9話 影の躍動
その夜、ヴァンプは学校裏の非常階段で耳の通信機を押さえた。
「こちらヴァンプ。子供達の証言からある程度絞り込んだわ。特に裏庭と音楽室。」
公園で遊び疲れ帰路につく子どもたちを眺めながらヴァンプは一息つく。
無線機から声が返ってきた。
「了解した。シルエットが明日、校内に整備業者を装って入る。グリッチもネットから監視を続ける。」
「ノクターンは?」
「……ピアノ調律師として、“音楽室”の再稼働に呼ばれる手はずだ。」
ヴァンプは小さく笑った。
「なるほど。皆して、文化祭でもやる気ね。」
「文化祭じゃあ血は流れないだろ。」
無線が一瞬、静かになった。
全員が無言のまま夜を迎える。
――――――――
音楽室の奥。薄暗く湿った空気に、古い木製の譜面台がひっそりと並んでいる。
「ここね……。」
ヴァンプは口元に手を当てながら、慎重に足を進める。
ノクターンが共に音楽室に潜入する手筈だったが、予定より少し遅れており、単独での潜入となった。
「奥に……匂いがする。女の子ね。」
ヴァンプは静かにドアの奥へと向かった。重い防音扉を押し開けると──
そこには、椅子に拘束された高森ユウナがいた。制服の袖は破られ、細い右腕が顕になっている。
「ユウナちゃん!」
駆け寄ろうとしたその瞬間、音もなく“それ”は現れた。
――黒い影。
天井から落ちるように、四肢が歪に引き伸ばされた黒い塊が姿を見せる。
人型ではあるが、人ならざる異形の気配。
内側からうねるようなノイズを放っている。
「っ……!来たわね……!」
ヴァンプがハイヒールを蹴り飛ばし、足元の床を蹴った。ユウナの名を呼びながらも、影の匂いに意識を集中する。
ここまでの流れで大体察していると思うが、ヴァンプには超嗅覚が存在している。
彼女の鼻は幼い頃から異常だった。
人間が最も軽視する感覚。それが彼女の世界だった。
彼女が初めてその力に気付いたのは目の前で守ろうとする少女ほどの歳だっただろうか。
自分の母が今日はお父さんの帰りが遅いから自分でご飯を食べなさいと帰ってきた時の匂いだ。
口からは安いシャンパンと服からは鼻が曲がるほどきつい見知らぬ男のオーデコロンの香り。
彼女はその時初めて自分の嗅覚について疑問を持つことになる。
そしてそれが何か確信したのは数年後、母が失踪した後、再婚相手のシャツから匂ってきた血の匂いによってだった。涙と薄い粘膜が破れた匂いと、再婚相手のシャツから香る血の匂いに耐えきれなくなった彼女はさらに鉄の匂いを浴びることになる。
その日から彼女にとって嗅覚が最大の武器であり、生き方となる。
「右、天井からくる!」
ヴァンプは飛び上がる。影の腕が床を裂く寸前、回避した彼女は袖からスティレットナイフを取り出し、影の“首”へと突き刺した。
──しかし、効かない。
影は呻くようなノイズを放ちながら、身体を膨張させる。細かった腕は次第に太くなり、筋肉が肥大化していく。
「“鼻”は騙せても、耳は正直だ。」
音楽室の扉を勢いよく開け、ノクターンが転がり込んでくる。
彼は床に落ちた金属片を軽く蹴り、響く金属音を反響させる。その瞬間、影がわずかに視線を逸らした。
「今だ!」
ヴァンプの蹴りが影の側頭部を正確に叩く。
続けて、ノクターンがピアノ線を使い、影の手足を絡め取り、動きを封じる。
そして最後、ヴァンプがポケットから取り出した小型スタンガンをその胸部へ。
「眠ってなさい。」
──バチィィ!
影はけたたましい音とともに痙攣し、床に崩れ落ちた。
その体からは、黒い液体がゆっくりと染み出し、消えていく。
「ユウナちゃん、大丈夫……?」
ヴァンプが拘束を解くと、少女は震える手で彼女の服を掴んだ。
「……こわかった……あれ、夢じゃ……なかった……」
ノクターンは表情を変えずにユウナに手を差し伸べる。
だがその指先には、わずかに震えが走っていた。
あれは……“能力”の暴走。
ここに何か情報があるのかも。
そのとき、通信が鳴る。
「こちらシルエット。旧校舎の裏庭、正体不明の敵性能力者と接触した。……音波系だ。」
ヴァンプとノクターンが顔を見合わせた瞬間、空気が再び揺れた。




