38話 灰と影と
音が、消えた。
コンクリートの床に響いていた靴音も、グリッチの絶命とともに途絶えた警報も、今はただ、鼓動の音だけが世界を支配していた。
「……グリッチ」
シルエットが呟いた名は、返ってこない。床に崩れた若い仲間の亡骸。手には折れたドローンのパーツ。その横に立つのは、殺意を生き物にしたような巨体──ベヒモス。
「お前の足音は、象が全力で駆けてくるくらいにはうるせぇな」
口元だけで毒を吐きながら、じりじりと後退する。だが、逃げ道はない。背後には瓦礫と崩落した壁。ベヒモスが塞いだ通路に、戻る選択肢はない。
「いいねえ……いい声だ。そうやって絶望しながら生き延びる顔を見るのが、一番いい……」
ベヒモスの声は、にじむような嗤いに濡れていた。先ほどまで人語を操っていた知性が、既に何か別の感情に侵食され始めている。それは本能、あるいはもっと原始的な衝動。殺すという行為そのものが、彼の“言語”だった。
「お喋りすぎんだよ、研究者ってのはよ……」
シルエットは懐から、一本の棒付き駄菓子を取り出す──ラムネフラッシュ。炭酸ラムネを模したその細工菓子は、衝撃と同時に高輝度の閃光を発し、目眩ましとして機能する。
「せめて一発、目に入れてやるよ」
それが合図だった。
次の瞬間、ラムネフラッシュが床を転がり、閃光が辺りを白く染める。ベヒモスが咄嗟に目を瞑った隙を突き、シルエットは横の通路へ飛び込んだ。
影ではなく、本物の逃走だった。
「ハァ……ハァ……ッ」
息が荒い。肺が焼けつくように軋んでいる。左足の太腿に負った裂傷が、じわじわと血を流しながらスーツの裾を濡らしていた。
ベヒモスの一撃はかすっただけでこの有様。まともに喰らえば骨ごと砕けていただろう。
「ちくしょう、あんなもん、もう人間じゃねぇ……」
だが、立ち止まるわけにはいかない。グリッチの仇を討つにしても、生きて帰るにしても、ここで倒れる選択肢だけはない。
非常階段へとつながる扉が見えた瞬間、床が爆ぜた。
「っ……!」
ベヒモスが壁を砕いて現れる。追ってきたのではない。奴は音で追跡などしていない。鼻、あるいは記憶、もしかすると第六感。獣のような本能が逃がす気など微塵もなかった。
シルエットはすぐさま階段を駆け上がる。肺が焼ける。視界が揺れる。銃すら持っていない。使い切ったガム銃は研究室に落としたままだ。今の彼にできることは、ただ──
「逃げることだけかよ、俺は……!」
自嘲と怒りが混ざる。
風が、吹いた。
屋上の扉が音を立てて開かれた。
冷たい風が吹きつける。見上げれば曇天の空、夜と朝の狭間。雨粒がぽつり、ぽつりと肩を濡らす。
「はっ……!」
ようやく辿り着いた──そう思った瞬間、視界に入ってきたものが、肺からすべての酸素を奪った。
「……嘘、だろ……」
そこに転がっていたのは、見覚えのある男の、上半身だった。
血に濡れたタクシー会社の制服。左腕には、ボディアーマーが食いちぎられたような痕。頭部はかろうじて原形をとどめていたが、瞼は閉じられ、口はわずかに開かれたままだった。
「ヘッド……ライト……」
その名を呼んだ声は、風に飲まれて消えた。
何があった? 誰が殺した? ノクターンか? それとも、別の──
「よくここまで来たな」
低く、乾いた声が響いた。
振り返れば、そこにいたのは──ノクターン。そして、その隣には、見知らぬ男が立っていた。
スーツ姿。右手には長身の杖。瞳は血のように赤く、口元には冷笑だけを貼り付けた、明らかな“異物”。
「紹介しよう。彼はアモン──ヘリオス製薬幹部の方だよ」
ノクターンがそう言ったときには、シルエットの拳は既に動いていた。
「ノクターン……!!」
叫びと共に殴りかかったその拳は、アモンに掴まれた。人間とは思えぬ速度。無表情のまま、アモンは静かに告げた。
「お前の怒りは理解できる、だがダメだよ」
その言葉の直後、屋上の扉が再び揺れた。
「チッ……追いつきやがったか」
咆哮が響く。
ベヒモスが屋上に現れたのだ。
逃げ場が、なくなった。
「こんなもんかよ……こんな終わり方で、誰が納得すんだ……!」
シルエットの拳が震える。
だが、アモンが視線を逸らした一瞬の隙を突き、シルエットは床を蹴った。死角を抜け、ベヒモスの突進を躱すと同時に、非常階段とは逆方向──東側の通用口へと駆けた。
扉を蹴破り、階下へ。
「逃げたか……」
アモンの目が細くなる。
「追え、ベヒモス」
「私に命令するな、言われなくても始末する」
コンクリートの壁がひび割れた細い廊下。どこへ続くかも分からぬその先に、シルエットは転がるように飛び込んだ。
「はぁ……はっ……クソ……どこでもいい……どこかに、隠れられる場所を……!」
突き当たりに見えたのは、重厚な鉄製の扉。非常灯に照らされたその部屋の札には、見慣れない英数字と、研究番号。
ドアを開けると、薬品の匂いと共に、静まり返った部屋が広がった。
棚。試験管。冷却装置。
そして──中央の台座に置かれた、一本の注射器。
そのラベルにはこう書かれていた。
《ラプス試作型 No.12》




