33話 Masquerade
雨上がりの空は鈍色に濁っていた。
濡れたアスファルトにピンヒールが響く。
銀座で夜を泳いできた女が、朝の陽に煙る港湾都市を歩いている。ヒールの先端が水たまりを踏み抜くたび、濁った世界に花が咲いた。
「で、あたしたちが頼るのが……ここ?」
そう言ってヴァンプが見上げた先には、巨大な医療研究施設のロゴが堂々と掲げられていた。
ヘリオス製薬。
「パッチ、アンタ本気で言ってるの? 民間の製薬会社に、こんな薬の治療薬開発を頼むなんて」
「ほいきた。疑念と不安のジェットコースター、まいどありっと」
隣で白衣を翻し、カチューシャの下の髪は無造作に後ろへ流され、笑みは飄々として掴みどころがない。
「本音を言うと、あたしもも気が進みません。上に泣きついても連絡が全くない、ならいっそ、薬屋の本丸へ頼むって寸法っす」
ヴァンプは唇を歪めたまま、施設を睨む。
「どこまでいっても……ねぇ、この会社のCM見たことある?」
「あー、えーと、テレビCMでは天使の笑顔で赤ちゃん抱っこしてたっすね」
パッチワークは肩をすくめる。
「ま、表向きは“慈善の巨人”その実態を知る者は……いない。きな臭いのもわかりますよぉ〜」
扉が開いた。
受付に現れたのは、白衣を纏った女性だった。髪を後ろでまとめ、無機質な笑みを浮かべたその表情は、どこか仮面めいていた。
「お待ちしておりました。パッチワーク先生、ですよね?」
「ええ、うちの営業のものも同席しますぅ」
「はい。社内にはすでに、研究責任者が待機しております。さっそくご案内いたします」
無表情な案内人に導かれながら、二人は無機質な廊下を進む。殺菌された空気。すべてが静かで、整いすぎていた。
「なんか……やけに静かね」
ヴァンプが囁く。
「科学者って、騒ぎながらもっと床にコーヒーこぼしたり、パスワード叫んだりするもんでしょ」
「それはわたし過ぎます、全ての科学者が私みたいにテキトーなわけじゃないんすよ〜?」
「へぇ、世の中の人たちは真面目に仕事してんのね」
案内人が軽く振り返った。
「お二人とも、どうぞお静かに。ここは医療研究の神聖な場ですので」
「それはそれは、神聖なお屋敷、全力でお邪魔いたします」
やがて研究区画のひとつに通され、分厚い防音扉が閉まる。
そこには、無菌衣に身を包んだ複数の研究員たち。そして奥に立つ、メガネをかけた初老の男がいた。白髪交じりの髪をオールバックにし、年齢不詳な目元が異様に静かだった。
「初めまして。……私が、ここの治療薬開発チームの責任者を務めております」
名を名乗らぬまま、男はパッチワークへと歩み寄った。
「ご依頼の資料、拝見しました。被験者の症状……変異する肉体、薬物への依存、そして精神崩壊の兆候。実に、興味深い」
「はは、実に気に入っていただいたみたいで」
「失礼。もちろん、我々としても倫理的な判断は厳正に行います。ただ、これは……未知の“医療的可能性”でもあります」
ヴァンプが鋭く目を細めた。
「仮にこの薬が広がれば、似たような事案が次々に起こるでしょう。今のうちに“抗体”を研究しておくことは、社会的意義があると考えています」
「言うねぇ……確かに一流」
パッチワークは目元を細め、懐からサンプルファイルを取り出す。
「これが症例第一号と第二号の解析結果。DNA変質、神経伝達物質の異常活性、筋繊維の強化……その代償としての崩壊。どうぞお好きに研究してください〜」
受け取った責任者は無言でそれに目を通すと、やがてうっすらと微笑んだ。
「……これほどのデータがあれば、解析は進められるはずです。ご協力に、感謝します」
「へっ、礼なんて、逆に怖いっすね」
ヴァンプは眉をしかめた。
「じゃ、あたしはちょっとコーヒーでも買ってくるわ。缶でもなんでもいいわよね、あんたはしっかり監視しときなさいよ、パッチ」
「へいへい、お嬢さまの御命令とあらば、白衣の番犬と化しましょうかね」
ヒールの音がまた、廊下に消えていく。
その背を見送りながら、パッチワークはかすかに目を細める。
――信じていいかどうかなんざ、あとでわかりゃあいい。まずは、命を救う方法を探すだけ。
彼の中には、医師としての誇りがまだ、確かに灯っていた。