第一話 田倉騎士の転校
ねえ、おばちゃん
この世には空気というものが
もっと必要だと思う
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田倉騎士は、座布団の上にすわり、膝小僧を抱えて部屋の隅にいる。座布団は濃い藍色で座り心地が悪かった。そして、その部屋全体の居心地も悪い。騎士をどこの家が引き取るかを親戚同士で話し合いをしていたから。十一歳になったばかりの騎士のいない場所で話し合う配慮は一切なかった。
騎士は両親の葬式から、いや、火災事故以来ほとんど何も食べず飲まずの状態だ。火災自体よく覚えていない。現場で消防士さんに助けられるも、喘息の発作が出て入院して点滴をしてもらった。腕にやけどもしていた。しかし記憶があいまいだ。
翌朝の退院時には、伯母の桜木薫が迎えに来て、家に泊めてくれた。しかし毛の長い猫がいたので咳が止まらない。
「騎士ちゃん、喘息があるのは知っていたけど、猫もあかんのか」
その家には同じ年の紗矢がいる。薫の一人娘だ。薫の夫は早くに亡くなっている。桜木家は二人暮らしなのに、お城のような大きな家だ。しかし騎士はそこで何を食べたか、どの部屋で寝かしてもらったのかもよく覚えていない。
騎士と紗矢は同じ町内で暮らしていても、違う学校に通っていた。騎士は家の近くの公立小学校、紗矢は電車で三十分かかる松蔭という女子学校に通っていた。だが二人は町内の同じバレエ教室に通っており、毎週のように顔をあわせていた。
一夜たって薫は騎士を両親の葬式場へ連れて行った。それもよく覚えていない。薫が着ていた喪服が花模様のレースで真っ黒なのにバレエの衣装のように華やかに見えた。紗矢も喪服ながら黒い鳥の羽のようなレースを重ねて着ていた。それは覚えている。
葬式は薫のすすめでこのあたりで一番大きい葬儀会場になった。薫は会場に入る前に紗矢のヘアを整えながら教えていた。
「これはな、ただの飾りやないで。本物のべっ甲やで。葬式やから、こういう地味な色でええねん。でも一番ええもんやで。高いねんで」
紗矢は黙って薫の言葉を聞いていた。騎士はいつもの高級品自慢だなと思った。それも覚えている。
葬儀はいつのまにか終わっていた。喪主は一人息子の騎士だが、まだ小学生五年ということもあり、薫が取り仕切った。
両親も家も持ち物もすべてを失くした騎士は、自分が自分でないような感覚にいる。ただ持病の喘息の発作を一発で静めるメプチンキッドエアーという吸入薬をポケットに入れてすぐに取り出せるようにしている。何もかも失くしたはずなのに、これだけはポケットに入っていた。
着ているものは黒っぽいが間に合わせなので、サイズも小さくてきゅうくつだ。それもどうでもいいが、この吸入器だけはありがたかった。多分入院中にもらったものだろう。メプチンキッドエアーのパッケージにある鮮やかな水色は今の騎士にとって大切な御守りだ。
「かわいそうに、騎士ちゃん。親が火事で死ぬやて。そっとしてあげないとあかんな」
父と不仲を隠さなかった叔父、田倉次志とその妻の田倉すみれがしたり顔で言う。すみれは看護師で職業的な配慮のように見えるが、配慮ではなかった。すみれの隣にいる薫が、そのあけすけな表現に顔をしかめた。この次志、すみれ夫婦にも一人息子がいる。騎士より年上の高校生だが不登校だ。名前は久志。すみれに言われているのか、ずっと騎士のそばについて離れない。かといって話しかけることはない。うつむいて、スマホをいじっている。
その場には七、八人はいたかと思うが、すみれのいう「かわいそうに」 発言以外は誰も騎士に話しかけない。お揃いのような喪服を全員が着ていて、態度もお揃いだ。
そもそも彼らは正月や法事で会う程度の親戚だ。時折お菓子やお年玉をもらった。しかし言葉がないのは、孤児になった騎士を短期間でも引き取ろうとする意志がその場の誰もがいないということ。
会場は十六畳ぐらいの広さがあるが、その半分を占めていたのは長テーブルだ。法事用のお膳と茶碗蒸しの陶器、ビール瓶が隙間なく並べられているが、三分の一は残されていた。端の席にいた親戚の大半はすでに帰った。彼らは疲れた顔で騎士に「大変やけど、がんばりや」「時々は遊びにおいでな、待ってんで」 といいつつ消えた。追いかけて話したい人は誰もいない。
残っているのは亡くなった両親の兄弟だけ。騎士はポケットの中に入れてある、メプチンキッドエアーを再度取り出し、力を込めて握りしめた。薫の家でも夜中に何度使ったかわからない。
吸入器を握っていると目ざとく、すみれに気づかれた。
「あんた、それ使いすぎると心臓に負担が来るで、ほんまにしんどい時だけ、使いや」
看護師らしい言い方だ。確かにそういう説明は聞いたことがある。
これは、一本につき、百回吸入できる。カウンターがついているので、あと何回使えるかがわかる。でも、あと数回分しかない。さっきもトイレに行って発作が起こりそうだったので二吸収してしまった。大きく息を吸ってそれから息を全部吐いて、一気に吸入する。三か月に一度の大学病院の診察で、三か月分の薬をもらい、頓服の吸入としてメプチンエアーは、二本ずつもらっている。でも火事で家が全焼したので、この吸入薬以外にあった発作予防の朝と夕食後の薬は何もない。
両親がいなくなって、今後は誰が騎士のために薬を入手してくれるのだろう。呼吸ができないほどの大きな発作が出てしまったら、誰が病院に連れて行ってくれるのだろう。誰が救急車を呼んでくれるのだろう。騎士は携帯電話をもう持っていない。それも焼けてしまった。騎士の眼には今も迫りくる炎が見える。生きているのが不思議だ。ぼくも近いうちに、死ぬのだろう。ぼくが死んだら、先に死んだお父さんやお母さんとどこで会えるのかな……そんなことをぼんやりと考えていた。やけどした右腕に巻かれた包帯をそっとさわる。柴犬のモンドまで死んだのに涙も出ない。
薫の声が聞こえる。
……うちとこはなあ、夫が五年前に死んだやん。シングルマザーや。そりゃ、うちの紗矢は騎士くんと同じ年やし、バレエの発表会でも一緒やった。よく面倒みたげた。お金は投資がうまいこといってるので、騎士を引き取ること自体は問題ない。せやけど、これから思春期でお互い難しい年ごろになるし。
そうそう、猫アレルギーは困るて。それから、うちは今年の春から課長に昇進したから忙しい。どうにも……
次志はもっとあからさまだった。
……俺のところかて、あかんで? あの子、喘息持ちやろ。俺の家も去年全焼して、今はすみれの実家で同居や。年寄りが二人もいるし、もし何かあれば困る。すみれが看護師だからって頼りにされても困る。そりゃあ、兄の唯一の忘れ形見になるから、面倒みてやりたい。けど、な、すみれもそう思うやろ……
……うんうん。あたしも看護師やから、騎士ちゃんのメンタル面でのケアもしたげたい。発作時の対応もできる。けど、病棟の看護師やから日直も、夜勤も当たり前にある。もともとの生活が不規則やろ。自分の子どもでさえ、まともにちゃんとよう育てられんのに。あんたらも知っての通り、久志はいろいろあって不登校。こんな状態やのに、亡くなった本家の大事な息子を預かるわけにはあかんやろが……
そこへ別の誰かの声がかぶさった。
……ああ、せやな、みな、あかんか。一次的に児童相談所などに保護してもらったらどうや。もう夜やし、明日の朝いちばんに相談してみようか……
騎士はそこで顔をあげて、親戚のかたまりに向かって声を絞り出した。
「ぼくは大丈夫や。学校の保健室に泊めてもらう」
騎士の一番近いところにいた薫が、背中をそのままに横顔だけ見せた。ショートカットから除く耳たぶに大ぶりの黒真珠が鈍く光る。
「なに言うてんのや、この子は」
薫の言葉も騎士の心に響かない。葬式には担任や校長先生が来ていたが騎士は言葉が出なかった。日曜日だったのでクラスメートも親に連れられて何人か来た。涙をためた目で騎士を見る近所の顔見知りもいた。顔を下に向けるしかなかった。
泊まる家もない。保健室のベッドでの寝起きもダメなら、近くの故阪公園か、故阪駅で寝るしかない。それも、どうでもいい。
引き取ることを拒否した薫は、騎士の亡父、田倉長志の実姉にあたる。騎士の母の田倉佐美子とも仲がよかった。隣の町に住んでいたこともあって、よく紗矢を連れて遊びにきていた。薫の夫が亡くなった後も、それは変わらなかった。いつでも身だしなみをきちんとし、多忙な仕事の合間をぬって行く海外旅行の土産、高価な菓子、ブランド物の小物をよくくれた。だが、正直佐美子の金持ち自慢が好きではない。
紗矢は従妹だが気が強い。特にバレエに関しては騎士の方がちょっと遅れて習い始めたのですごく威張る。その手のあげ方はそうじゃないでしょって、文句ばかり。一緒にバレエレッスンを受けるのは我慢できるが、一緒に暮らしたいとは思わない。
次志も自らビールを継ぎながら騎士に背中を向けたまま話す。
「一晩で全焼やで? 難儀なことや。現場検証に同行したが、黒い灰と白い灰しかなかった。俺の家も知っての通り、去年不審火で築五年の家がやられた。耐火建築で外側は焼け残った。だが家の中身は二度と使えない状態になってもて……すみれの実家に転がり込んでそのままや。でもまあ、本家は築百年以上やったからな、中も外もきれいさっぱり焼けてもて……仕方ねえ」
すみれが肩をすくめる。
「ほんまになあ。本家まで火事やで? もしかして田倉家って呪われてへんかあ」
薫が次志に問うた。
「全焼の原因はなんやったん?」
「多分、ほこりかなんかがショートしたんと違うか」
「……放火と違うの?」
「さあなぁ、しかし騎士はよくぞ助かったな」
「あの子だけいつも一階で寝ていたらしいな」
「仏間やろ? じいちゃん、ばあちゃん子やったから……」
薫おばちゃんに、次志おじちゃん、すみれおばさん、皆が親戚だ。しかし騎士の両親が亡くなったというのに、誰も悲しんでいない。これは相続争いがおきたせいだ。数年前に騎士や両親と同居だった祖父、田倉正彦が亡くなってから、東大阪市の故阪町に住んでいても疎遠になった。バレエ教室で一緒にレッスンを受ける紗矢とその送迎をする薫を見かける程度だ。
次志たちの主張では、騎士が祖父母や両親と住んでいた家は、祖父母が亡くなったら売って均等に分けるべきだったという。数年後にモノレールの駅が新たに新設されるので騎士の家の周辺の土地の価格が高騰している。
この争いは騎士の祖父の葬式直後に起きた。住んでいる家を売れと責められ、渋る騎士の父、長志に次志がどなった。
「独り占めするんか。お前も、はよ死ねやクズが」
当時、騎士は小学校にあがったばかりで、がんの闘病中だった祖母の紹子が泣き顔で、騎士と、紗矢、そして久志に「あんたら外で遊んどいで」 と叫んだ。これを昨日のように覚えている。この祖母も祖父の葬式後に祖父を追うように亡くなった。
この次志は騎士の両親が火事で亡くなったことを「よい気味だ」 と思っているのだろう。騎士のじいちゃん、ばあちゃん、お父さん、お母さん、そして犬のモンド。全員いなくなった。おまけに大事にしていたフィギュアやカード、漫画本も気に入りのシャツも、すべて焼けた。何も考えないでいることが一番楽だ。
そこへ一番出口に近いところに座っていた、ずんぐり肥ったおじいさんが素っ頓狂な声で言った。
「せや。日美子はどや? 竹本日美子。あの子やったら騎士を喜んで引き取ってくれるやろ、独身で一人暮らしやで?」
皆が顔を見合わせる。そのおじいさんは、まだ四月なのに、もう日焼けをしており腕組みをして、ひとりうなずいている。喪服のスーツのボタンが取れかけて今にも破けそうだ。
薫がとんでもないと言った。
「鈴彦おじさん。日美子さんて、大叔母さんの娘さんやろ。田倉家から見たら血が薄いどころか、もう他人やん」
次志もいう。
「あの人は、若い時から体が弱いと聞いている。だいぶ前に田舎に引っ込んだらしいけど。現に通夜も葬式も出てないし……ええと、鳥取のどこやったかな、住まいは」
おじいさんが言う。
「鳥取の兆章町や……大阪からちょっと遠いかな」
「ちょっとどころやないがな。ここは東大阪の故阪やで? そこにやるとしたら、この子は転校せんとあかんな」
「お前らが引き取れへんねんやったら、日美子しかいない。でないと、騎士ちゃんが一番可哀そうやがな」
「でも、私らかて、立場があるんや。子どもを引き取るっちゅうことは、人生まで預かるということやし」
鈴彦は、立ち上がって携帯をポケットから出した。
「もうええ。今から日美子に電話をかけてくる。一時でも早う住む家を決めたげな、かわいそうやがな」
鈴彦が、携帯の画面をのぞきながら部屋の外に出ていくと、その場にいた親戚たちが騎士を眺めた。騎士は知らない顔をして横を向く。すぐ隣で紗矢と久志がいる。仲良く遊んでいるわけでなく、紗矢は本を読んでいたし、久志はスマホを片手に寝息をたてていた。
騎士はどの家にも行く気はない。日美子とやらの親戚にも名前に聞き覚えがあるような気もするが、鳥取の「ちょうしょう」 なんて地名は知らないし、本気で家の近くの公園の滑り台の下にでも行って寝るつもりだ。それか、駅前のコンビニの裏側。
あそこは中学生たちもたむろしている。皆無言でしゃがんでスマホをいじるだけだ。騎士が寝ていても大丈夫だろう。
次志が心配そうに言葉をついだ。
「日美子さんが承知なら、騎士は鳥取に行くのもええ。けど、騎士がもしなにかで警察に呼ばれたらこっちへ連れてこな」
すみれもいう。
「あれは長志の寝たばこが原因やで。それに、この子、灰を吸い込んで喘息の発作を起こしたやろが。な、騎士ちゃん。大変やったもんな。救急車に乗ったもんな」
騎士は小さく首を振った。気がついたのは病院だったが、火事の時のことなど覚えていない。救急車のことも覚えていない。葬式のあとこの部屋での話し合い。それが今だ。
紗矢が顔をのぞきこもうとしたので、騎士は顔を膝小僧の中に入れ込んで伏せた。何かを騎士のひざにコツンを当ててきた。薄目をあけるとキャンディーの包み紙だ。ピンク色のそれは、その場の空気にそぐわない。騎士は紗矢の手をおしのけ、再び顔をふせた。
「なによお」
「紗矢、だめよ、そっとしておいたげやあ」
薫の声が響いたが、それもどうでもよい。
やがて鈴彦が、足早にふすまを開けて入ってきた。どすどすという足音が、部屋のすみにいる騎士のところまでまっすぐに響く。それから騎士の肩をぽんと叩く。顔をあげると、鈴彦は笑顔を出した。すると顔全体がしわだらけになり、亡くなった紹子おばあちゃんを思い出させた。電光の灯りをもってしても、よく日焼けしている。
「よしゃ、今から鳥取へ行こ」
薫が甲高い声を出した。
「ちょっとおじさん、日美子さんに騎士を押し付けても大丈夫なん?」
次志の声だ。ついですみれの声も。
「何度か会ってはいるものの、ばあちゃんが生きている間の話やん。陰気な人やったし、ほんまに大丈夫なん?」
別の親戚も「今から鳥取に行くんやったら、時間も遅ぅなるのに」 と言った。
鈴彦は吠えた。
「ほなら、あんたらの誰かが騎士を引き取れるんか?」
誰の声も出なくなった。
「さ、騎士。今から鳥取へ行こや。なに、高速使えばすぐや。中国自動車道を通って行こ。夜の九時ごろには着くやろ。日美子は、騎士と一緒に暮らせるいうたら、二つ返事やったで、そりゃそやろ。こんなにええ子はいてへんさかいな、さ、立ち上がれるか?」
いいも悪いもなかった。でも、この場から出たかったのは確かだ。騎士はどうやって、その場から去ったのか覚えていない。紗矢が「騎士」 と呼びかけた。それと鈴彦の背が騎士とほぼ同じだった。西の方角に太陽が沈みかけていて、あとは真っ暗な空が広がっていた。それは覚えている。
鈴彦の車は大型トラックだった。騎士は山をよじ登るようにしてやっとの思いで助手席に乗った。車が揺れると、急に眠くなった。ここ数日、ろくに寝ていない。鈴彦は紹子おばあちゃんの弟だと言った。それから運転しながら、話しかけてくるが騎士はもう眠くて仕方がない。
パトカーの音をバックに、鈴彦おじいさんの声を夢うつつで聞く。
「なんやろ、さっきから警察の車とすれ違う。まあ、いいか。あのな、騎士くんな、これだけ言うとくわ。日美子さんはな、ええ人なんやが、かわいそうな人なんやで」
「うん?」
「あのな、アスベストって知ってるか」
「アスベリン……」
「ちゃう、アスベスト」
「ぼくが前に飲んでいた咳止めの名前やけど……」
「いんや、ア ス ベ ス ト」
「アスベスト……」
「あのな、騎士くん、公害て知ってるか?」
「こーがい……」
「せや。アスベストはそれやねん。そいつが日美子の胸の中で……」
そこで記憶が途切れている。次に目覚めたらどこかの家の布団の中にいた。