29話 静寂と夜想曲
他のを書き始めました。
こっちはハードボイルド、あっちはギャグです。
──そこは、忘れられた研究棟の奥だった。
誰にも使われなくなった診療フロア。
割れたガラス、焦げ跡の残る壁、剥がれかけた標語。
そこに、ふたりの影が対峙していた。
「……ずいぶんと、おとなしくなったわね。昔のあなたはもう少し、人の声に怯えてた」
天井から差す非常灯の光が、白衣の裾を照らす。
音もなく立っていたのは、サイレンス。
彼女はかつて学校の裏庭にてシルエットと対峙した。
シルエットとの対話の中、彼に裏切り者の存在を匂わせ消えていった張本人だ。
白のロングコートに身を包み、淡い光沢を放つ目がかすかに揺れる。
「玲……」
口を開いたのは、黒のスーツを纏った男。
サングラス越しの瞳は読めず、杖の先でゆっくりと床を叩いていた。
ノクターン──。
盲目の狙撃手にして、今なおCAINに籍を置く“裏切り者”。
「久しいな。もう、君の声を聞くことはないと思っていた」
「……なら、どうしてここにいるの? まさか“偶然通りかかった”なんて言わないわよね」
「君がここにいると、風が告げていた。……それだけだ」
「……相変わらずね、そういうとこ」
サイレンスの指が、わずかに揺れた。
空気が震える。音にならない音──共鳴が周囲の窓ガラスを軋ませる。
「私はね、ずっと“覚えてた”のよ」
サイレンスは声を振るわせながら続ける。
「あなたの代わりに地獄へ行った。自分で選んだ。なのに……あなたは……」
声が震える。
「……私を裏切った」
ノクターンの顔に、一瞬だけ影が走った。
「玲……違う。俺は──」
「違わない!!」
サイレンスの叫びと同時に、振動波が壁を貫いた。
埃と残響が部屋を満たし、古いスチール机が吹き飛ぶ。
「私は……全部を捨てて、あなたのために、この場所に身を投じたの」
「なのに、どうして。なんで、今さら……“こっち側”にいるのよ」
ノクターンは、その場から一歩も動かなかった。
「目が……見えなかった。何も」
「でも、代わりに聞こえてきた」
「君の声も。……あのとき、泣いていた君の呼吸も、記憶の中の声が聞こえてきたんだ」
沈黙が落ちた。
サイレンスの耳が、わずかに音を拾う。
「でも……俺はどうしても、もう一度“この目”で世界を見たかった」
「ベヒモスがその代償に“何を求めてくるか”くらい……最初からわかってた」
「わかってて、選んだのね」
「……ああ」
答えは、あまりにあっさりしていた。
「最低」
サイレンスの声が震える。
感情ではなく、音波の共鳴だった。
壁の時計が割れ、床が低く唸る。
「あなたを……守りたかったのよ」
「でも……あなたは、自分の意思で、この場所へ戻った」
ノクターンの顔がわずかに歪む。
「君が……守ってくれた世界の先に、まだ“守るべき何か”があると思った」
「たとえ、俺の魂がその代わりに堕ちるとしても」
「正義のつもり?」
「違う。俺はただ、“選んだ”だけだ。誰にも強いられず、誰も責めずに」
しばしの沈黙。
「ねぇ、ノクターン。あなたは、あの頃の私を“正しかった”と思う?」
「……思ってる」
「嘘。……あなたが正しかったなら、私は間違いだったってことになる」
その声は、どこまでも透明で、どこまでも痛かった。
「私ね、今でも夢を見るの」
「あなたがピアノを弾いてるの。白い鍵盤の上で、何も知らない顔で」
「私がそこに戻ろうとすると、音が止まるのよ。……真っ暗になって」
サイレンスは拳を握る。
「私はもう、あの場所に戻れない。戻らない。……でも、あなたも戻るべきじゃなかった」
「もう一度私の前に現れた時、ノクターン」
「次は……本気で、あなたを壊す、これが私の愛情、そして……憎しみよ……」
それだけ言い残して、サイレンスは背を向けた。
振り返らないまま、音もなく消えていく。
残されたノクターンは、その場に立ち尽くす。
彼女の足音が遠ざかっても、杖の先が微かに震えていた。
「……玲、君は、俺の手に残った最後の“音”だった」
その囁きは、誰にも聞かれなかった。
「君にただもう一度会いたかった」
ただ、静かに。
「目が直るのはただのきっかけだ、君のそばに……僕は……」
曇りなき瞳で、彼は再び闇の中へ歩き出した。




