8話 影の匂い
生徒指導室の奥、普段は誰も使わない一室に、仮設のカウンセリングスペースが設けられていた。
安物のパーテーションで仕切られた薄暗い空間。
机には小さな観葉植物と、レースの布が掛けられたティッシュボックス──“安心感”を演出する舞台装置だ。
そこにヴァンプは、いや、九条は座っていた。
脚を組み、やや緩んだ胸元の下で、緊張と退屈のプールで背泳ぎしていた。
ここまでいくつか先生が選んだ生徒をカウンセリングしてきたが、特にめぼしい生徒はいなかった。
恐らく何も知らない問題ない生徒をピックアップしたのだろう。
次にカウンセリングを受けに来たのは女子生徒。
名は《高森ユウナ》。
名簿には名前がなかった。
くたびれた制服と、顔に似合わぬほど深い隈。
なにより──「声が小さい」。
割れたガラスの隙間から糸を通すようにか細い。
この子、“壊れる前”じゃない。いやもう、“壊れてる”?──誰にも気づかれないまま。
ヴァンプは柔らかな笑みを浮かべた。
「ねぇ、ユウナちゃん。先生のこと、何でも聞いていいのよ。趣味でも、好きな飲み物でも……あるいは……そうね、最近怖い夢とか見たりする?」
少女の手が、ひざの上でぎゅっと握られる。
言葉はない。だが、表情がわずかに“濁った”。
まるでコーヒーにミルクを一滴だけ入れたが如く。
小さいがその濁りは確かに生まれた。
──ヒットね。
ヴァンプは、心の奥で背泳ぎをバタフライに変更した。
「……夜になると、廊下が鳴くんです」
か細い声の少女は詰まりきった喉の隙間から声を漏らす。
「……窓、全部閉まってるのに。誰か、歩いてる音がするんです。スリッパの音。……ゆっくり、ずっと近づいてくる。」
「それは、夢の中?」
「……わかりません。起きても、まだ音がしてる気がして……誰にも言えなくて。」
ヴァンプは、あえて少し目を伏せた。
生徒を見ないことで、逆に相手を“動揺させる”。
心を開きかけたところを逆にこちらが閉ざす。
それが、口を開かせる方法の一つ。
そして、次の一言を、ヴァンプは白雪姫にリンゴを差し出すように紡ぐ。
「その音が来た夜……“誰か”が夢に出てこなかった?」
ユウナの顔が一瞬だけこわばる。
指先が震える。
彼女は“何か”を思い出し、だが言葉にする術を持たない。形容し難い異形をなんと呼ぶのか小学生の少ない語彙の中から探そうとしている。
「……赤い目。……私を、見てた。」
その一言で、プールの水が一気に凍った。
ヴァンプは微笑んだ。
カウンセリングは、情報収集だ。
だが同時に、それは──敵の輪郭を描くスケッチ作業でもある。ずいぶん形にはなった。
恐らく例の薬ね。
それもこの学校は薬の実験場ってとこかしら。
「ありがとう、ユウナちゃん。大丈夫、あなたは独りじゃない。……先生がついてるわ。」
少女が出ていった後、椅子にもたれかかった。
彼女、恐らく狙われている。
――――――――――。
次の生徒の名は、《戸田ケイゴ》。
男子生徒。失踪した子供のうちのひとりと、仲が良かったらしい。
資料によれば、圭吾の家庭環境は「父親が不明・母親は夜職で多忙」──つまり、夜を知っている子供だった。
制服の袖は擦り切れ、靴の泥も乾ききっていない。
髪も乱れたままだが、妙に目だけが鋭い。
不機嫌そうに椅子へ腰を下ろすと、脚を組み替えるような仕草で、威嚇でもしているつもりらしい。
可愛らしい。
さっきのユウナちゃんは名簿にはなかったけど、ケイゴ君は名前があるわね。
彼は口を割らないタイプの生徒なのかしら。
「で、何。行けって言われたからきたんだけど?」
――ビンゴ。
彼はただ一言喋っただけだがヴァンプは確信していた。
その匂いと仕草が真実を語ってくれることを。
ヴァンプは先ほどとは変わり、笑わない。
こういうタイプの少年には、笑顔は通じない。
彼らが求めるのは“信じてもいい沈黙”だ。
少しの間を置いてから、淡々と口を開いた。
「……ユウくんと、最後に話したのは、いつ?」
その名が出た瞬間、少年の肩がわずかに揺れた。
反射だ。無意識の、言葉より正直な反応。
先ほど通信で失踪したユウ君とケイゴ君は家が近く、兄弟のように遊んでいたと聞いた。
「……別に。いつもどおり、学校の裏で遊んでただけ」
「裏?」
「校舎の裏……ちょっとした庭になってんだよ。夕方になると、誰も来ねぇし、隠れ場所にはちょうどいいんだよ。ユウ、誰かに会うから先帰ってくれって」
ヴァンプの指がわずかに動く。
メモは取らない──記憶に焼きつける。
それがCAINの流儀だった。
手元に残るようにはしない。
するなら燃やす。
「誰かに?」
圭吾は視線を逸らした。
そして、吐き出すように言った。
「“黒い変なやつ”だってよ。小さい体で、赤い目をしてたって……バカじゃねぇのって笑ってやったけど。」
──赤い目。
先ほどの女子生徒、《ユウナ》の証言と一致する。
同一人物かあるいは監視カメラに残っていたように複数なのか。
ヴァンプは少しだけ背を伸ばし、語気を落とした。
「ねぇ、ケイゴくん。その日……風は吹いてた?」
少年がぎょっとした顔をする。
その反応が、彼女の仮説を補強した。
「──なんで、それ……? ……確か、急に風が吹いて、背筋がすげぇ寒くなった……」
「ありがとう。それだけで充分。」
彼女は立ち上がった。
戸田ケイゴの目は、少しだけ何かを理解し始めていた。
ヴァンプは出口で足を止め、彼に背を向けたまま、ひとことだけ残す。
「なぁんにもしてないなら、あんたに“狙い”は来ない。……でも、ユウを“裏切って”たなら──次は、あなたの番かもね。」
少年は何も言い返さなかった。
「ちがっ、ユウを置いて帰るつもりなんて……。見捨てたわけじゃないんだよ……!俺は、逃げたんじゃない……」
彼女が部屋を出たあと、しばらくずっと椅子に座り続けていた。