28話 Pavane pour une infante défunte
ピアノの音が、診療所の奥から微かに響いていた。
廃ビルを改装したCAINの仮本部。
部屋のひとつには、なぜか一台のアップライトピアノが置かれている。
白と黒の鍵盤に指を滑らせているのは、飯嶋透──コードネーム《スコア》。
今日は任務の予定もなく、風の抜ける診療室でひとり、ドビュッシーの《月の光》を奏でていた。
「相変わらず、キレイに弾くのね。つい聞き惚れちゃうわ」
ヴァンプが現れたのは、ちょうど曲の終わり際。
いつものようにカランとヒールの音を立てて、壁にもたれかかったまま棒付きキャンディを口に転がしていた。
「おはようございます、ヴァンプさん。……今日は、香水がローズですね」
「さすが、超嗅覚に次ぐ嗅覚の持ち主ね。音の代わりに鼻で覚えてるんじゃないの?」
スコアは肩をすくめ、最後の音を押し込むように弾いた。
「僕のはただの嗜好ですよ。あなたみたいな才能じゃない」
ヴァンプは苦笑しながら、近くの椅子に腰かける。
「ピアノ、続けてたんだ?」
「ええ。高校時代からです。あの頃と変わらない」
「変わらないねぇ……あんただけは」
その声色にはどこか、懐かしさと哀しみが混ざっていた。
そこへ、どさっと何かを背負ったまま診療室に入ってきた男がいた。
「おーい、ここでは静かにしろって習わなかったか?」
──コードネーム《シルエット》。
駄菓子の補充用ケースを担いだまま、眉ひとつ動かさずに言い放つ。
「それは“うるさいやつ”に向けての言葉でしょう?」
スコアが笑うと、シルエットはわずかに口の端を上げた。
「違いねぇ」
「んで、今日はどうしたんだ? 駄菓子屋の売れ残り抱えて遊びにでも来たのか?」
「新作試してみろ。炭酸ガムとエナジーキャンディ合わせたやつだ。多分死ぬぞ」
「味覚のテロね……いいじゃない、あたし甘いの好きよ」
ヴァンプが笑いながら手を伸ばす。
「ったく……オシャレで高級な女が、駄菓子に舌巻いてんのがうちの誇りだ」
その言葉に、ピアノのそばのスコアも吹き出しそうになる。
「ヘッドは?」
「……ああ、いつもの車の中。なんかタクシーの配車アプリいじってたぞ」
「任務は?」
「今日は休みっす!みんなでピクニックでも行きませんかぁ?……ってパッチワークが言ってた」
「じゃあ、今日は……平和ですね」
シルエットが黙った。
ヴァンプも、キャンディを回す手を止めた。
「なによ、あたしが来るときくらい、何か事件が起きてくれた方が燃えるのに」
「平和は、戦場の中で最も贅沢な感情ですよ。……今日くらいはそれに酔いましょう」
スコアは、再び鍵盤へと手を伸ばす。
今度はラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》だった。
「……この曲、なんか嫌な予感するのよね」
「わかります。……でも、悲しい曲ほど、美しく残るんです」
扉の向こうから、誰かの足音が近づいてくる。
「お、みんな揃ってるね!」
グリッチだ。眼鏡をずらしながら、ノートパソコンを肩に提げていた。
「パッチさんが言ってたけど、次の任務、ちょっと大きめかもね、新薬絡みの話っぽいからね」
「また薬か……」
シルエットが眉をひそめる。
「子ども使って人体実験……なんて話だったら、今度こそぶっ潰す」
「大丈夫。誰かが絶対、止めるから」
スコアが、言った。
それは、誰でもよかったのかもしれない。
でも、きっと――この中で一番、“誰かを守ること”に向いていたのは、彼だった。
「……ねえ」
ヴァンプが、ぽつりと言った。
「戦場でも、音って響くと思う?」
「ええ。……音は、死の中にさえ届きます」
「なんだそりゃ、詩人かよ」
グリッチが笑ったが、誰も否定しなかった。
それから数分、誰も何も言わず、音楽だけが部屋を満たしていた。
――あのとき、時が止まればよかったのに。
誰かが、後にそう思った。
けれど、止まらないのが時間であり、世界であり、生きているということだった。
だから、あの旋律は今も、誰かの中で響いている。
廃ビルの奥深く、閉ざされた時間のなかで、
彼らはほんの束の間、“平和”に触れていた。
それが永遠に続かないことを知りながら──
──そして、現在。
地下研究所。
グール。
ラプスに身体を蝕まれ、自我を失った飯嶋透は、破壊された壁際に崩れ落ちていた。
赤い目が、かすかに揺れる。
かつての彼を知る者など、もういない。
──いや、一人だけ。
その体の奥で、かすかに震える記憶。
それは、かつてピアノを弾いた日々の余韻。
ラヴェルの旋律が、崩壊した中枢神経のどこかに、微かに滲んでいた。
誰にも聞こえない。
誰にも届かない。
けれど、それでも、スコアという男はまだそこにいた。
「……生きて……」
壊れた唇から漏れた声。
誰に向けた言葉だったのか、それはもうわからない。
ただ、願っていた。
あの駄菓子屋で笑っていたあの子たちが、
クラブの香水の奥で涙を隠していた仲間たちが、
電子の海で未来を探していた後輩が──
どうか、生きていてくれと。
その祈りが終わったとき、彼の体は静かに崩れ落ちた。
旋律だけが残った。
Pavane pour une infante défunte。
亡き王女のための哀悼曲──
けれど、そこには確かに生きた男の、静かな最期があった。




