26話 Symphony No.5
金属の床をひっかく、不快な擦過音。
それは階段の下から、這い上がってくるように響いた。
「来る……!」
シルエットがすかさず構える。
駄菓子袋に偽装された武器の封を歯で引きちぎる。
「敵はひとり。でも──ただの人間じゃない」
グリッチの通信がノイズ交じりに飛び込む。
「心拍、ない。反応はあるけど……“生きてない”何かが、そっちへ向かってる!」
「下がって、私が先に──」
ヴァンプが一歩前に出ようとした瞬間、スコアが手を伸ばし、そっと彼女の肩を押さえた。
「だめだ。君たちはここまで。僕の役目だ」
「ふざけんな……仲間を置いて、逃げられるかよ」
シルエットが噛みつくように言った。
「駄菓子屋だからって、甘く見んな。こちとら賞味期限ギリギリで命張ってんだ」
「私だって……こんな風に終わりたくない。終わらせたくない!」
ヴァンプの目に、悔しさが滲む。
それでも、スコアの表情は変わらない。
彼の目は、どこまでも静かで、澄んでいた。
「だからこそ……僕が、ここで止める」
重い音が響く。
姿を現した“それ”は、明らかに人ではなかった。
長い腕。肥大した筋肉。管を這う薬液。
顔は壊れかけた人形のようで、どこかに“子ども”の面影すら残っていた。
「……試作品だ。完成される前に、壊しておかないと」
スコアはイヤホンを抜いた。
クラシックの旋律が途切れた瞬間、彼の瞳の色が変わったように見えた。
「今のうちに。逃げて、ヘッドライトに伝えてくれ。……ここは“人間の限界”を超えた場所だって」
「……クソが」
シルエットが低く唸った。
「……命令されても、逃げるのは性に合わねぇんだがな」
「先生、よく聞いて」
ヴァンプが震える唇を抑えて言った。
「もし、あんたが死んだら……私は、あんたの教え子だった子に何て言えばいいのよ」
スコアは、ほんの一瞬だけ笑った。
「その子には、“音楽は、いつでも戻ってこれる場所だ”って……伝えてくれ」
敵が動いた。
シルエットが咄嗟に発砲したが弾かれる。
ヴァンプの“心身掌握の気配”も通じない。そいつは、もはや感情のない“実験体”だった。
そして──
スコアが一歩、前に出た。
「退けッ!」
叫ぶと同時に得体の知れない何かは突進してくる。
強化された反射神経、計算された動き、そして長年の訓練による“迎撃”。
それでも──足りなかった。
ヴァンプが悲鳴を上げる。
シルエットが拳を振り上げる。
けれどその瞬間──スコアは、ふたりの前に身を投げ出した。
轟音。
壁が割れ、床が裂ける。
血が滲む音だけが、静かに残った。
「──逃げて、お願いだから」
息が漏れる。
その声が、優しかった。
「君たちは、生きてくれ。……君たちは、まだ、人間でいられる」
照明が全て落ちた。
非常灯の赤だけが、かすかにスコアの背中を照らしていた。
彼は、もう振り返らなかった。
「ッ……チクショウ!!」
シルエットが呻きながら、ヴァンプの手を掴んだ。
振り向くその瞬間、スコアがこちらを見たような気がした。
──その後、彼の姿を見た者はいなかった。
命令の夜は、静かに幕を閉じた。
だがその夜が、のちに生まれる“グール”の影を孕んでいたことを──
誰も、まだ知らなかった。




