13話 過去の音
──水の中のようだった。
ユウナの意識は、どこにも触れないまま漂っていた。
呼吸も鼓動も遠く、指先の感覚すら希薄で。
けれど、ただひとつ、“誰か”がそばにいるという気配だけは確かだった。
「……ユウくん?」
声は出ていたのかもわからない。けれど、その名を思った瞬間、彼はいた。戸田ケイゴを含め家が近所で幼いころ弟のように可愛がっていた。
薄い光の中で、黒髪の少年が立っていた。制服のまま、顔も傷もない。確かに彼はあの日のユウだった。
──けれど、目が合わない。
少年は何かを見せようとしていた。
ユウナの意識に、強引に“映像”が流し込まれる。
──錆びた階段。鍵のかかっていない手術室。冷たいベッド。
──数十本の注射痕。壁に打ち付けられた、子供の身長記録。
──そして、鏡の中に映る自分の目が、“赤く染まっていた”。
「……やめて、やめて……!」
ユウナは声を上げる。
それでも、少年はただ静かに彼女を見ていた。
最後に、彼の唇がゆっくりと動く。
『逃げて』
――――――――――――――
「っ──!」
ユウナが飛び起きる。
白い天井。金属の臭い。冷たい空気。
そのすべてが、夢の続きのようだった。
「あんた、ようやく起きたわね」
その声で、現実に引き戻された。
ヴァンプ──九条先生がベッド脇に腰かけていた。
黒のジャケットを脱ぎ、ワイシャツの第一ボタンを外した姿。
豊かな胸元と、片手に持った缶コーヒー。そのどちらにも“夜の女”の気配が漂う。
「……夢、見てた?」
ユウナはうなずいた。震えながら。
「……ユウが……なにか……見せてきた。血とか、部屋とか……」
「言わなくていい。目が覚めた時点で十分」
ヴァンプは苦笑いのような顔をした。
そのとき──もう一人、部屋の奥から現れる。
シルエットだ。
無表情で、背後の影のように立っていた。
「……目は覚めたか。なら、急ぐぞ。ここは、もう安全じゃねぇ」
「え?」
ユウナが目を見開く。ヴァンプも軽く眉を上げる。
「何か来てるの?」
「……わからん。けど、嫌な直感がする。
ビルの中の音が変だ」
その瞬間──
ヴァンプが鼻をひくつかせた。
「……あれ、なに……? お香と硝煙……違う。……“楽器倉庫の匂い”?」
ユウナがベッドの上で震えた。
「それ……夢の中と、同じ匂い……!」
警報が鳴らない。モニターは生きている。誰も走っていない。それなのに、何かが、静かにこの本部に入り込んでくる。
シルエットが背中越しにヴァンプへ言った。
「ユウナを頼む。俺が見てくる。」
「……気をつけて。これは普通の獣じゃない」
ヴァンプの声が一瞬、低くなった。
そのとき、廊下の先で──
かすかに聞こえた。
壊れたスピーカーのような、クラシック音楽。
バッハか、ベートーヴェンか。
リズムは崩れ、メロディーは捻じれ、まるで誰かの記憶の断片のようだった。
そして。
廊下の影から──“それ”は、ゆっくりと、足音もなく現れた。
包帯に覆われた体。赤い目。
人のようで人でない、けれどどこか、ヴァンプとシルエットは“懐かしさ”すら感じる形。
ユウナが息を飲み、ヴァンプが立ち上がる。
「……あれ、“スコア”?……うそでしょ」
シルエットの目が鋭く光った。
「──怪物だ。ここで終わらせる」
部屋の空気が、凍りついた。
CAIN本部、静かなる地獄の夜が始まる。




