36話 Kein Puls mehr
ラウンジの扉が閉まる。ヴァンプはコーヒーチケットを片手に、ヒールを鳴らして廊下へと歩き出した。
「はぁ……暇ねぇ、あたし。受付のバイトでも始めようかしら」
静まり返った研究棟の廊下には、人の気配がほとんどなかった。ヘリオス製薬の巨大な本社ビルの地下。その最奥、選ばれた研究者だけが出入りを許される区域。
ヴァンプは、軽い足取りで施設の自販機まで向かっていた。
一方その頃。
パッチワークは研究ブースの奥に立っていた。白衣のポケットに試作薬の試験データ、端末にはラプスの成分解析が映し出されている。額の汗を指で拭い、彼はモニター越しに発光する構造式を睨みつけた。
「ふむふむ……こいつぁ毒だねぇ。なのに作用機序は……おっと、妙に神経系に優しい?」
独り言のような声で呟きながら、試験管を一本手に取る。紫がかった液体が揺れた。
「……こいつは、効く。少なくとも“あの子”の暴走抑制には……」
と、そのときだ。
彼の背後、静まり返っていた研究室の壁際。金属の扉。そこは研究者たちが一日に何度も出入りしている“立入制限区域”だった。だが今、その扉が一瞬だけ開かれ、白衣を着た誰かが出ていく。
──チャンスだ。
なぜかそう感じた。
パッチワークは視線を扉に向けた。
シルエットほどではないがパッチワークの勘が働いたのだろう。
「何やら嫌な匂い。ヴァンプさんほどではないですが、研究者として何か感じる……。ちょいと覗かせてもらうとしますか」
足音を殺し、白衣の裾を揺らして奥へと進む。薄暗い通路、電飾の一部がチカチカと点滅していた。
そして、扉の奥。
そこには、別の世界が広がっていた。
ガラス越しに並べられたカプセル。培養液の中で呼吸するもの、人間とは思えぬ異形、静かに眠る“それら”に向けられたカメラと記録装置。
「……まじですか……こいつは……!」
パッチワークの目が細められる。そこに映るラベル。
記録映像には、暴走する被験者たち。医師らしき者が冷静に経過を記録する姿。実験監督の机に置かれていた書類、その署名には──
「……まさか。あたしは今……とんでもないですよこいつは!ヘリオス製薬どころじゃないッ、もっと上何か巨大なものが、!」
次々とデスクトップのフォルダを開き覗いていく。
暴かれる真実。彼は呼吸をするのも忘れて見入っていた。
だからだろうか。
気づかなかったのだ。
背筋を、氷のような何かが這ったことに。
気づいた時には遅かった。
パッチワークは机にあった手鏡を背後を確認する。
鏡の中に映ったのは、白髪の老人だった。ここの責任者と名乗った老人。
その手にはサプレッサー付きの拳銃。
「あなたは、知りすぎたようだな」
「ハハッ、現実で私が言われることになるとは」
急いで端末を接続し、グリッチにデータを送付するが、エラーの表示。
受信先がありません。
再度送付してください。
「マジですか」
「ベヒモス様がすでに始末済みだ、もう少し早ければ、彼らも真実に辿り着けただろうに」
パッチワークはどうすることもできずゆっくりと振り返る。頭をボリボリとかき、バツの悪そうな顔をする。
「悲しいっすね、あたし、あの子を救えなかった」
乾いた音が、研究室に響いた。
* * *
「……なによこれ」
ブラックコーヒーしかない自販機。
しかもあったかいのしかない。
「ったく、寝不足の人しかいないわけ?」
しょうがなくブラックを買いパッチワークの元へ向かう。研究棟を戻る途中、ヴァンプは眉をひそめた。
警報も鳴らない。けれど確実に“何か”が起きていた。
空気が変わっている。
廊下を横切る武装兵。銃を構えた彼らは、まるで“何か”を探しているようにキョロキョロしていた。
──匂う。
血の匂い。それも──パッチワークのもの。
「嘘でしょ……!?」
ヴァンプは辺りを見回した後、素早くヒールを脱ぎ捨て天井裏へと逃げ込む。
中は暗く、狭い。だが彼女は訓練されている。
心拍を落とし、匂いに集中する。
数十メートル先、誰かが通気口のカバーを外そうとする気配があった──まずいわね。
《ザザ……》
「……なによっ、こんな時に」
《ピピ……》
通信が繋がった。
「……出たわよ。どうしたの、甘党店主さん」
『パッチワークは……一緒か?』
「……いないわ…………さっきまでいたけど。いまは、たぶん……もう、いない」
『……確認したのか?』
「血の匂いがしたの。濃くて、鉄臭くて、……あたし、知ってるのよ。彼の血の匂い」
彼女の頭は冷静と怒りと混乱が混ざっていた。
「でもあたし、まだ信じたくない。だからあなた、暴れてきなさい。そっちの怪物、倒して……証明して。」
「……ああ。必ずだ」
忍び寄る足音。
確実に近づいてきている。
通話が切れた。
ヴァンプは息を殺し、闇の中を這うように進んでいく。
背後では、研究所という名の地獄が、静かに牙を剥き始めていた。




