12話 少女
夜の風がコートの裾を遊ばせる。
廃ビル──表向きは都市開発の波に乗り遅れた失敗作のようなビルだがその地下に、闇の組織《CAIN》の本部は潜んでいる。
そのエレベーターに、異質な2人が乗っていた。一人は、スーツのボタンを開けたままの女。濃いアイラインの奥に、疲れと怒りと微かな希望を宿す、夜の女。
もう一人は、まだ目を覚まさぬ少女──ユウナ。
ヴァンプは少女を抱えたまま、何度も深く呼吸をしていた。ただのため息ではない。嗅覚による“検査”だ。
ユウナの髪の根本からは、シャンプーではなく洗剤の香りとタバコと酒の香り。制服の襟からは、金属と消毒液の残滓──医療機関でつくような匂いではなく、もっと人工的で無機質な匂い。
“治療”じゃないわね。これは……“実験”された匂い。
エレベーターの降下音が途切れるころ、彼女の眉がわずかに動いた。
――血の匂い。だが、微量。
それは少女の右手首から漂っていた。
地下4階。CAINの医療フロア。
薄暗く照らされたランプの下、ヴァンプは少女をベッドに横たえる。その手をそっと握ると、ユウナは少しだけ身じろぎした。
「……安心して。私たち、そう簡単には見捨てないわよ」
そう言いながらも、ヴァンプの目は鋭く、少女の右手首をまじまじと見つめていた。
そこには、小さな注射痕。皮膚はわずかに腫れ、赤黒い点が残っている。
「……やっぱり」
彼女の鼻先がかすかに震えた。
「“あれ”が混じってる……ラプス。恐らく“未処理品”。」
そこへ、足音がひとつ。
「様子は?」
振り返らなくてもわかる声。ヘッドライト──CAINのボス。低い声と、無精髭と鋭い眼差し。
「ギリギリね。でもこの子、暴走してない。
通常なら、とっくに“あの影”になってるはず。けど……見て。脈も、呼吸も、正常。おまけに、身体からは一滴も“匂い”が出てない」
「……つまり、適合したってことか?」
「適合? そんな生ぬるいもんじゃないわよ」
ヴァンプはソファに腰を下ろし、ネクタイを緩めながら天井を見上げた。
「これはね……“意図して適合させられた”体よ。
この子は“成功例”なの。“他の奴ら”と違って──作られた“鍵”なのよ、恐らく敵はわざと私たちに渡した。」
沈黙が、部屋に落ちた。
唯一の音は、ユウナの安定した寝息と、ヴァンプの微かな吐息だけ。
彼女は静かに目を伏せた。
「……生き残った分だけ、背負うものが増えるってのは、あたしらだけじゃないのかもね。まだほんの子供なのに。……ほんと、やってらんないわ」
その声音は、なによりも静かで、どんな酔客にも見せない、素の彼女“紅林 月詠”のものだった。
「けど──もし彼女が目を覚ました時、次に見る景色が“ここ”だったら……」
「ここが、彼女にとっての居場所になるかどうかは……」
「……その時、私たちがどんな顔してるかに、かかってるわね」
その瞬間、ヴァンプの鼻が微かに動いた。
「……あれ?」
「何か来てるのか?」
「いいえ。まだ……影だけ。でも……確かに、近づいてる。まるで、獣の匂い。遠くの方で、呼吸だけが“こっちを見てる”ような──そんな匂いよ」
それは、獣の気配。
そして、過去の地獄の気配だった。
暗い部屋に、ユウナの指がぴくりと動いた。
夢の中で、彼女は誰かの目を通して“何か”を見始めていた。




