40話 影の記憶
施設全体が呻くような音を立てた。深層の研究棟、その床が、壁が、天井が不気味に軋む。
──《施設崩壊まで、あと十五分──全職員は直ちに退避してください──》
警報と共に、冷たく機械的な女の声が響いた。
「……チッ」
シルエットは血で湿った頬を拭い、口の中の鉄臭さを吐き捨てるように唾を吐いた。背には重い痛み。脇腹には裂傷、利き腕は痺れたままだ。
それでも奴を倒した。あの異形、ベヒモスを、影で貫いた。
だが、その代償は、あまりに大きい。
仲間が死んだ。あの場には、もう何も残っていない。
「……戻るぞ、こんな地獄、もう十分だ」
研究室の扉を開け、通路へと出ようとしたその瞬間だった。
――ッ!!
背後に気配を感じた。だがそこには誰もいない。
いるはずがなかった。振り返った先には、自分の影があるだけだ。床に落ちた、黒い輪郭。
だがその“影”が、不意に立ち上がった。
「……は?」
影が、立体となり、まるで人の形をなぞるようにして起き上がる。目も鼻もない、黒いシルエット。だがその立ち居振る舞いには、妙な懐かしさがあった。
「お前……誰だ」
影は口のない顔で笑った気がした。
《俺はお前だよ》
その声は、心の内に直接届いた。
《影の中でずっと見てきた。お前の怒りも、後悔も、ため息も……全部、俺が受け取ってきた》
「ふざけんな……俺は知らねえ……!」
影は首を傾げた。
《知らない?“お前が”影の力を使ったんだ。だから俺が生まれた。》
《お前があの薬で引き出したのは、“力”だけじゃねえ。心の奥底にある、もう一つのお前だ》
影が、ゆっくりと手を伸ばしてきた。歪んで、捻れて、だが確かに意思を持っている。
《お前は知ってるだろ?誰が死んで、誰が待っているのか。俺に、全部預けろよ。》
シルエットは、拳を握った。喉の奥が熱くなり、呼吸が浅くなる。
「ふざけるな……俺は、お前に乗っ取られるためにここまで来たんじゃねぇ……!」
崩壊する研究所の中、しゃがみ込む。
周りは瓦礫がパラパラと降り注ぐ。
《乗っ取る? 違うな。俺はお前の“影”だ。お前が殺意を抱いたときに生まれた、もうひとりの“お前"なんだよ》
影が、床を這うように拡がる。そして足元からゆっくりとシルエットの体に絡みつき、背に昇る。心音が高まる。血液が熱く脈打つ。
《グリッチが死んだ。パッチワークも。ヘッドライトも。お前は全員の“死”を見た》
《お前の拳で、影で、それを無意味にさせる気か?》
「……」
《俺に全てを預けろ。お前が恨む全てを、俺が壊してやる。》
その声は、甘美だった。かつて聴いた子守唄のように、静かで、優しくて──残酷だった。
「黙れ……黙れ……!」
シルエットは頭を抱えた。だが影は止まらない。
《お前は、もう“自分”なんかじゃいられない。影を使ったんだ。影に踏み込んだんだ》
《だったらさ──堕ちてこいよ。ここまで》
影が翼になった。肩甲骨のあたりから伸びるように、それは生えていた。
「やめろ……勝手に動くな……!」
《無駄だよ、俺。お前が願ったんじゃないか。“誰かに代わってほしい”って》
次の瞬間だった。
爆風。天井が崩れ、落石と瓦礫が降り注ぐ。施設が崩れ始めていた。
「……クソが……!」
シルエットの体が浮いた。
自らの意志ではない。翼が大きく広がり、天井の隙間へと無理やり飛翔していく。
《そうだ、行こう。すべてを壊す旅へ──》
叫びも、拒絶も届かない。
ただ、空へ──黒い影が、羽ばたいていった。
空を裂くように、影が飛ぶ。
黒く濁った翼が宙を裂き、崩壊する研究所の天井を突き破って、夜の帳へと抜けた。
だがその飛翔は、自由ではなかった。
意思などなく、ただ影の本能が羽ばたかせるその軌道は、獣のような怒りと憎悪に染まっていた。
「――ぐっ……!」
頭が割れそうだった。
こめかみを内側から何かが殴ってくるような痛み。
視界がぶれる。空が二重に見えた。
夜空の中に、光のない部屋。
乾いた音。笑い声。ピアノの旋律。
「……スコア?」
目の前に現れたのは、あの音楽室でスコアがピアノを弾いていた記憶だった。
その隣には、グリッチがいた。ノートPCを抱えて、いつものように騒いでいる。
「おいおい、しけた顔してるね。影の力?」
「いいじゃないか。中二っぽくて。……あ、いや、三十路か。君は」
「やかましいよ……なんで、お前ら……」
声が震えた。胸が熱くなる。
その奥から、さらに2人。
「……無事だったら、また診療所に来てくださいよ。縫合ならいくらでもやりますから」
パッチワーク。
アロハシャツに白衣のまま、笑っていた。
「いつでも乗せて送ってやるよ、古い付き合いだし今回はタダでもいいぜ」
ヘッドライト……。
だが、その笑顔は次の瞬間、黒く染まった。
彼らは口々に囁く。
「あたしらの仇、とってくれるんでしょ?」
「ヘリオスの連中、許せないよね。」
「君の影で、全部、潰してくれよ」
「影の力……もっと使えよ。力が欲しいんだろ?」
暗黒が、心を締めつけてくる。
胸の奥から沸き上がる復讐心が、黒い鎖となって脳を締め上げる。
「違う……違う……」
頭が激しく痛む。
本物じゃないとわかっている。
《否定ばかりするなよ、これが本当、これが現実。お前の弱さが招いた真実だ》
ああ本物なんだ。これが現実なんだ。
彼らはそう望んでる。
俺が、復讐するのを望んでるんだ。
じゃあ行くことにしよう。
ヘリオス製薬とやらをぶっ潰そう。
そのとき、耳にノイズが走った。
《……シルエット……応答して……聞こえる……?》
ヴァンプの声だった。
「……!」
《そんな声に耳を貸すな、死んだ奴の復讐をしよう、生きてる奴はその次だ》
うるせぇ、黙ってろよ。
幻覚が崩れる。空が戻る。風が頬を打つ。
《あたし、生きてる。今、逃げてるとこ。……あんたも、生きててよかった》
「……ヴァンプ……!」
シルエットは、心の中で叫んだ。
生きてる……まだ、生きてる奴がいる。
そうだ。仲間は、こんなこと言わない。
スコアも、グリッチも、パッチワークも……ヘッドライトも誰かに復讐してくれなんて、絶対に言わない。
――あの人たちは、そんなくだらない怒りのために、命を懸けていたんじゃない。
「……クソが……! てめぇらは、俺の仲間の顔したただの影だ……!」
黒い幻影が消えていく。歪んだ影の声が、風に溶けていく。
《ああ、そうさ。お前の怒りと絶望で、俺たちは生まれたんだ。だが忘れるな──影はいつでも、お前のそばにいる》
その言葉を最後に、意識が戻った。
重力を掴み直し、翼が正しい軌道を描いた。
「……ヴァンプ。今、そっちに向かう」
生きて帰る。
それが、あいつらの死を無駄にしない唯一の方法だ。
「ユウナが、待ってる……」
風を切って、飛翔する。
《シルエット》は、かつて影を恐れていた男が、影と共に空を駆けた夜だった。




