23話 一つの終わり、一つの始まり
港区の裏通りに佇む、小さな診療所。
名前も掲げていないその医院の奥、地下にひっそりと広がる空間。そこが、CAINの一時的な作戦拠点だった。
診察台にはユウナが眠っている。
額には冷却パッド。表情は穏やかだが、手の指先が時折ぴくりと動いていた。
「ふむ……筋肉と神経のリバウンド反応、想定通り。
でも脳波がやや過敏だねぇ。夢の中で誰かと“会ってる”かも」
コードネーム《パッチワーク》。
黒いカチューシャにアロハシャツ、その上に白衣を羽織った医者が、診察台の脇でモニターを覗き込んでいる。
「“ユウくん”か」
ソファに座ったシルエットが、口を閉ざしたまま低く呟く。エプロンのポケットから出したラムネ菓子を指先で転がしていた。
「近所に住んでて、よくうちに駄菓子を買いに来てた。……他人には見えねぇよ、あの二人」
「そりゃあそうね。あの子、守るって決めた目をしてた」
診察室の奥、壁にもたれたヴァンプが髪をかき上げる。
銀座のクラブで客の嘘と欲を嗅ぎ分けてきた女──今はその目で、命の真贋を見極めていた。
「んで先生、回収してきた薬品の解析はどう? そっちの仕事、あたしら素人なもんでね」
「いい質問。結論から言うと──無理っす」
パッチワークがタブレットを指ではじく。
「この診療所の機材じゃ解析は不十分。
薬の構造が異常すぎて、処理できるだけの装置がない」
「……っち、せっかく命がけで持ち帰ったってのによ」
ヘッドライトが低く呻く。
無造作に伸ばした髪を指でかき上げながら、煙草代わりに口に飴玉を放り込んだ。
「なら、私の知り合いをあたってみますか?大手の製薬企業に勤めてる研究員なんすけど、検体とデータを精査して、薬の成分と投与の意図を調べてもらうってとはどうでしょう」
「建前は?」
シルエットが目線だけで問いかける。
「“診療所で発見された異常な症状の患者由来の検体”。いかがです?」
「私も同行するわ。接待慣れしてる分、口説くのは得意なの。パーティでも酒席でも、嘘は香水より強く香るのよ」
ヴァンプが片目を閉じた。
「じゃあ、お前らが“表”で動くなら──俺たちは“裏”ってことだな」
シルエットがそう言って、机の上に地図を広げた。
地下闘技場の記録データをもとにグリッチが作った、空白区画の詳細な座標図。
「ここね。ログがごっそり消されてた部分。間違いなく“隠してる”」
グリッチがノートPCを広げ、カチャカチャとキーを叩く。
「通信遮断、熱源ロック、監視システムの非連動……
やってることがもう、典型的な“ヤバい研究所”って感じだね」
「だが行く価値はある」
ヘッドライトが短く言う。
「地下に何を埋めようが、地上に引きずり出す。それが俺たちの仕事だ」
そのとき、ユウナが小さく身じろぎした。
まぶたがわずかに震え、毛布の下で指がきゅっと丸まる。
「……ユウくん……」
囁くような声。だが、それは確かに呼びかけだった。
「目が覚めたら、全部変わってるくらいで丁度いいわ」
ヴァンプがそう言って、ユウナの髪をそっと撫でた。
「この子が“また笑える場所”、ちゃんと残しておかないとね」
「さあて、久々にスーツ着ますかぁ!サイズ入るといいんだけどなぁ……」
パッチワークが白衣を翻し、口笛を吹いた。
地下の診療所には、しばしの沈黙が落ちた。
だがその沈黙は、決して絶望ではなかった。
戦う準備を整えた者たちの静けさ。
それが、嵐の前の空気だった。