、飲み込む。
「最高の身体が手に入る」
黒瀬一族との取引は順調だった。
条件付き。
定期供給。
量は制限。
だがそれでも十分だった。
——足りなくなるまでは。
最初は満足していた。
だが“慣れ”は毒だ。
一滴が二滴に。
二滴が三滴に。
三滴が四滴に。
それでも、まだ欲しい。
少しのくすみも許せない。
シミも、シワも、たるみも。
私には不要な産物。
老いは欠陥だ。
排除すべき不純物。
最近、供給回数が減った。
量も微妙に抑えられている。
意図的だ。
試されている。
値を吊り上げられている。
そう判断した。
ならば交渉は終わり。
直接確保。
元を押さえれば、もう交渉はいらない。
情報は力よ。
金で動かないものは、ほとんど無い。
少女の情報を得るのは簡単だった。
学校、行動パターン、交友関係。
資源を——あの少女を手に入れればいい。
馬鹿な男……。
黙って差し出していれば金は手に入るのに。
「若いって、いいわよね」
壁面モニターに映る監視映像。
逃げる影。
追う影。
妨害電波は完璧。
分断も成功。
護衛は陽動へ。
本命は別ルート。
彼女は満足げに唇を歪めた。
「賢い子は嫌いよ」
黒瀬家は調子に乗りすぎた。
供給側のくせに。
金を払っているのは、こちら。
研究資金を回しているのも、こちら。
“金庫”と呼ばれていることを、彼女は知らない。
だが構図は同じ。
彼女は資金源。
彼女が止まれば、研究は滞る。
黒瀬も困る。
だから強く出られる。
そう思っていた。
「若さは平等じゃないの」
選ばれた者だけが持つべき。
努力も、金も、地位も。
全て手に入れてきた。
老いだけが、裏切った。
それが許せなかった。
その時。
画面の一つがノイズを吐く。
彼女は眉を寄せる。
「……?」
一瞬。
ほんの一瞬。
通信が乱れた。
だがすぐ復旧。
「回線の揺れ?」
技術者に連絡しようとした、その時。
別回線が割り込む。
非通知。
彼女は躊躇せず出た。
「——もしもし?」
柔らかく、静かな男の声。
それでいて低く、感情のない声。
「欲を出しすぎたね」
背筋が、ぞくりと粟立つ。
「……どなたかしら?」
沈黙。
そして。
「まぁ、金庫が一つ消えるのは痛いが」
血の気が引く。
「金はまた作ればいい」
手からグラスが滑り落ちる。
赤が床に散る。
「君は要らないかな」
割れる音。
破片が散る。
「黒瀬……」
笑い声混じりの声色。
だがそこに温度は無い。
どこまでも淡々と。
「君はね、泳がせてあげてたんだよ」
心臓が跳ねる。
「まさか……わざと?」
「あの子には教育が必要だった」
意味が分からない。
「あの子を狙ったのは、お前の判断だ」
「でもそれを可能にしたのは——」
「僕だね」
肯定。
迷いは無い。
呼吸が浅くなる。
「……私は、使われた、の?」
「価値はあったよ」
その言葉が、最後の誇りを砕く。
「だが、限度を越えた」
画面が一斉にブラックアウトする。
照明が落ちる。
部屋が闇に沈む。
自分の呼吸だけが、やけに大きい。
「待って……取引は続けましょう? 条件なら飲むわ。量も戻す。研究資金も増やす。だから——」
扉の向こうで足音。
複数。
重い。
迷いのない歩幅。
後退る。
ヒールが床を滑る。
「私は必要でしょう!? 私がいなければ——」
「欲深なオバサンには消えてもらわないと」
回線が切れる。
完全な沈黙。
扉が開く。
黒い影が差し込む。
その瞬間、理解した。
自分は顧客ではない。
資産でもない。
駒だ。
捨てられる側。
「嫌……」
若さが欲しかった。
永遠が欲しかった。
だがこの瞬間、
彼女の肌は急速に冷えていく。
銃声は鳴らない。
悲鳴も外には出ない。
静かに。
確実に。
金庫は閉じられた。
⸻
月の下。
墓地では別の物語が進んでいる。
教育だ、と彼は言った。
透。
君はどうする?




