27話 Clair de Lune
廃棄された地下研究所の回廊に、再び咆哮が轟いた。
その音は鼓膜を震わせ、思考を削り取る。
ただの叫びではない。“声”の形をした攻撃。
グール──かつて人間だった何かは、赤い目をギラつかせながら、床を引き裂く勢いでこちらへ迫ってきた。
「くそっ、また来やがった!」
「うわぁ!」
グリッチが飛び退き、隅の機材棚に身を隠す。
だがその体勢でも、彼の指は止まらない。後方の扉ロックを解除しようと端末を操作し続ける。
「グリッチ、下がってろ。こいつは――俺たちが」
渋い低音が響いた。
ヘッドライトがその巨体をゆっくりと起こし、手首を鳴らす。
スーツの上着を脱ぎ捨て、肩を回すと、まるで装甲車が動き出したかのような重さが空間に宿る。
シルエットの目がわずかに揺れていた。
「一度、出会ってる」──その記憶が背中を冷やす。
包帯の奥、皮膚の間に見えた断片的な識別番号。
そして、呻き声の合間に、かすかに聞こえた旋律。
クラシックだ。断片的な、ベートーヴェンのソナタ第8番《悲愴》。
壊れたオルゴールのような唸り声で、それは漏れていた。
「……やっぱり……お前、スコアなのか」
その名を呼んだ瞬間、グールの動きが止まった。
一瞬だけ、空気が沈黙する。
だが、それは迷いではない。ただ、反射的な“認識”だった。
「来るぞッ!」
シルエットが叫んだ瞬間、グールが床を蹴った。
コンクリートが砕け、次の瞬間にはシルエットの目の前にその爪があった。
「……っは!」
その動きに反応するように、シルエットは懐から“ラムネボム”を取り出し、瞬時に起爆。
白煙と強烈な炭酸閃光がグールの動きを一瞬止める。
「今だ、ヘッド!」
シルエットの叫びに応じ、ヘッドライトが走り出す。
重い一撃。鉄拳がグールの側頭部に炸裂する。
「効かねぇか……!」
だが、倒れない。いや、体は揺れた。確かに揺れた。
人間のようにバランスを崩し、ぐらついた。
だがすぐに、バキバキと骨の鳴る音がして、グールの体が再び再構築される。
まるで、“壊れ方を忘れた人形”のようだ。
「どんだけ打たれても立ち上がるってのは、ちっとも詩的じゃねぇな」
ヘッドライトが鼻を鳴らした。
「グリッチ、まだか?」
「もう少し……でも、この中、明らかに誰かがデータ書き換えてる……ログが妙に欠落してるんだ……!」
「先に倒した方が早いな」
シルエットは無言で床を蹴った。
その手には“ラムネボム”の改良型──拡散破砕弾。
狙いは包帯の隙間、左肩の露出した神経組織。
「……目を覚ませ、スコア」
投擲。
炸裂。
白い破片が飛び散り、爆風が通路の埃を巻き上げた。
グールの体が再び揺れる。
だが今度は、それだけじゃなかった。
呻くような声が、低く漏れた。
旋律。
ベートーヴェンの《月光》、第二楽章。
それは、スコアがかつて任務の前にいつも口ずさんでいた曲だった。
「おい……」
シルエットの瞳にわずかな動揺が走る。
「やめろ……そんな風に、残すなよ」
その隙を突いて、グールが再び飛びかかってくる。
応じるのは、ヘッドライトの一撃。
そしてシルエットの、渾身の投擲。
駄菓子の袋が弾ける音と、白煙の中、赤い目がゆっくりと消えていった。
ようやく、倒れた。
グール──スコアは、動かなくなった。
その肉体は、再生しかけた状態で凍りついている。
生きてはいない。けれど、死にきってもいないようだった。
「これが、ラプスの末路か……」
ヘッドライトが静かに呟く。
「……こんな形で、再会したくなかったな」
シルエットの声が低く沈んでいた。
グリッチが端末の解析を終え、ようやくこちらに合流してくる。
「この研究所、ヤバいよ。こいつ……“被検体スコア”って名前で登録されてた。しかも、投薬履歴、最終ログが三年前。……行方不明になった時期と一致する」
「ってことは、やっぱり……スコアは、ずっとここに」
「……ああ」
シルエットが、黙ってうなずいた。
「ベヒモス……絶対に、許さねぇ」
その名を呟いた時、遠くの通路の奥に、かすかに何かの気配が揺れた。
まだ終わってはいない。
だが、スコアへの弔いは、今──ここに刻まれた。
誰にも知られず消えた命に、赦しは訪れるだろうか。
それでも、彼らは前へ進むしかなかった。




