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第二話 公害の授業とグループ分け



 兆章町は、鳥取県の東部に位置する。田倉騎士は、そこの兆章町立兆章小学校の五年一組に編入した。騎士が鳥取県に来たのはこれが初めてだ。鳥取といえば海と砂漠があって、ラクダがいるという認識しかない。ここも鳥取だと言われても、実感がわかない。というより、環境が変わりすぎて現実感がない。

 日美子の家は狭いながら清潔なのに、兆章町の教育委員兼介護士の箕浦に連れられてきた兆章小学校はどことなくほこりっぽい。建物が木造で古いせいだろうか。

 先に学校入り口のすぐ横にある校長室に連れていかれた。狭い部屋だがそこには影中と名乗る年配の女性がいた。影中と箕浦はしばらく話し込んでいたが、箕浦が「がんばりや」 と騎士に言って去ったあとは影中と二人になった。白髪の髪をお下げにした影中は肥っており、笑うと目がなくなる。

「田倉くん、大阪と鳥取とでは言葉も違うけど、ゆっくりと慣れてくれたらええね。困ったことがあったら、いつでも相談してきんさいや」

 その声が優しく騎士の心に染み入るようだった。騎士はうつむいて軽く会釈した。

「大阪の学校では何クラスあった?」

「十二クラスです」

「人口が多いだけあるね。ひとクラス何人いた?」

「三十人です」

 影中は騎士にのんびりと話し続ける。

「やはり多いね。でもこの兆章小学校の五年生は一クラスだけ。田倉くんでちょうど二十人になるの。つくえといすは、すでに教室に置いてあるでな。一番うしろのはしっこじゃけど、そのうちに席替えもあるじゃろうで。ほいで、教科書は明日には用意できる。今日だけはとなりのひとから借りんさい。もし、しんどくなったら、遠慮せず言いんさい。無理なさらんで」

 騎士はここまで箕浦の車で連れてきてもらったが、渋滞どころか五分もかからずに来れた。まっすぐな道ですれ違う人もほぼいなかった。校長室の窓からは校庭が見渡せてる。校庭の囲いの向こうは兆章病院と看板がある建物が見える。その後ろに山が連なって見える。田舎やなあと思う。

 それから校長室を出てすぐとなりの職員室に行き、そこにいた五年生担任の塚本に引き合わされた。塚本は年配の男性で頭が禿げかかっている。そして騎士と書いて「ナイト」 と読むのを知ると「はっ、えらく気取った名前じゃな」 と嗤った。

 影中がたしなめると、塚本は肩をすくめた。

 塚本のつくえの隅に、もう四月の終わりだというのに、小さな布製のクリスマスツリーがほこりをかぶって転がっていた。それもあって騎士は塚本を苦手だと思った。影中は騎士の肩を軽くたたくと校長室に戻っていった。

 塚本は騎士から視線をはずし、しばらくパソコンになにか打ち込んでいたが、その間、騎士は塚本のそばに立っていた。塚本の下の名前はわからないが、多分、騎士の方がかっこいい名前だろうと思った。

道はまっすぐなので、帰りは一人で帰れそうだが、今からでも帰りたかった。できれば大阪に。元の家に。両親とモンドがいるあの家に。祖父母の遺影が飾ってあったあの部屋に。

 でも騎士は転校生になった。大阪の方が山もなくて建物ばかりで空気がよどんでいたかもしれない。それでも戻りたかった。

 やがて塚本は騎士をみて肩をすくめた。両手をつくえの上に置いて立ち上がる。騎士の背丈より少し高いぐらいだ。塚本は目線を騎士にあわせてのぞきこむように言う。

「お前の持ち物は、かばんはなし。エコバック一つか。その私服も、ちょっとサイズあってないな。まあ、急な転校やったからしゃあない。このノート四冊と鉛筆を持っておけ。これは無料じゃから心配するな。さあ教室に行こう」

 五年の教室は階段をあがって二階にあった。塚本が先に入ると、初対面のクラスメートたち全員が頭を揺らして騎士を眺めた。騎士を入れて二十人だと教えられたが少ないと感じた。だが、ここにはリーダー格の生徒がいた。

 塚本が騎士を連れて教室に入ると、真ん中の席で、やたらとピンクの印象が強い女子がいる。皆私服で長袖のシャツにズボンの組み合わせがほとんどだ。その子だけが、長いスカートを履いて座っている。そして無遠慮に騎士を凝視する。騎士はとまどった。塚本はのろのろとした動作でチョークを持ち、黒板で、田倉騎士とかいて、ルビをふる。すると、その子は座席から声をあげた。


 あんた、「騎士」 と書いて「ナイト」 って読むのね。変わってるね。


 よく通る声だった。彼女がそういうと、周囲の子が笑った。しかし塚本の笑い方ではない。騎士は言った。

「ぼくはこの名前が気に入ってる」

 そう言うと、その子も間髪入れずに「私も気に入った」 という。そして「兆章穂乃果(ちょうしょう ほのか)よ」 と名乗った。騎士が転入してきた兆章町と同じ苗字だ。すぐにわかったが、この子だけは塚本もどことなく、恭しく接しており、周囲の同じ年の子たちも機嫌を伺う感じがした。

 塚本に言われて騎士は自己紹介をしたが、名前と大阪から来たことしか言わなかった。塚本もそれ以上の騎士について説明はしなかった。

 騎士の席は、その女の子……穂乃果の隣になった。前から二番目の真ん中だ。穂乃果が隣に来なさいよと言ったから。元からいた子は沖田という名札をつけている。沖田は下を向いたまま黙って、つくえの中の荷物を取り出した。そして一番後ろの出口に近い席に移動した。騎士が座るはずだった席だ。沖田との席替えを許した塚本やクラスメートたちには驚く。二人はケンカでもしていたのだろうか。だが、そのおかげで騎士はクラスの中心に入れてもらえた。

 塚本は黒板前の教師用のデスクでごそごそと資料を準備していた。騎士は彼の真ん中だけが禿げた頭を見て、これからこの先生にずっと教えてもらわないといけないのかと、ため息をつく。前の学校の担任は、髪がきれいな細身のおばさんだった。あの先生の笑顔が懐かしい。いやだめだ。亡くなったお母さんも言っていたではないか。

「人のイヤなところを気にするより、どこか良いところを探していきや。人付き合いはそれにつきる」


 数年前の祖父の葬式の晩をふいに思い出した。先に書いたように父の長志と叔父の次志との不仲があらわになった日でもある。次志夫婦は、遺言状に彼らの名前がなかったことに不満だった。かなり暴れたが次志叔父は母の佐美子にも騎士の名づけの件で暴言を吐いた。

「けっ、何が騎士や。だいたいな、田倉の本家筋の男子は代々名前に「こころざし」 ってつけるんだよ。志。わかるか? 武士の士に、心、それが決まりだ。それなのによ、騎士だって? 兄貴の嫁は独身のころはバレリーナとやらで、お高くとまりやがって。息子にもバレエとかさせやがって」

 長志と佐美子は反論する。

「ちょっと子供の前でそんな話をするのはやめぇな」

 次志はそれを軽くいなす。

「佐美子さん。そもそもな、あんたは田倉家の嫁にふさわしくないんやで。俺は公務員、妻は看護師。姉の薫だって桜木家に嫁いだが堅い銀行員じゃ。佐美子なぞ、ろくに働きもせずふわふわ踊っていたんやろ」

 とたんに長志が次志を殴り、佐美子が止めにかかり、祖母の紹子が泣いたのは覚えている。その時の空気は重く黒く騎士の喉を刺激したことも。


「田倉、聞こえるか」

 突然塚本の声が降ってきた。考え事をしすぎた。

「はい」

「お前、耳は悪ぅないんじゃろ」

「はい」

「じゃったら、すぐに返事せえ」

「はい」

 塚本は騎士を見下ろした。

「さっきも言ったが教科書は隣のを見せてもらいなさい」

 すかさず、窓側の隣席から「新しい社会」 と書かれた教科書が差し出された。前の学校で使っていたのと表紙のデザインが違う。それも焼けてしまったからどうにもならないが……差出人はメガネの女の子だ。にこにこしている。ありがとう、と言おうとすると、反対側の隣席から同じ教科書が差し出された。騎士にそこに座れと指図をした穂乃果だ。穂乃果の出す表紙には、べたべたと蛍光ピンクとグリーンのリボンのシールが貼られている。

「私ので一緒に見んさい」

 左側の教科書が即座に引っ込められた。騎士は改めて穂乃果の顔を見た。くっきりとした二重に広いおでこ、髪の上には光るピンが止めてある。横顔から後ろにかけて髪が網目模様になっている。そこへ薄いピンクの布が混ぜ込み、真後ろには大きなリボンがついている。こんなに凝っていて変わった髪型は初めて見た。そして姿勢がやけに良い。騎士は従妹の紗矢を思い出した。しかし紗矢の方がハイブランドの服をさりげなく着こなして、上品な感じを受ける。すべて高級品好きの薫叔母の趣味だ。バレエに関してもいずれ紗矢は海外留学をさせる、そのためのお金は惜しまないと言い切っていた。

 騎士は穂乃果に聞いた。

「君、姿勢がいいね。バレエをやってる?」

 穂乃果の眼が大きくなったかと思うと、はずんだ声が出た。

「わかるの? 私のことを知らないのに、どうして?」

「そのおでこと姿勢や。従妹がやってるし、ぼくもちょっとやってたから」

「すごい、男の子でバレエやってるのって少ないからレアじゃな」

「いや、ぼくはもうバレエはできへんから……今は親戚の家にいるからね」

 周囲が急に静かになった。クラスの全員が騎士を見ていた。興味津々といった顔だ。そこへ塚本の声が飛んできた。

「授業に集中しんさい」

 穂乃果が「はあい」 と言った。教室の真ん中に座り、先生の言葉にただ一人反応する穂乃果に騎士は驚く。しかしあまりにも、あっけらかんとしているがためか、不快ではない。塚本は声を張り上げた。

「先週から言っておいたが、今日から新しい単元に入る」

 塚本は黒板に書いた騎士の名前を消すと、さらに大きな字で板書した。



 公害から暮らしを守ろう


「先週は自然災害の話をしたな。去年はこのあたりでも大雨で兆章川の堤防が決壊した。家が浸水した子もいて、大変じゃったな。地震もそうだが、自然の災害はいつどこで起きるかがわからないから、日ごろの備えが大事じゃ。さて、今週は公害の話じゃ。予習をしてきたかな。まず公害とは」

 塚本は「前川」 と、一番前を指さした。寝ぐせで髪が逆立っている男の子が席を立つ。

「人々の活動で、人々が被害を受けることです」

 塚本は、あいまいにうなずく。

「もうちょっと、わかりやすく、くわしくいえるかな。えーと、上島」

 今度は一番後ろの方にあごをしゃくった。振り返ると背の高い女の子が、メガネを直しながら席を立った。女の子は、はきはきと答えた。

「公害とは、工場などから出る有害物質で、人間や動物たちの健康を害することです」

 塚本は満足げにうなづく。

「よし、では公害と聞けば、どんなことを思い出すかな。誰か言えるかね」

 塚本が話を振るとニ、三人が手をあげた。窓際の一番前の男の子があてられた。

「吉田、言ってみろ」

「みなまた、びょう」

 次に騎士に最初に教科書を差し出してくれたメガネの子が当てられた。

「沢村」

「イタイイタイ、びょう」

 塚本先生はうなずいた。

「そうじゃな。公害による病気は他にもいくつか種類はある。では、そもそも公害とはいったいなんだろう。これを知っておかないと話がすすまない。もっと予習をしてきた人はいるかな」

 これにも何人も手があがったが、穂乃果が手をあげると皆手をひっこめた。塚本は穂乃果をあてた。穂乃果は得意げにちらりと騎士を見やってから立ち上がる。

「公害は環境が破壊されて、毒を垂れ流して人間や動物の命をおびやかすものです」

 塚本は、穂乃果に笑顔を見せた。笑うと彼の口元のしわが深くなった。

「よくできました。さすがに兆章病院のお嬢さんは違うね」

 周囲から拍手がわいたので騎士は再度びっくりする。すぐ隣のメガネの子、沢村も拍手している。拍手しながら。「あんたもしなよ」 というふうに目くばせをする。穂乃果を見ると、目があう。騎士は仕方なく拍手した。穂乃果は騎士に話しかけた。

「私のこと、どう思う?」

「ちゃんと予習してきて偉いよ」

「うふふ」

 穂乃果は上機嫌だった。それにしても、変なクラスだ。兆章病院ってなんだろう……この塚本って絶対この子をひいきしているよな……。


 塚本は前から座っている生徒の順に教科書を読ませた。それから黒板に要点を書いていく。それによると公害には大きく分けて七つの種類がある。

 空気が汚れる、大気汚染

 大きな音 、騒音

 川や海が汚れる、水質汚濁

 道路工事などによる、振動

 有害な物質で土が汚れる、土壌汚染

 トンネルなどの工事で土地が沈む、地盤沈下

 変なにおいがするもの、悪臭


 大気汚染、騒音はわかるが、振動や悪臭も公害になるとは知らなかった。これらは人によっては気にならないこともあるので、感覚公害ともいうらしい。塚本は意外と教え方がうまく、新しい事をすいすいと理解できた。

「じゃけぇ、公害ってのを知ることは、大事なことじゃ。しかし次の授業は連休にかかるので休み。となると連休明けまで社会科の時間はないから、グループワークにしよか。五人一組になりんさい。クラスの人数が二十人になったから四つのグループができるな。それで公害を調べてわかったことを発表しよう。公害に関することならテーマはなんでもええ」

 塚本がそういうと、クラス全体から「はああ」 という透明なため息が満ちた。皆面倒なのだろう。

「なんや、もっと楽しそうにせい。あのな、公害は皆で考えんといけん問題じゃ。どの公害でもええから、なにか一つ選んで深く研究して発表せい」

「はあぃ」

 皆のくぐもった声がこだまする。塚本は平気な顔をして教室を出て行った。騎士は思わずつぶやいた。

「あれ? まだチャイム鳴ってないよ」

 穂乃果が答えた。

「あの先生はすぐトイレに行く。でもまた戻ってくるからその間グループつくっておこう」

 それから穂乃果は騎士に向き直る。 

「騎士くんは、わたしのグループに、入りんさぃ。騎士くんと、私たちの前の席の二人、それと窓側の子、これで五人じゃけ。みんな、わたしの友だちじゃし、成績もわりとええけん」

 前の二人が同時にこちらに振り向き、立ち上がって穂乃果と騎士の近くに来た。笑顔を見せている。しかし前方斜めの席の子や、騎士のために席を空けてくれた後ろの席の子の視線がおかしい。それだけ、穂乃果が人気者だから? しかし、命令形なのがどうも気になる。二人は騎士に自己紹介をした。

井沢喜久美(いざわ きくみ)です。きくちゃんと呼んでね」

桃鳴聖羅(ももなり せいら)です」

「沢村ときくちゃん、桃ちゃんの親は、私のお父さんに雇われているよ」

「……兆章病院って塚本先生が言っていたね」

 穂乃果がまた答えた。

「そうよ。私のお父さんが院長なの。あの窓から見える高い建物がそうよ。五階建てよ。あれは全部、私の家よ。入院患者も住んでいるけど」

 五階建ては大阪の感覚では高くない。しかし、四方山が見えるこの兆章町では、高いことになるのか。この教室は二階だが、窓から見えるあの建物全部が穂乃果の病院なら、まあお金持ちだろう。

 皆グループを作ろうとして、ざわざわしている。穂乃果は公害と関係のない話を騎士にする。このクラスにはじめてきた騎士にとっては大事な情報ばかりだった。

「きくちゃんのお母さんは看護師さん。桃ちゃんのお父さんはお医者さん」

 騎士は眉をひそめた。

 窓側の隣の席の子が人懐こく話しかけてきた。

「あたしは沢村ひまりっていうの」

「この子は沢村って呼び捨てにしていいよ」

 話を遮るように穂乃果が言うので、騎士は不思議に思った。

「なんで? きくちゃん、桃ちゃんは名前呼びだよね。ひまり、もいい名前だと思うけど」

 穂乃果は口を尖らせた。

「だって呼びにくいじゃん? 沢村でいいよ。それとこの子のお父さんも私のお父さんに雇われているけど、ただの事務員じゃけえ。あっそれよりバレエの話をしようか。どのぐらい踊れるの」

 騎士が穂乃果の思考についていけず、黙っていると後ろから吠え声が聞こえた。

「どうせ、俺はあまりもんじゃあ、一人で発表するけっ」

 振り向くと一番後ろに座っていた大柄の男の子が、こちらをにらんでいる。細身の女の子がすぐ立ち上がってその子に話しかけている。

「相津くん、私と一緒にやろ?」

「なんだよ、上島か」

「悪かったね。でも、わたしと一緒でもええじゃろ? 相津くんは、漫画が描けるし、アイデアを出すのが上手じゃし」

 すると数人が立ち上がって追随した。騎士に追いやられて隅の席にいた沖田も。

「上島さんが一緒なら入れて」

「私も。上島さん、賢いし」

「ぼくも。上島さん、優しいし」

 あっという間に五人になった。相津の表情も、穏やかになり、普通に会話をしている。上島は人気者だと感じた。 


 しかし、穂乃果が嫌味をいう。

「やーね。上島ったら正義感ぶっちゃって」

「ほんと、ほんと」

 合いの手を入れるように桃ちゃんときくちゃんが頷く。そこへ塚本がハンカチで手を拭きながら帰ってきた。穂乃果が騎士にささやく。

「教えてあげる。あの先生は潰瘍性大腸炎っていって、ストレスでしょっちゅう、トイレに行きたくなるのよ」

「なんで知ってるの」

「私のお父さんの患者じゃもん」

 騎士は穂乃果をじっと見た。

「きみ、個人情報って知ってる?」

 穂乃果の眉があがった。そこへ塚本の声が降ってくる。

「転校生は兆章さんのグループに入れてもらったか。兆章さんは、優しいな」

 とたんに穂乃果の機嫌が直った。このクラスが変なのは塚本と穂乃果がいる空気のせいではないか。前の学校では違和感はなかった。皆、普通に勉強して休み時間には普通に遊んでいた。ここは普通じゃないから、普通ってことが大事だったのではとも感じる。ここの空気がおかしいのは、塚本が穂乃果に気を使うせいだろう。


 塚本が皆に相談する時間を、あと十分だと告げた。皆がグループで固まっている中、穂乃果も公害の話に戻した。

「じゃあ、公害のテーマを決めなきゃ。なんにしよう」

 きくちゃんが一番に返事をする。

「やっぱり、水俣病やろ。一番有名じゃし」

 すると、穂乃果が首を振る。桃ちゃんも同じ仕草をした。きくちゃんは次も意見を言う。

「名前からして痛そうな、イタイイタイ病は?」

 穂乃果がそっぽを向いてため息をついた。

 正直言うと騎士も同じような気分だ。転校したばかりなのに、グループ学習で発表だなんて。クラスのほぼ全員が、楽しそうでない。穂乃果は興味がないらしく、毛先を両手でもてあそんでいる。あちこちから、ミナマタ、イタイイタイ、カドミウムなどという教科書に載っている言葉そのままが小さく飛び交う。

 沢村が言った。

「あっちもこっちもミナマタみたいじゃ。イタイイタイ病もな。なら、四日市ぜんそくはどうじゃろ。ぜんそくの人って結構多いし。私の弟も……」

 騎士が思わず声を出した。

「あっ、ぼくもや。ぼくも、ぜんそくもちやで。四日市じゃないけど」

 沢村の目が丸くなる。

「ほんと?」

「本当だよ。小さいときに何度も救急車に乗ったよ。お母さんはそれでバレエを習わせてくれた。呼吸機能がじょうぶになるからって」

 騎士はポケットから昨日病院からもらってきたばかりの青いラベルが貼られた吸入器を出して皆に見せた。

「お守りだよ。これがあると、もし発作が起こっても大丈夫なのさ」

「私の弟の持っているのと、形が似ているわ」

 穂乃果が身を乗り出し、話に加わった。

「ふーん。どこかのバレリーナも喘息だったので、それでバレエを習いはじめたという人を知っているわ」

 沢村の声がはずんだ。

「じゃあ、四日市ぜんそくで」

「いいけど、ぼく、よっかいちってどこにあるか知らないよ?」

「わたしも」

 二人で会話をしていると、穂乃果がまた遮って沢村をにらむ。

「なんであんたが仕切るのよ。グループの代表はわたしでしょ? それに喘息って地味だし、公害でも、扱いが小さいし、なんとなくつまんなさそう。もっと、しんどそうな公害のほうがいいんじゃない?」

 騎士は思わず声を出した。

「喘息は地味でもなんでもないと思うよ。それと、どの公害でも大変だよ」

「そう?」

「だって、ぼくは公害の喘息じゃないけど、発作が出たら普通に息ができなくて、とても苦しいよ」

 そこで騎士は気づいた。日美子おばさんの持病だ。

「そうだ、アスベストはどうかな」

 穂乃果が、また眉をあげた。

「アスベスト? なにそれ? 教科書に載ってないじゃん」

「ぼくもよく知らないけど、アスベストのせいで息苦しいんやて」

「おばさん? あんたの?」

「ぼくは、今は家がないので親戚のそのおばさんのところにいる」

 皆の目がまた大きくなった。沢村が横で言う。

「私もアスベストの話は、お父さんから聞いたことがある。ちゃんとした公害だよ。昔とても大きなニュースになっていたんだって。発表するなら珍しくていいかもよ」

 桃ちゃんときくちゃんは黙っている。穂乃果は騎士について、もっと聞きたそうにしていた。そこへ塚本の声がふってきた。

「みんな、何にするか、決めたかな」

 穂乃果が騎士を見るのをやめて、横向きに座ったまま、首だけ塚本に向けて話しかけた。

「先生。アスベストって知ってる?」

「アスベスト? ほう、さすが兆章さんじゃ。よく知っているなあ」

 穂乃果が歯をみせ、甘えるような声を出した。

「まあね。先生、アスベストは教科書に載っていないけど、いいですか」

「兆章さんのグループはアスベストをやるのか。教科書に載っていなくても、あれは社会問題になった。そう、アスベストも立派な公害だよ」

「じゃあやります」

 穂乃果が自分で提案したような顔で深くうなずいた。騎士は思わず沢村の顔をみたが、沢村は小さく首を振るだけだ。これもここでの普通なのか。桃ちゃんもきくちゃんも平気な顔をしている。他のグループは前川が水俣病だった。そして窓際にいる吉田がイタイイタイ病だ。水俣病にイタイイタイ病。教科書で簡単に調べられるものより、知らないことを調べる方がいいのかも。クラスでは五人ずつ四つのグループができたが、水俣病が二つ、イタイイタイ病が一つ、そしてアスベストがなんと二つ。

 騎士たちのグループのほかに相津と上島たちもそれにしていた。塚本は二つのグループが、教科書に記載のない公害を発表するときいて驚いていた。

 それを知った穂乃果が上島に「私たちが先に決めたのに、先生にもそういったのに」 と怒ると上島は「公害に先もあともないでしょ。それにアスベストの公害は有名よ」 で黙らせた。二人はどうも犬猿の仲のようだ。

 相津が騎士を指さしてからかってきた。

「女子四人で男子がお前一人か、もてるのお」

 すると前川が両手で髪をもっと逆立てながら、相津に振り返って叫ぶ。

「俺っちも、俺の他全員がかわいい女の子じゃでえ」

 クラスの中が笑い声に満ち、なごやかになった。前川の周りの女子が拍手をしている。穂乃果が騎士にささやいた。

「あの前川は私の従兄弟じゃ。だからもてて、調子に乗ってる、騎士の方がイケてる」

 穂乃果の従兄弟だと調子に乗れるのか? 騎士は穂乃果にあきれて、返事はしなかった。

 塚本は発表の順番を決めた。アスベストを発表するのが二つあるので、最初に騎士のいる穂乃果グループがやることになった。穂乃果が一番先にやりたいと言ったからだ。確かに同じことをやるなら、先に発表してしまった方がやりやすい。次に水俣病の前川グループ、その次がイタイイタイ病の吉田グループだ。最後に同じアスベストを発表する上島グループ。

「で、アスベストって結局なんなのよ……?」

 口をとがらせたまま、穂乃果が騎士にそっと問いかける。騎士も首を振る。

「ぼくも、よぅ知らんのや。帰ったらおばさんに聞いてみる」


 そこでチャイムが鳴った。騎士は、穂乃果にとりあわず、席をたった。トイレをさがすためだ。

 二階にあるこのクラスから、穂乃果のいう病院と家が見える。家と家の間隔があいている。道があるのに、車が通っていない。大阪の住宅街では考えられない光景だ。コンビニらしきものが一軒あるだけであとは何もない。しかし、ろう下の窓から見える景色は山と田んぼしかなかった。騎士は鳥取に来てはじめて火災事故や両親が亡くなってしまったことを忘れていたのに気づく。今日は、メプチンキッドエアーも一度も吸引しなかった。そうか、新しい出来事があれば、古い記憶は薄れていくのか。

 それは良いことなのか悪いことなのかは、まだわからない。




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