39話 駄菓子屋の裏メニュー
——影に、心があるのなら。
喉の奥に何かが引っかかったような息苦しさ。
焼けるような喉、熱く滲む視界、脈打つこめかみ。
だがそれ以上に、この胸の奥に、別の何かが目を覚まそうとしていた。
《シルエット》。
その男は、震える指先で薬品の瓶を掴んでいた。
目の前に転がっているのは、歪んだ巨体。
ベヒモス。
さっきまでの人間の面影は微塵もない。
皮膚は裂け、筋繊維は膨張し、牙を剥いた獣のように唸っていた。
「飲むのか。……そのラプスを」
ベヒモスが、咆哮の隙間に言葉を滑り込ませた。
「成人がラプスを使用して能力者になるのは、実にリスキーだ。ほとんどの人間は肉体が耐えられず、精神も崩壊する」
「じゃあ、なぜお前は能力者なんだよ」
「……それは君が知ることじゃない」
ベヒモスの巨体が一歩、床を揺らす。
「君の使った薬品は、能力者にする副作用で、“自我”の崩壊を促す。自分が誰かも、なぜ戦っているかも分からなくなる。魂ごと“薬の器”になる。……それでも、なお、打つのか?」
無言でアンプルの封を切り、注射器を腕へ突き立てた。
「そういうバカは、昔からいてな。……何かを守るためなら、自分なんざどうでもいい」
薬が血に混ざった瞬間、視界が反転した。
神経が焼かれ、骨が悲鳴を上げる。
皮膚の下で血管が踊り、頭の奥で声が響いた。
(死ね。全部潰せ。お前は“影”だ。形は要らない。ただ殺せ)
「っは……!」
歯を食いしばり、崩れる体を壁に叩きつけて立った。
視界に“黒”が染み出していく。
地面に、自分の影が揺らめいていた。
だが、それはもう“ただの影”ではなかった。
そこから伸びる漆黒の“腕”。
それが彼の背中から、まるで翼のように広がる。
「──あぁ、これが……“影”ってわけか」
目の前の化け物を見上げながら、笑った。
「笑えねぇ……が、いいセンスしてるだろ」
影が地面から弾け、ベヒモスに飛びかかった。
それは鞭のように、刃のように、時に腕のようにベヒモスの肉体に打ち込まれる。
ベヒモスは腕を振るった。空気が裂ける。
その瞬間、シルエットは床に落ちる自分の“影”へ沈みこんだ。
――ズリュ。
黒い液体のように影へと沈んだ身体が、ベヒモスの背後から這い出す。
影は通路。影は盾。影は刃。
「……影の中を移動できるか。ずいぶん器用だ、だが――」
ベヒモスの背中から棘のような突起が飛び出した。
シルエットが影から跳ねるように離脱すると、コンクリの壁が粉砕される。
シルエットはすぐに反撃に出た。自分の背中から“影の腕”を三本、ぶわりと伸ばす。
一本は喉元へ。一本は足元へ。もう一本は、心臓めがけて真っ直ぐに。
ベヒモスは咆哮し、二本の影を掴み砕くが――三本目に気づいたときには遅い。
“シュッ”。
影の刃が心臓を貫き――と、思った瞬間、ベヒモスの胸が裂け、別の筋肉層が現れた。
「……冗談じゃねぇ。内臓が二重……?」
「人の限界を超えるには、それくらいの改造は必要だったさ」
血の気も引くような再生速度。脈打つ異形の心臓がむき出しになる。
「君の使った薬品は、能力者にする代わりに自我を削る」
「“影”に溺れれば、すぐに君も廃人になるよ」
シルエットは、わずかに笑った。
「なら、今日くらい……この身を、影に捧げる」
地面に、全身の影を広げる。光源に逆らい、影が自在に動く。
床、壁、天井。あらゆる影が、シルエットの影に飲み込まれていく。
まるでこの空間が、彼の“領域”になったかのようだった。
そして――
「――影葬」
静かに、呟いた。
その瞬間、ベヒモスの足元から、黒い杭が何十本も伸びる。
両足を絡め、腹を刺し、背を縫い、最後に――心臓を、握り潰した。
“ズシュッ”。
ベヒモスの巨体が震えた。肺から空気が漏れる音が、ひゅう、と短く鳴る。
目の焦点がぼやける。異形の腕が、がくりと垂れ下がった。
「……ば……かな……」
巨大な身体が、崩れるように倒れた。
――勝った。
そう思った、そのときだった。
シルエットの膝が崩れる。頭が割れそうなほどに痛む。
耳鳴り。視界の歪み。言葉が、思い出せない。
「っ、くそ……!」
壁に手をついて息をつく。だが自分の手の影が、まるで他人のように見えた。
――これが副作用か。
「影ってのは、深いほど……自分も沈むってわけか」
シルエットは笑った。
渇いた、かすれた笑いだった。
だがまだ、終わっていない。
この先に、ノクターンがいる。
パッチワークの死も、ヴァンプの安否も、まだ確かめられていない。
地面に広がった自分の影が、じわじわと身体を飲み込もうとしていた。
「……死んでる暇はねぇよ、まだな」
彼は、自らの影から抜け出すように、歩き始めた。
そして、その背に、再び光が射すのだった。