第31話:住所の場所
アリアは小さく咳払いをひとつした。
指先で、そっと黒いリボンをほどく。
ほどいたそれを、少しだけ名残惜しそうに見てから、静かにテーブルへ置いた。
「あら〜、似合ってたのに〜」
透の母親が本気で残念そうに言う。
透は深くため息をついた。
「お母さんに言われるまま付き合ったら、頭すごいことになるよ」
苦笑いしながら近づいてくる。
「まぁ〜失礼しちゃう! こう見えて昔は美容師さん目指してたことあるんだから〜」
「はいはい」
空返事。
それから透はアリアに向き直り、少しだけ目を細める。
「部屋、行こ?」
一瞬、考える。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
透の母親に向かって、小さく頭を下げた。
「嫌なら嫌って言わないとお母さん調子乗るよ〜」
「こら!透!」
そんな声を背に、リビングを出る。
……特に、嫌だとは思わなかった。
それが少しだけ、胸の奥に引っかかった。
⸻
透の部屋は、以前来た時とほとんど変わっていない。
小さなミニテーブルを指さし、透が笑う。
「そこ、座ってて」
アリアは静かに腰を下ろす。
透は制服のリボンを外し、慣れた手つきで着替え始める。
その姿を、なんとなく目で追ってしまう。
制服。
学校。
集団生活。
自分とは無縁の世界。
私は学校に通ったことがない。
制服も、教室も、チャイムも。
画面越しに見るだけのものだった。
だからだろうか。
透や、あの幼馴染たちが、ときどきひどく眩しく見える。
透は私服に着替えると、こちらを向いた。
基本、透は親切で優しい。
それはデータにもあった。
お人好しで、世話焼きで、面倒見がいい。
損をする典型。
……なのに、なぜか笑っていられる人間。
理解不能。
正直、相容れない存在。
けれど。
今は、その性質が非常に助かる。
「で? なんかあった?」
第一声がそれ。
やはり、透だ。
私は余計なことは言わず、メモを差し出した。
「ここに行きたいの」
忘れないように書き留めた住所。
透はそれを受け取り、目を落とす。
そして――
ほんの一瞬だけ、表情が止まった。
「ここって……」
声の温度が、わずかに下がる。
ゆっくりと顔を上げ、私を見る。
「何しに行くか聞いても?」
軽い問いかけではない。
真剣な目。
一瞬、言葉を選ぶ。
だが、迷う必要はない。
「行き方教えてくれれば、それでいい」
透は視線を逸らさない。
その瞳は、続きを待っている。
言わなければ、教えない。
そう語っている。
……データの修正が必要かもしれない。
「言いたくない?」
「別に……」
言いたくないわけではない。
母親に会いに行くだけだ。
それだけ。
沈黙が落ちる。
透が、二度目のため息を吐いた。
「なら、こうしよう」
少し間を置いて。
「私も一緒に行く」
「は?」
「一緒に行く」
今度ははっきりと。
逃がさない視線。
「……勝手にすれば!」
反射的に言い返す。
すると透は、あっさりと笑った。
「うん。勝手にする」
その笑顔は、妙に強い。
押しつけがましくもなく、引く気もない。
やはり、データは書き換える必要がある。
追加項目――
非常に、頑固。
透はもう一度、手元のメモに視線を落とした。
ほんの一瞬、指先が止まる。
それから、何も言わずに畳んだ。
「日曜、空いてる?」
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
「……空いてる」
「じゃあ決まり」
軽い調子。
けれど、笑っているのは口元だけだった。
アリアは小さく舌打ちしそうになるのを堪える。
……面倒な人間だ。
だが。
なぜか――
ほんのわずかに、胸の奥が静かだった。




