20話 鉄拳!タクシードライバー!
観客席からの歓声が、リングの床を震わせていた。
金網の内側──その中央に、二人の男が対峙していた。
一人は無言で構える中年男。
もう一人は“B-22”と呼ばれた若いファイター。筋骨隆々、だが瞳は虚ろ。口元には薄く笑みを浮かべている。
CAINの“ヘッドライト”は、黙って足をずらした。
コンクリートの床の硬さを、靴底から感じ取る。
汗の臭い……血の染み……これは戦場だ。
今、自分がここに立っている意味。
ただ情報を得るため? 地下組織の真相を暴くため?
──違う。たぶん、自分はこの熱を、求めていた。
「──始め!」
アナウンスと共に電子音が鳴る。
次の瞬間、B-22が突っ込んできた。
速い。
拳の軌道は、アマチュアのものじゃない。
けれど──
……軽いな。
矢代は体をずらし、拳を肩先で受け流す。
ガードを割るだけの力はない。だが、速度と筋力のバランスが異常だ。
筋肉だけを“植え付けた”ような動きだ。反射も人間の域を超えてる。
薬か。ラプスの類か。
それでも──彼の心は、不思議なほど澄んでいた。
──ゴッ。
拳を交えた瞬間、関節が軋む。
骨の奥が、ジリジリと火を吹いた。
…重い。
拳がぶつかった瞬間、関節に鈍い痛みが走った。
ガードの下から噴き上がる熱。骨の奥が、ジリジリと火を吹いているようだ。
──昔なら、一発で仕留められた。
だが今は違う。膝に違和感、腰のキレも足りない。
息が、思ったより早く上がる。
……年だな。
苦笑が、喉の奥で湧いた。
だが──なぜか、顔が笑っていた。
「……ああ、クソ……懐かしいな……」
足元に染みついた汗と血の匂い。
頭の中に、あの戦場の熱が蘇る。
誰かを守るためじゃない。国家のためでもない。ただ、戦う。
ただ──拳で“理解り合う”。
体はガタが来てる。スタミナも怪しい。
だけど心は……たまらなく、昂っていた。
「あの頃のままだ……リングの中にいる限り、俺は生きてる」
“ガン”と肩に鈍痛。
相手の拳を受けてよろめいたが、笑みは消えない。
この痛みが……最高だ。
もう引き返せない。
老いた体を説得して、足を前に出す。
──戦場に還る。
その一歩一歩が、燃えるように熱かった。
「……ハッ」
思わず笑っていた。
拳の重み。皮膚を裂く感覚。相手の体温。
あの戦場を思い出す。
手に持っていた銃の代わりに、今はこの拳がある。
老いぼれの身体に、まだ火は残ってるか──試してみようじゃねぇか。
心臓が、強く脈打つ。
肩が悲鳴を上げる。
だが、熱い。熱くて、たまらなかった。
「体はガタついても、魂はリングの真ん中に立ってる」
“戦う”という意味が、ただそれだけで彼を奮い立たせていた。
B-22の拳が顔を掠める。
寸前で回避するが、かすっただけで顔の皮膚が裂ける。
「……っ、くそ、バケモンめ」
痛みも、恐怖も、燃料になる。
左肘で敵の顎をかすめ、すかさずローキック。
続けざまに肩へと掌底──だが、B-22は崩れない。
「効いてねぇ……いや、効いてるはずなのに、“止まらない”」
無理やり意識をつなぎ止めているのか。
それとも、痛覚そのものが抑制されているのか。
歯を食いしばり、ヘッドライトはステップを踏む。
ガードの隙間を、的確に狙う。
右ストレート。膝。足払い──
それでも倒れない。
「だったら──こっちも意地だ!」
矢代はリングの隅へ向かい、強引に背を取った。
体を締めるように回し、肩ごと引き倒す。
ガンッ!
B-22の後頭部が床に叩きつけられた。
ようやく、敵の動きが止まる。
「勝者──《Z-79》!」
場内にアナウンスが響く。
だが、矢代はしばらく動けなかった。
自身の心臓の鼓動が、耳の奥でうるさく鳴っている。
……戦ってる、まだ俺は。これが最後の戦いになるかもしれねぇが、身体が、血が……笑ってるやがる。
リングを降りる通路。
戻ってくるその背中は、重く、でも誇らしかった。
闘技場の最上段──観察室から、その姿を誰かが見ていた。顔は見えない。だが、明らかに“選別”の眼差しだった。
選ばれたのか。試されたのか。
いずれにせよ、闘いはまだ続く。
この拳が、誰かを守るためにある限り。
──老いてなお、魂は火を灯す。
たとえこの街が闇に沈もうとも、彼の拳は──まだ、折れていなかった。




