第四話 仲間と一緒に
第四話 アスベストを深く知る
騎士は思った。アスベストを研究するからには、おばさんに話を聞きにいこうとはいったものの、よく考えたらアスベスト自体、よくしらない。アスベストは、粉だとは言っていたけど、いったい、なんの粉だろう……。
大丈夫かと心配していたら、上島も話に入ってきて「これから話を聞きに行くなら私も連れて行ってくれないか」 という。相津も「俺も」 という。きくちゃん、桃ちゃん、沖田と李という子は一言も話さずに抜けていった。
騎士は沖田を呼び止めた。
「ぼくが来たせいで、君と席が変わったけどいいのか」
沖田は目を伏せて「うん」 とうなずく。
「あたしが穂乃果を怒らせたけえな、仕方がないけん」
そして逃げるように帰っていった。それを見ていた前川が騎士に笑いかける。
「穂乃果は沖田に課題図書の感想文を代わりに書けと言って断られて怒ったんじゃ。騎士、今度はお前が苦労する番じゃ」
騎士は穂乃果の頼みは聞くまいと己に誓った。
結局、塾や習い事をしていない上島、相津、沢村の三人が家に来ることになった。登校初日で家に連れてきてもいいのか。騎士は家に戻る前に、携帯電話でおばさんに連絡すべきと思ったが、携帯電話もない。よく考えたらおばさんの名字も覚えていない。とりあえず、連れて行っておばさんの調子が悪そうだったら帰ってもらおうと決めた。
相津が聞いた。
「家はどのあたりじゃあ?」
「ええと、地名がわからへん。家を出たらすぐ橋があったけど、まわりは田んぼだし、カエルばっかりおるで」
「そりゃ、このあたりは、雪が消えたらすぐ荒おこしして、田植えするけえな。カエルはそこらに、いっぱいおるわ。帰り道わかるんやったら、ついていくけん」
荒おこしはわからないが、四月の終わりにもう田植えが済んでいたことには驚く。大阪より寒いからだろうか。そういうと相津はこの辺りは冬が長いので、田んぼは早く作って稲が実ればすぐに刈り取ると教えてくれた。荒っぽく見えるが根は優しいようだ。
「騎士は、帰り道はわかるんじゃろ」
「うん、橋を渡ってまっすぐだった。朝は介護士さんと一緒の車だったけど、帰りは十分ぐらい歩いたら、すぐに着くからって」
「橋は短い小橋じゃろ。俺の家の近くじゃ。表門より、裏口から出た方が早いよ」
沢村が言った。
「それじゃ、あたしの家は表門から五分ぐらいじゃけ、ランドセルを置いてから、走って追いかけるけえ」
騎士と上島とは同じぐらいの背丈だ。騎士は上島に「どうしてアスベストを発表に選んだ」 のかを聞いた。上島は眼鏡を適正な位置に片手で調整してからしゃべりだした。そういうくせのようだ。
「お父さんが弁護士なの。アスベストの裁判に関わっていて難しいのだって」
「よくわからへんけど、弁護士って、悪いヤツの裁判で味方するヤツだっけ」
上島は笑った。
「全然ちがうよ。弁護士もいろいろあるんだよ」
相津も言う。
「弁護士って、賢くないとできないじゃろ、上島も賢いんじゃけえ、将来は弁護士になるんじゃろ」
上島はもちろん、とうなずく。騎士は立派だと思った。上島のおでことメガネが光って見える。
「ついでだから聞くけど、君はあの穂乃果さんとあんまり仲がよくないみたいだね」
相津はぎゃははと笑い出し、上島はドラマの俳優のように、てのひらを肩の上まであげた。
「あの子は、お父さんが兆章病院の院長じゃから、自分も偉いと思ってるのじゃ」
「そんな感じだなあ」
相津も口を添える。
「お前ら、前は仲が良かったよね。上島のお父さんと穂乃果のお父さんが裁判しているってほんと?」
上島が足を止めた。
「ええ。病院の治療がうまくいかなくて、患者さんが裁判するときに、私のお父さんを雇ったのよ。それだけの話」
「お父さん同志がそうなったら、子どもの仲が悪くなるのかあ?」
「仕方がないよ、ここは田舎だから。クラス替えもないからね。私のお父さんが穂乃果のお父さんをいじめているわけでもないのに、穂乃果がバカなのよ」
ぴーという鳴き声が聞こえた。騎士が顔を空に向けた。
「あれは、ヒバリじゃ。畑にも巣を作りよるでな」
「つばめも来ちょる。今年も牛小屋にせっせと巣作りしとるけえ」
「でもまだクマが出る、気をつけんと」
騎士にとっては聞きなれない話ばかりだ。
はるか上空にはワシが飛んでいる。これも大阪ではまず見かけぬ。山が連ねているが一つだけ丸っこい山がある。面白い形だと思った。相津たちが教えてくれた。
「騎士、昔はあの山に天女がいたんで。有名な話じゃで」
「じゃから兆章町のケーキ屋で、天女饅頭を売ってるよ」
「ケーキ屋で天女饅頭? ふーん」
騎士は天女をよく知らぬが、天使の日本版みたいなものかなと思った。
「天女が下りて川で水浴びしとったら、男が天女の服を隠して、上の世界に戻れぬようにして、結婚したんじゃ、そういう話」
「兆章幼稚園で習うよな。年長になると、必ず発表会で劇をするんじゃ」
相津はしかめ面で話を続ける。
「天女役が穂乃果で、俺が服を隠す悪い男になってなあ。よう覚えちょるで。それであいつ、未だにお前は悪いヤツの役をしたって言うんじゃ。あれは執念深い恐ろしい女じゃで」
「兆章町にはあの病院しかないもんじゃから、穂乃果のやつ、病院に勤める親や患者を持つクラスメートを手下みたいにおもっちょる。塚本先生ですら、お父さんの患者だからって偉そうにしちょる」
相津は騎士の首あたりの背丈しかないが、横幅がある。お菓子の入ったビニール袋をもって、後から追いかけてきた沢村は騎士の胸あたりまでで一番の小柄だ。
騎士は今朝もらったばかりの千円札を封筒から出して、道ばたの自動販売機でジュースを買おうとした。おばさんの家でもてなすためだ。しかし、上島が登下校で買い物は禁止、自動販売機でジュースを買うのも禁止といいだすのでやめた。そういえば、皆は水筒を持ってきているが、騎士はまだ持ってない。上履きもなかったので、学校からスリッパを借りて過ごした。これからもっといろいろと必要なものが出てくるだろう。
折よく沢村がビニール袋からジュースのペットボトルを出した。
「田倉くん、買わんでええで。おばあちゃんがこれを持たしてくれたけん、一緒に飲もうや」
「ありがとう」
相津がビニールをのぞいて、「俺のはコーラをもらうわ」 というので、沢村は騎士のおばちゃんが一番先に選ぶんじゃと怒った。騎士はそのやり取りで穂乃果と一緒に課題をやるより、このメンバーでいいじゃないかと思った。途中、相津の家によって、相津は細長いポテトチップスが入った筒をもって出てきた。彼の家は小高い丘にあって、道からは見えぬ。ちょっと上がらせてみると、家は大きく、手前に小屋がある。そこから、も~という鳴き声の他、コッココッコという鶏の声までも聞こえる。
「騎士、おれっちは、牝牛が三頭おるんじゃで、ついでに牛小屋を見ていくか?」
「牛小屋があるのか、すごいなあ」
「牛はかわいいぞ」
「うん、じゃあ、ちょっとだけ」
皆で見に行った。小屋は木製で天井が高い。隅には大量のワラと飼料があった。天井近い窓にはガラスがなく、そこからツバメが行き来していた。
「ここに来るツバメは毎年おなじやつらじゃ。子ツバメだった奴らも新しく巣をつくっちょる。ヒナができたらもっとうるさくなるで。蛇も来るし、気をつけにゃあ。そいでまもなく、牛たちは山へ放牧じゃからな、騎士、見られてよかったな」
「相津、ほうぼくってなに?」
「放牧はな、山で勝手に草を食わしてやる。それで受精させて次々にお産させて子牛ができたら神戸や松阪に売るのじゃ」
「へえ」
「子牛を買った者も、さらに太らせて大きくして肉になる。神戸ビーフとか聞いたことないか、あれも元々は鳥取生まれじゃったりするで?」
「なるほど~」
相津の父親が出てきてあいさつした。彼は胸と足に包帯を巻き、杖をついていた。
「これは、うっかりして牛に蹴られたんじゃけえ、かなわん」 と笑った。相津も父親を支えるように横に立って笑った。そして騎士を大阪から来た子でこれから家に話を聞きにいくんじゃと紹介してくれた。
そこから日美子の家は近かった。騎士は三人もクラスメートを連れてきてしかも病気の話を聞いてもいいのだろうかと思ったが杞憂だった。日美子は三人を見て驚いたが喜んだ。
「もう友達ができたんか。え、アスベストの話を聞きたい? 授業で? ほんまに?」
「おばさん、兆章小学校の最初の授業が公害やってん……ほんでアスベストの話を聞きたいんやけど。しんどかったらこのまま帰ってもらうけど」
「いえいえ。何もない家やけどあがってもろてや」
「ジュースやお菓子をもらったよ、ほら」
「あらまあ、すみません」
日美子は、ソファに浅く腰かけ、丸く囲うようにして騎士たちはじゅうたんに直に座った。
「……アスベストの粉を吸ったのは、おばちゃんの小さいころやねえ。昔から家のそばに、アスベストの工場があってねえ。おばちゃんはな、知らずしてアスベストの粉を吸い込んで大きくなったんよ……」
「そもそも、アスベストってなんですか」
相津が聞いた。沢村が先に答える。
「アスベストは石の粉でしょ」
「ふわふわの粉みたいだけど、石らしいね」
騎士はおばさんに聞いてみた。
「おばさん、石の肺って本、知ってる? アスベストの本だよ」
おばさんは目を見張って質問を返す。
「石の肺……騎士ちゃん、よう知ってるなあ」
「読みたいんや。図書室にあったけど、誰かが持って行ったみたいでなかった」
おばさんは、立ち上がって隣の部屋に行ったがすぐに戻ってきた。手に一冊の本を持っている。
「これやろ? 持ってるで。貸してあげる」
「あっ」
騎士たちは本を囲んだ。
「うわ、字ばっかり」
「大人向けじゃ、難しそうじゃ」
「これ最初から最後まで読まないと発表できないのかな」
「ぼくが読むよ」
皆が騎士を見た。
「そうじゃな、おばさんの家の子なら、一番先に読まにゃあ」
沢村が携帯を取り出した。
「皆で順番に読むのは時間がかかるけえ。ある程度ネットで調べたらわかるけ、それを書いておいたらええじゃね?」
「そうそう、年代と患者の数を書いておけば」
相津がうめいた。
「年代と数ぅ? それじゃと、発表がおもしろくないんじゃあ。そうだちょっと待って」
上島が水を向けた。
「あら、何かあるの?」
相津の手には携帯電話を持って何かを検索している。すぐに手を止めて読み上げた。
「そもそもアスベストは、石の綿と書いて石綿、せきめんと読む。えーと、石はわかるけど、綿って?」
「Tシャツの原料じゃ、それか、まくらの中身とか」
「ふわふわな布の原料が、綿としよう。綿みたいな石じゃ、ということで石綿」
上島も同じく携帯の検索で追加の言葉を補う。騎士も携帯が欲しくなったが考えないことにした。持っていたが焼けてなくなったから。見れば日美子も携帯電話を持ってないようだし、これ以上新しいものをねだることはできない。
上島がスマホを操作して読み上げた。沢村も相津も追随する。
「石のような綿のような、それがアスベスト。建物とかいろいろ使われた」
相津が答える。
「建物に? どうして」
「だんねつざいとして、と書いちょる」
「なにそれ」
「断熱材とは、ええと。熱をさえぎる」
「あっわかった、アスベストを使うと火事になりにくいとかじゃな」
沢村が音を上げた。
「アスベストは、難しすぎるよ、だから教科書に書いてないんじゃきっと」
相津がいう。
「じゃ、こうしよう。検索したらアスベストには色がついていて、それぞれ名前がある。ぼくはそれを漫画にできるけ、皆にわかるように説明しよう」
上島が「それ、ええなあ。相津くんは、漫画が得意じゃけ」 と、ほめた。
相津は持っていた袋からノートと十二色の色鉛筆を出した。色鉛筆は皆短かった。騎士を見て「俺は絵が好きじゃけん、いつも持ち歩いているんじゃ」 と笑う。そしておもむろに水色の色鉛筆を取り出して宣言する。
「ええか、ネットで調べたのをそのまま書くぞ。白いのがクリソタイル、面倒だからクリソな。白いキャラクターじゃ」
薄い水色の鉛筆を持ち、画用紙の真ん中に、丸を書いてその周囲にふわふわとした髪をかき、小さな手足をつける。おばさんも、ソファに座ったまま、背筋を伸ばしておもしろそうに、相津の手元を見ている。
「ふんふん」
「青いのがクロシドライト、クロシドとする……」
また丸が増えた。
「クリソが白、クロシドが青って言葉からして覚えにくい。なんか腹がたってくるのう」
「まあまあ」
「で、茶色がアモサイト、アモサに。緑がアクチノライトだからアクチ。白、青、茶、緑だな、これを漫画にする」
「地味すぎる。赤や黄色、ピンクがないとパッとせんよ?」
「じゃあ考えよう、えーと。種類にカミンというのがあって、色がわからんので、それを赤いキャラにする。それでええな? これでアスベスト仲間の完成じゃ。いや、アスベスト軍団のクロシド、クリソ、アモサにアクチ」
相津はほわほわした、小鳥に似た羽をもたせた。お餅のような輪郭に色をつけていく。
ここで騎士は、なにかが違うと思った。上島も同時に気づいた。
「アスベストが悪者なのに、正義の味方風にするのは、変じゃ」
「あっ」
相津も、はっとしたように持ち換えた赤鉛筆を上に向ける。
「じゃあ、いしむれみちこを正義の味方にしよう」
上島がたしなめる。
「ダメよ。あの人は水俣病の正義の味方でしょ、アスベストと戦わせるのは無理がある」
「じゃあ、誰だっけ、アスベストの本を書いたひと、石の肺とかいう本を書いた人」
「えーと待って。本の表紙に書いちょる。わかった。さえきかずみじゃ」
「女の名前か、正義の味方にしては、なんか弱そう」
「それじゃあ、いしむれみちことセットにしてアスベストだけじゃのうて、公害と戦わせようか。かわいいキャラにしたら、みんな聞いてくれるよ」
「それ、いいね。じゃあ、そういうストーリーで」
相津と沢村と騎士で夢中で話していると、上島がまた水を差した。
「ちょっとみんな、待ってよ。水俣病とアスベストをいっしょにして、アスベストの塊と戦わせるの? それ、絶対変だよ。塚本先生から怒られるよ」
「確かに変だ。どうして、こんな話になった? はてどうしよう」
おばさんは、笑ってばかりいた。騎士はおばさんの歯を初めて見た。
それで原点に戻ることにした。
「ネットで見る限り、アスベスト自体は古代エジプト時代からあった」
「なにっ、こだいえじぷとぉ……一体いつの話じゃあ」
「わからん、とにかく大昔からアスベストはあった。ミイラの包帯にも使われた」
「すごーい、ミイラの包帯がアスベストって、なんかかっこいいじゃん」
「かっこよくないよ、じゃあ、その時から公害があったのかって話になる」
で、また行き詰った。
そこへ日美子が、話をしてくれた。
「とにかく、毎日知らずしてちょっとずつアスベストを吸い込んで、忘れたころに変な咳が出て苦しくなるねん。アスベストの工場が悪かった。垂れ流しというか、拡散しっぱなしじゃったからね。だから公害というねんよ」
日美子の両親もアスベスト喘息になったらしい。でもその時には、アスベストのせいとは思わなくて、車通りに多いところに住んでいたからだろう、そして煙草の吸いすぎだろうといって引っ越しをしたという。
「そのため、アスベスト工場にいた人や、ずっとあのあたりに住んでいた人よりは保証金というお金をもらえなくてね、アスベストのせいで喘息になったと証明できないと、お金がもらえないんよ」
「証明というのができたら、お金がもらえるの」
「そりゃあ、これのせいで私は発作が始まると動けない。これでは人に迷惑をかけるし長く働けないから、その原因を作った会社が最低限の生活ができるように払ってほしい。私の場合は、小さいころに工場の近くに住んでいたというだけでは、証明が難しくてあきらめたのよ」
騎士たちは同情をもって話を聞いた。
「とにかく、アスベストに限らずどの公害にも、いろいろとあるのよ。要は、人間の身体は食べ物を受け付けて栄養にするけれど、食べ物にならないものは、栄養になるどころか、おしっこやうんちにもならなくて、そのまま体の中に入って悪さをする。
その時は気づかなくても、何年も、何十年もたってからね。ずるいでしょ。カドミウムはイタイイタイ病になったし、有機水銀も水俣病になった」
「ああ、そうか。でも水俣病の原因の有機水銀も最初はなにかわからんかったらしいからの」
「俺たちも全然わからん。これを発表するは難しいよ」
「人間ってさあ、食べられるものだけ作っていれば、公害なぞ起こらない。だけど、それだけだと暮らしていけないだろ。どの公害も工場っていうけど一体なにを作ってたのよ」
「水俣病は、肥料とか作っていたらしい。アスベストは建物の材料じゃ。火事になりにくい材料じゃ。その他、いろいろ使われていたようね」
「イタイイタイ病は工場じゃなくて鉱山だって」
「鉱山って? 山の中」
「わからんけど、ダイヤみたいに、何かの石を掘り出すけれど、いらないカドミウムは川の中に捨てちゃって、それが田んぼの中に入っちゃって、お米になって食べちゃったという形」
「いらないものが、食べ物に知らないうちに入っちゃうのか」
「水俣病も魚からだし、イタイイタイ病もカドミウム入りの川の水を引いた稲からお米にして食べちゃったから」
「アスベストは食べ物じゃないけど、呼吸する空気からなのか」
「空気は確かに食べ物じゃないけど、やっぱり怖いねえ」
ジュースを飲みながら話をしていく。日美子はとっておきの梨ゼリーを皆に食べさせてくれた。そしてアドバイスも。
「知らんうちに、毎日の普段の生活で悪いものを体に取り入れてしまう。それがわかっただけでも、ええ。そういうものをこれからも創らないようにしてほしいものね。発表はそういうので、ええんやないか」
「それじゃと塚本が文句をいうかも?」
上島がきっぱりと言った。
「誰にも文句は言わせたくないわ。そうじゃ、相津くん、これを漫画にできる?」
「できるけど塚本は俺のこと嫌いじゃ。俺の絵を見て、手足が短いの長いの、髪がピンクと緑の縞模様が変だとかそんなことばっかり言うしな」
沢村も言った。
「塚本先生は、穂乃果には甘いのに頭にくるわねえ」
騎士はこんなにはっきりと言える沢村に驚く。そして提案してみた。
「兆章さんと上島さんと二つのグループになっちゃったけど、合同にしてみようか、漫画と言葉で。大昔からアスベストはあったから、公害もあったかもという話にしようよ。十人になっちゃうけど、兆章さんたちは発表が面倒そうだし、いいんじゃないかな」
相津がうなずく。
「そうじゃな。賛成する。それと漫画のストーリーじゃけど、正義の味方は作らず、石綿メンバーのキャラが人間の肺に入って悪さをして、なんとかせにゃならんという話にもっていこう」
「それでいいね」
「最後に公害はしらないうちに健康を害してしまう、という話」
「石綿は呼吸どころか、がんになったりするらしいし、今も苦しんでいる人がたくさんいるし、発表のしめくくりはそれにしよう」
「決まったね」
帰り際に相津は、薄暗くなった日美子の家の前で騎士にバレエを踊ってみてくれと頼んだ。
「俺は男でもバレエを踊れるか見たいんじゃ」
「ぼくはもうやめたんやで」
そういいつつも、騎士は足のかかとをくっつけて、足の指先を反対側に向かせた。足のつま先からかかとまで外向きに一直線にする。それから、親指と中指を近づけてバレエ独特の手つきを見せると相津は感心していた。
「ふうん。バレエの手つきは、ゆらゆらしていて不思議じゃのう」
騎士はバーという棒をつかんでやる練習を思い出してストレッチを兼ねて踊った。場所は狭く大きく移動はできなかったが、皆は拍手してくれた。日美子も。踊った後は、やはりすっきりとした気分になった。
その夜、騎士は「石の肺」 の本を読んだ。結構難しいが、読めるところだけを読んだ。最初のページで「石の肺」 を書いた人は自分のことを「僕」 とあったので男性とわかった。これは相津に言って男の子のキャラクターに変えてもらわないといけない。女の子のキャラクターのままだと、本物の「さえきかずみ」 からも塚本先生からも怒られる。
石の肺の最初のページにはこう書かれている。
……日本語では石綿とも呼ばれるアスベストは、そもそもギリシャ語で「永久不滅の」 という意味をもつことに由来します。人間は、その不滅の有用性によって多くの恩恵に与ったとともに、現代に生きるわれわれは、その不滅の危険性にさらされています……
まだ小学生の騎士にとっては難しい言い回しだが、大変なことを書いている本だとわかる。多分いしむれみちこに匹敵するのではないか。日美子はこの本を大事にして何度も読んでいるらしく、ところどころ、ページが折れ、時に付箋も何か所か貼られていた。
「騎士ちゃん、あたし、今からお風呂に入ってもええかな」
「おばちゃん、ええで」
騎士は本を片手に持って風呂場に行く。騎士は昨日から日美子の風呂番をしている。もし何かで呼吸ができなくなったら、すぐに救急車を呼ぶ手はずをするだけだ。だが、その見張りがいるということは、日美子にとって喜びであった。介護士以外に見守りができる肉親がいるということだけでうれしそうだ。
「騎士ちゃん。今まではお風呂に入るときは膝の下までお湯をいれなかってん」
「なんで」
「うん、もし湯船にいるときに発作が起きたら、溺れ死んでしまうからや。でも騎士ちゃんが見張ってくれるなら、肩までお湯につかれるから、すごいうれしいねん。ほんまにありがとうなあ」
それぐらいどうってことはない。騎士がやれることはほとんどないので、役立つことがあるなら、なんでもやる。風呂場のドアのすぐ外側にある洗濯機に身体をもたれさせ、わかるところだけ「石の肺」 を読む。辞書がいるなあと思いつつ。しかし、読んでいくうちにアスベストの怖さと危険性がわかってくる。
やがて、日美子が体にバスタオルを巻きつけて出てきた。
「騎士ちゃん、次に入っておいでや。ほんで、冷蔵庫に梨ジュースがあるさかい、あがったら、飲んでや」
「おばちゃん、ありがとう」
「夏の終わりにな、本物の梨が食べれるで。鳥取の梨はほんまにおいしいねん、種類もたくさんある。騎士ちゃんもきっと気に入るで」
「うん」
騎士は風呂につかりながら、ため息をついた。日美子は、小さいころからアスベストを吸ったせいで重い喘息だ。一方騎士は生まれつきのアレルギーで喘息を持っている。どちらも、好きで病気になったわけではない。目の前にある空気が吸えないということは、どんなにつらいことか。
日美子の場合はもしアスベストの害を知っていれば、大丈夫だったはずだ。
風呂からあがると日美子はパイナップルの小さい缶詰を開けてお皿に並べていた。
「騎士ちゃんは、ええことに気づいたな。アスベストはあかんて、昔から知っていた人はいると思う。でもアスベストは火事にも強くて安くつかえてとても便利なものや。水俣病かて、被害が広まる前に、有機リンのせいやて、発表したお医者さんがおったけど、その研究もつぶされたらしいで。アスベストも同じで、被害が広まる前に都合の悪い情報はつぶされていて、それで公害と言われて教科書に載って小さい子に教えないといけない状態になるんや」
「おばちゃん、都合の悪い話はつぶされるんか。公害の原因を作る会社がそれをやるのか」
「子供には難しいのかもしれへんな。アタシはアスベストの工場の近くに住んでいたというだけはお金はもらえへんと医者に言われてそれきりや。でも、それを証明できる人はもらえている。私は運が悪い。父親は中皮腫というがんで死んだし、母親は肺気腫で死んだし。全部アスベストのせいやろ」
「かわいそうやね」
「ええねん。騎士ちゃんと一緒に暮らせるようになったさかいな。アスベストを憎むよりは、アスベスト以外のことで自分は幸せな人間やと思って暮らしたいねん」
騎士はその夜、夢を見た。
騎士は咳が止まらない。空気がうまく吸えなくてもがいている。おばさんが誰かに杖を振り回して説明している。
「この子の身体にも多分アスベストが入っています」
すると、白衣を着ている誰かが言った。顔はわからない。
「これは、アスベストではありませんよ」
おばさんが言った。
「だったら、水俣病かもしれません」
「あはははは」
「イタイイタイ病かもしれません」
「あはははは」
「この子はこのままだと死んでしまいます。わたしも死にます。公害のせいで。とてもつらいです。調べてください。そして健康になるように治療してください」
「あははははは、はははははは」
ひゅっ!
騎士は起きて、枕元に置いていたメプチンエアーを手探りでふたを開けた。寝たまま深呼吸をして息を吐ききる。それから一気に吸入した。これで発作はだいじょうぶ。しかし、汗がびっしょりだ。そうだった、どの公害もすぐに公にならなかった。それで被害が広がった。それであんな夢を見た。
窓から光が漏れていた。この鳥取の家には大阪の家のように雨戸がない。カーテンを開けると狭い雑草だらけの小さな庭と、樹木とこんもりした山が見える。今日も晴れそうだ。時計を見ると七時前だ。トイレにたったあと、台所に行くともう朝ごはんの用意がしてある。卵焼きとみそ汁のにおい。でもそこにいるのは、お母さんではない。日美子だ。シンクの前で背中を丸めて何かを洗っている。騎士はお父さんとお母さんの顔、そしてモンドの尻尾を思い出し泣きそうになった。あわててもう一度トイレの横に戻り顔を洗った。
でも、この家に来てから喘息の発作が一度も起きていないのに気づいた。古い木の家だからだろうか。でも騎士の大阪の家も相当に古かったのに。