34話 Die Verwandlung
コンクリートの奥で、靴音が止んだ。
重く、沈み込むような気配。獣とも人ともつかぬ、しかしどこかで記憶に触れる匂いをシルエットは感じ取った。
「誰だ……」
声に応じたのは、鋭く張り詰めた静寂だった。
次の瞬間、白衣の裾がゆらりと揺れ、ひとりの男が姿を見せた。
身なりは整っていた。白衣、端整な眼鏡、冷たい無表情。研究者にしては異様な存在感があった。空気が、その男の周囲だけ腐りかけているようだった。
「お初にお目にかかります、諸君」
男は丁寧に礼をした。
「私はベヒモス。ヘリオス製薬の“製造責任者”とでも申しましょうか」
グリッチが目を細める。
「……こいつ、データにあった。ラプスの実地開発責任者……!」
「その通り。情報部門も優秀ですね」
ベヒモスは眼鏡の縁を指で押し上げた。
「さて。これ以上、踏み込まれては困ります。お帰りを。あるいは、ここで“廃棄物”として処理されるか」
「ふざけるな。お前が……あのクスリで子どもたちを化け物に変えたのか」
シルエットが低く唸った。
だがベヒモスは、まるで教壇に立つ講師のような穏やかな声で返す。
「“変えた”?違いますよ。私たちは“可能性を開いた”のです。倫理や法の呪縛から、ね」
その瞬間、グリッチが舌打ちした。
「クズ野郎……」
ベヒモスは軽く顎を上げた。
「では、始めましょうか。“実験”を」
そう言った途端、彼の身体が異様に膨張し始めた。
骨が軋み、皮膚が裂ける。白衣がはじけ、筋肉と異形の装甲が露出する。
人の形を留めていた輪郭が、ねじれ、崩れ、怪物の輪郭へと変わっていく。
「うわ、マジで変身すんのかよ……ッ!」
グリッチが一歩後退した。
ベヒモスは、元の口からはもう声を発していなかった。
喉の奥からは不協和音のような唸りと、爆ぜるような振動音だけが漏れていた。
異形の巨体が、研究室の天井を軋ませながら立ち上がる。
シルエットはひとつ、舌を打った。
「まったく、科学の進歩ってやつは……洒落がきかねぇな」
「シルエット、退いた方が……!」
そう言いかけたグリッチの肩を、何かが裂いた。
音もなく走った影が、彼の胸を貫いていた。
「……が……ッ」
「グリッチ!!」
振り返った時には、グリッチの体はもう宙に浮かんでいた。
ベヒモスの異形の腕が、彼を持ち上げていた。爪は心臓部を貫通している。
「技術者は素晴らしい。だからこそ、素材としては……惜しいですね」
無感情な瞳が、グリッチの生命の灯火を観察していた。
だが、それは長くは続かなかった。
ズシン、と鈍い音がし、グリッチの身体が床に転がった。
「……チクショウが……」
シルエットがポケットから何かを取り出した。
小さな包み。鮮やかなパッケージには、レトロなロゴ――**“サワーショック・キャンディ”**と記されている。
それを口に放り込み、噛み砕く。
「……やれやれ。血の味と、駄菓子の酸っぱさ。これが本職に戻る合図ってわけか」
シルエットは右手を振るうと、手に“仕込み飴”を模した短剣を握っていた。飴細工のような外観ながら、刃は戦闘用の複合素材だ。
「ベヒモスだっけか……。そいつはありがたいな。お前の存在ごと、“ラプス”の化け物どももまとめて」
構えた短剣の先が、異形の胴体を狙う。
「——削除する」
爆ぜるように、シルエットが踏み込んだ。
床が砕け、キャンディナイフが異形の腕を弾く。激しい火花と衝撃音。
ベヒモスが咆哮を上げた瞬間、研究室の壁面が熱風とともにひび割れた。
重たい空気が、ゆっくりと血と硝煙に染まり始める。
駄菓子の匂いは、もうほとんど残っていなかった——。
「……やれやれ、随分と期待外れだな」
グリッチの身体が崩れ落ちた床の前で、男が立っていた。
否――もはや“男”と呼べるのかも怪しい。白衣は裂け、皮膚は泡立つように脈打ち、背骨が隆起し、黒い外骨格のような装甲が肩から肘までを覆っていく。
それでもその瞳は、研究者の光を宿していた。冷徹で、確信的で、救いようがないほどに“合理”だった。
「彼はただの技術屋だった。人間の限界で当然。だが……滑稽だったな。死ぬ間際まで“仲間”を守ろうとしていた」
シルエットの顔が、ピクリと動く。
キャンディ型のナイフを握りしめる手が、微かに震えていた。
「グリッチは……うるさくて、冗談ばっかで、でも肝心なときには絶対に外さない男だった」
「ふうん?」
ベヒモスの声がくぐもりながら低く響く。
「なのにお前みたいなやつに、“滑稽”だと?」
シルエットの瞳が鋭く細まった。
静かだった。言葉は沈んでいた。
だが、駄菓子屋の棚にそっと置かれた飴玉のように、ゆっくりと“熱”が滲み始める。
「一個百円のガキの夢を、命懸けで守るやつだった」
「そんなもののために、命を使う奴がいるとはな……」
「いるさ。俺の仲間には、な」
シルエットは一歩、前へ。
床板が微かに軋む。
空気が変わった。殺意の温度が、場を支配した。
「――試してみるか。駄菓子屋の本気を」
構えは低い。肩越しに構えたのは、棒付きキャンディ型のスタンブレード。
飴玉の部分に電荷が溜まり、棒の中に仕込まれた伸縮針が、キィン、と音を立てた。
「子ども騙しで何が――」
言葉の途中、シルエットの姿が掻き消えた。
次の瞬間、ベヒモスの左肩に深く突き刺さったナイフ。
雷光のような電撃が奔り、異形の皮膚を焦がした。
「っ……クッ!」
ベヒモスが咆哮し、腕を振るう。
空気が唸り、シルエットは後方へ跳ぶように身を引いた。
「まだだ――!」
地を蹴り、再び距離を詰める。
左手のポケットから取り出したのは、ソーダガム型の閃光弾。
「目、潰してやるよ」
ガムを握り潰す。
ドン、と低い音と共に白煙が弾け、フロア一面が青白く照らされた。
しかし。
「……甘いな」
煙の中から、異形の影が突き出た。
ベヒモスの腕が膨れ上がり、鎖のような骨がうねるように飛び出す。
「ッ……ぐ!」
シルエットの脇腹を捉えたそれが、体を打ちつけるように弾いた。
壁へ叩きつけられる音が、コンクリートに乾いた残響を残す。
「貴様らが“仲間”を盾にするなら、こちらも見せてやろう。
人間を、どこまで“改造”できるかをな」
骨が割れ、筋肉が裂け、ベヒモスの背から触手状の骨の腕が二本、追加で伸びた。
足元の床すら砕きながら、それは“生物兵器”の完成体へと移行していた。
「ちっ……あいつが、ラプスの研究者かよ……!」
呻きながら立ち上がるシルエット。口元から血が滲んでいた。
視界がぐらつく。だが、引けない。
仲間を侮辱されて、立ち止まれるわけがなかった。
「グリッチ……見てろよ」
立ち上がる足に、意思が宿る。
敵は人間じゃない。化け物だ。
だが、こちらも“覚悟”はとうに化け物だ。
「テメェの研究成果ってやつが、どれほどのもんか。……試してやるよ」
コートの裾が揺れ、再び棒付きナイフが手の中で煌めいた。
床に残る血と汗の匂いを、風が撫でていく。
その先には、まだ終わらない戦いが――待っていた。