22話 女狐
リングの下で交わされる拳の音。
歓声、肉が裂ける音、血の匂い。
その全てを天井裏の薄暗い通路で、ヴァンプは嗅ぎ分けていた。
ヘッドライトと黒糖が“獣の檻”に入った今が──こっちの“狩り”の時間。
銀座で身に着けたハイヒールは、今はラバーソールのブーツに。髪はひとつに結び、ボディスーツに身を包んだ彼女は、獣のように静かに施設の奥へと潜っていた。
この地下闘技場の構造は、グリッチから受け取った図面と一致している。
だが図面にはない“ノイズの集中区画”──それがヴァンプの狙いだった。
モニタールーム。中央制御区画。データはすべて“そこ”で集約される。
赤外線センサー、体温感知の網、レーザー式のトリップワイヤー。
それらを、嗅覚で回避していく。
ヴァンプの持つ超嗅覚は、わずかな金属の焼けた匂いや空調の温度差すらも探知できる。
五感の中で最も原始的で、最も鋭敏な“嗅覚”──それが彼女の武器だ。
数分後──
たどり着いたのは、薄暗い中央監視室。
外から見るとただの倉庫。だがドアのロックは最新式の生体認証だった。
「さて、どうやって“開けてもらおうか”……」
ヴァンプは静かにツールを取り出す。
薄く微笑みながら呟いた。
「グリッチ、あんたの玩具の出番よ」
ドアロックにハック用の小型端末を装着。
赤い点滅が緑に変わった瞬間、スッとドアが開いた。
中に広がっていたのは、冷たい光を放つモニターの壁。
中央には操作端末、背後のラックにはデータ保管用ドライブ。そして、部屋の奥──まるで“冷蔵ロッカー”のような中に冷却カプセルがいくつも並んでいた。
「……お宝の匂いがプンプンするわね」
端末を起動し、データベースにアクセスする。
項目名をランダムにスクロールしながら、彼女の目が止まった。
《開発主任:ベヒモス / 元・国立特別医科学研究機関 / 認可剥奪済》
「……ベヒモス? 聞いたことのないコードネーム。でも──国立ってことは、もともと“上の人間”ってわけね」
そのデータの中には、試験薬ラプスの投与ログ、能力者適合率の記録、そして──暴走後の“破棄”ログが複数存在していた。
「この名前……どこかで──ああ、ユウナがいた実験記録の番号と一致してる。つまりあの子も、このベヒモスの“作品”ってわけね。」
ヴァンプはログの一部をポータブル端末へ転送。
さらに奥のロッカーへと目を向けた。
「で、ここには“モノ”があるのよね」
冷蔵庫を開ける。
中には複数の小型試験管──名前のないコードが並んだラベル。
そのひとつだけに、手書きのタグがぶら下がっていた。
《R-03 - 第二次投与型 / 被験者:戸田》
「あなた、さっきシルエットが倒した子……ね」
そっとその試料をポーチに収める。
このDNAサンプルがあれば……あの医者、パッチワークなら“毒”の構造を割れるかもしれない。
「ごめんなさいね、“観察者”さん。ちょっとだけ、お借りするわよ」
部屋を出る直前、ヴァンプは振り返って一度だけモニターを見た。
そこには、すでに試合を終えて控室へ戻るふたりの仲間──ヘッドライトとシルエットの姿が映っていた。
「次にカードを出すのは……私たち、ってことね」
ドアを閉め、気配を消す。
地下の深淵で──誰にも知られず、
狩人は“牙”を持ち帰った。