11話 Lapse
学校の裏庭にぽっかりと開いた、古びたマンホール。
蓋を開けたのはノクターンだった。手袋を通しても伝わる鉄の冷たさに、かすかに眉をひそめる。
「ずいぶん前からある……メンテ用、ってわけじゃないな。排水経路じゃなく、“地下室”だ。」
「ここが“本番”ってわけね」
ヴァンプが言い、髪をかき上げて口元を歪めた。
その隣で、シルエットは無言で懐中電灯を灯し、口に咥えてタラップを降りていく。
誰も、言葉で合図はしなかった。
3人とも感じていた。この下に“何か”があることを。
——金属のはしごを下るたびに、空気が重くなる。
薄暗い照明。壁には剥がれかけた注意書き。
足元の床はコンクリート素地ではなく、妙に柔らかく湿った樹脂製。工業用の防水材の質感だった。
「……学校の下に、こんなものを造る理由わかる?」
「知識を与えて育ててるつもりでも、下でその“知識”がどんな化け物にされてるか……先生のくせに誰も生徒に教えてないんだろうな」
ノクターンの呟きが、静かに沈んだ。
シルエットは懐から銃ではなく、小型のライトスキャナーを取り出し、室内を照らした。
そこには──試験管。冷却器。汚れた白衣。
そして、壁際には施錠された薬品棚。中には、ラベルの剥がれた赤いアンプルが何本か並んでいる。
「……ラプス」
ヴァンプが、息を呑むようにその名を口にした。
「あの時と、同じ……」
ノクターンが、壁際の記録端末を操作する。
その指先は、どこか震えていた。これは初めてではない──
「2017年、港区廃ビル火災。発火点は地下の研究区画。原因不明」
「搬送された遺体、全部“形が違っていた”」
「警察は沈黙し、撤退、メディアは一切報道せず……」
あの時聞いた声が重なる。記憶が、自然と蘇ってくる。
——あの夜の炎の色。
——子どもの小さな、歪んだ遺体。
——何かが、試されていた。
「ラプスってのは……“まだ途中”だったのよ。あの時点では」
ヴァンプの声が乾いていた。
──“ラプス(Lapse)”は即効性の代償に、副作用が致命的だ。
興奮、幻覚、暴走、異形化。最終的には自我を失い、生物兵器のような存在に成り果てる。投与者が望んだ力ではなく、“誰かが望んだ戦力”へと変貌していく。
打った瞬間から終わりが始まる。
数年前もそうだったが、あの薬品では正気を保ったまま能力者にすることは不可能だったはず。
しかし、あの音波女は会話ができていた。
つまりどういうことだ。
シルエットが頭を抱えていると横からヴァンプが口を挟んでくる。
「でも、誰かは、あれを完成させようとしてる。でもここの様子を見る限り、完成したのかそれとも単純にこの研究所を廃棄したのか」
その時、背後から金属の足音がした。
3人はそれぞれ武器を構えながら振り返る。
「やっぱり、あんたら降りてたんだね……勝手に抜け駆けしないでね」
グリッチだった。肩にショルダーバッグ、手にはノートPC。息を弾ませながら降りてきた。
腹に蓄えた肉が荒い呼吸と共に上下に揺れる。
「地上の電波スキャンで、ここの遮蔽波が不自然だったんだよね。データ収集に時間食ったけど、案の定……」
彼は壁の端末にケーブルを繋ぎ、解析を始める。
数分後、彼の表情が固まった。
「……データが、消されてるね」
「消された?」
「いや、“一部だけ”抜き取られてるみたいだね。ファイルログは残ってるのに、中身が空っぽだね。しかも上書き痕もなし……プロの仕事だね。多分、こっちの潜入を予測してた可能性が高いね。」
あの少女が言っていた通りだ、裏切り者がいる。
シルエットは混乱を避け、あえて口にはしなかった。
「抜かれた情報は?」
「……製造者の記録。管理IDと、投与対象リスト。つまり“誰が作ったか”“誰に使ったか”って情報だけ、綺麗に持ち去られてる」
沈黙が落ちる。
「やられたわね……でも逆に言えば、“そこが一番見られたくない場所”ってわけかしら」
ヴァンプが舌打ち混じりに言った。
ノクターンは壁のガラスケースに残ったラプスのアンプルをひとつ手に取り、照明にかざす。
「……これが“答え”じゃない。ただの始まりだ」
その言葉に、シルエットがうなずいた。
「だが、“誰か”が……これを、あの日からずっと作り続けてる」
地下室は冷えていた。冷蔵装置の作動音が響く。
だが、3人の胸の奥にはもっと冷たいものがあった。
記憶。後悔。そして、まだ名を知らぬ誰かへの、怒り。
ユウ。
彼は結局見つからなかった。
おそらくこの研究所はもう使われていない。
あの母親のためにも一刻も早く見つけなければ。




