1話 まるふくにて
ここは天野原町。
川の向こうに夕陽が落ちる小さな町で、御神岩という動かない岩がちょっとした観光名所になっている。
崖から落ちないその岩は「落ちない石」として、受験シーズンになるとやたらに縁起を担ぎたい親子連れでにぎわう。
だが、そんな縁起物の岩の話なんか、この男には関係なかった。
町の片隅。商店街の端にぽつんと建つ駄菓子屋『まるふく』。
夕暮れのオレンジに照らされて、看板の“ま”の文字だけが剥げ落ちている。
店主の男は無造作に髪を撫でつけた三十代の男。
メガネ越しの目元は眠たげで、けれどよく見れば整った顔立ち。
エプロン姿でカウンターにもたれ、テレビのバラエティ番組をぼんやり見ていた。
客は、いない。
時間は午後二時半。下校ラッシュのほんの少し前。
「……ふぁあ……あー……今日も平和ってやつか」
小さく欠伸を噛み殺し、袋入りの梅ジャムせんべいをぼりぼりと頬張る。
味はともかく、口寂しさを埋めるにはちょうどいい。
遠くから、子どもの声がした。
「まるふく行こうぜー!」「今日もじゃんけんで勝ったらタダ!」
「おいおい、そう簡単に勝たせねえぞ」
店主が苦笑する。
数分後、店内は一気に喧騒に包まれた。
ランドセルを放り投げそうな勢いの子供たちが、店内を右へ左へと駆け回る。
「これうまそう!」「でも30円しかない!」「おれこっちのほうが好き!」
騒がしいガキどもに紛れて、一人の少年が棚の前で動けずにいた。
小さな手には、たった1枚の10円玉。欲しい駄菓子には届かない。
「……買えねぇのか」
店主が声をかけると、少年はビクッと身をすくめ、ゆっくりと振り返った。
目元は泣き出しそうに潤んでいる。
「じゃあこうしよう。じゃんけんだ。おじさんに勝ったら、今日の分はタダでいい」
「ゆ、ゆったね!? やくそくだかんね!!」
少年は目を輝かせ、何やら念じるように手を合わせた。
「さいしょはグー!」
「じゃんけん――ポン!」
少年がグー、黒糖はチョキ。
「やったあああ!!」
店内に歓声が上がる。子どもたちが駆け寄り、彼を称える。
「ユウくんすげー!」「いいなー!」「おれもやるー!」
少年の名はユウ。小学校1年生、近所でも特にまるふくに入り浸っているガキのひとりだ。
内心でため息をつきながらレジを覗く。
……やっぱりタダにすんのは数に限りがあるな、と小声で愚痴をこぼす。
「おじさん、なんでわかったの? オレの財布、見たでしょ?」
「見てねぇよ。お前らの歩き方とポケットの膨らみ見りゃ、だいたいの金額は読める」
「超能力!?」「えっもしかして七不思議の一人じゃない!?」
子どもたちは大騒ぎ。もはやジャンケンそっちのけで話題は「七不思議」へ。
「おじさん、しらないの? 壁をのぼる黒い影の話」
「へぇ、都市伝説か?」
「ちがうよ、ななふしぎ!」
ユウが語り出す。
──夜の校舎に現れる、赤い目の“影”。
それを見た生徒は、二日後に必ずいなくなる。
教室からも、家からも、町からも、名前すらも。
「オレ、見たよ。ほんとに。屋上の窓、登ってた」
その時、子どもたちの喧騒がふと止まる。
まるで、誰もがその言葉に凍りついたかのように。
店主が目を細めた。
「ユウ、お前……」
「でも、ぜんぜん怖くなかった。あの影、なんか……さみしそうだった」
言い終わると、ユウは照れくさそうに笑い、駄菓子を両手に店を出ていった。
──そして、それが、彼を見た“最後の姿”だった。
翌週になっても、ユウは現れなかった。
ランドセルの音も、彼の笑い声も、まるふくには響かなくなった。
そして、黒糖の胸の奥には、違和感が静かに積もっていった。
駄菓子屋まるふくは、町の誰もが通る店だ。
けれど、子どもたちが語る“影”の話は──ただの噂では終わらなかった。
静かな町に、静かでない夜が、近づいていた。