67.返せ。ひかるを
「よしよし。良い子だ」
あまりに餓鬼扱いしたような言葉に、血管が張り裂けそうなくらいの怒りを覚える。
ひかるは涙をボロボロ流しながら、俺から顔を背けた。
静かに水を掬う。真冬の冷たい水。
目を瞑って顔を擦ると、頭上で嘲る谷田貝の顔が浮かんできた。
「……おいおいおいおい! そんなんでメイクは落ちんのか?」
谷田貝は俺の目の前まで来て、しゃがんで俺と視線を合わす。
「お前も変装したことあるんだろ? お前んトコのメイク係は、いっつもそんな弱々しく水で洗顔させてたか?」
「っ……」
「よしよし。オレがやるよ。言ったもんなぁ?
『オレがゴシゴシ洗ってやる』って」
次の瞬間、奴は俺の後頭部を鷲掴みし、
バケツの中に俺の顔面を無理矢理押し込んだ。
「!!」
「ホラ、こんくらいやんねぇと!」
息が出来なくなった俺は、両手で谷田貝の左手を剥そうとする。
しかし谷田貝は右手でタオルを持ち、俺の顔をゴシゴシと、まるでタワシでタイルを磨く様に、力強く擦り始めた。
俺はすぐに息が足りなくなった。
「アハハハハ。まるで洗濯してるみてぇだ。おい、金は?」
谷田貝が部下に問うと、1億ですと返事が返ってくる。
「よし。交渉成立だ」
谷田貝の腕が離れる。
俺は水を飲んでしまった。鼻がツンと痛む。息を吸って、激しく咳込む。
谷田貝はバケツを持って立ち上がる。
「はい。ご苦労さーん」
俺の頭上で、谷田貝はバケツをひっくり返した。
滝のような雨が俺に降り注ぐ。
周りの男たちが手を叩き、大声で嘲笑する。
「……あぁ、確かに本物で間違いなさそうだ」
谷田貝は赤くなった俺の顔を覗き込んで言った。
俺は鋭く睨み返した。
「で、話ってのはなぁ、リーダーであるお前に是非言いたいんだよ」
谷田貝は空のバケツを放り投げた。
安っぽい音を立ててバケツは転がる。
「これからオレや総理は、お前らダークを存分に利用したいワケよ。だから、仲間割れしないで欲しいんだよねぇ」
「は……?」
「お前、仲間の誰かがダークのことをチクったって疑ったらしいじゃねぇか。で、終いには殴り合いのケンカになったとか」
「え……」
「……!」
ひかるは驚いた顔で俺を見た。
そして俺は、ひかるとは違う驚きで谷田貝を見た。
何故、そこまで知っている……!?
「誓って言う。お前ら5人の中に裏切り者はいねぇよ。マジで。知ってるかミミズちゃん、こいつマジギレして『ダークやめよう』なんて言い出したんだぜぇ?」
「そんな……」
ひかるは俺が否定するのを期待していた。
しかし俺は……渋い顔をして、否定しなかった。
「だから頼むから、ダーク解散なんてやめろよぉ?
あぁ……まぁもう、総理が許してくんねぇか。フフ……」
俺はよろりと立ち上がって、谷田貝を睨み付けた。
「返せ。ひかるを」
「あぁ分かった分かった。そんな睨むな、こえーなぁ。ほらミミズちゃん、行っていいぞ」
谷田貝は銃をポケットにしまった。
ひかるはふらりと前に歩き出したが、躓きそうになったところを俺が慌てて支える。
「ごめん……」
泣きながら声にならない声で謝るひかる。
俺はひかるの肩を支えつつ、足取りが確かでないのを知りつつ、乱暴に引きずる様に出口へ向かう。
「あと総理からの伝言だ。『次はダークが平野を殺せ。裏切れば分かるな?』だそうだ。
怪盗が総理の最大の敵を殺す……。庶民みんなの希望の光だったお前らが、派手にその期待を裏切る。
2回も長井を出し抜いたダークですら長井の手に堕ちたのかと、愚民どもは絶望し、反旗を翻す気力すら失わせるのが総理の目的らしいぜ。ククク……」
「っ……」
「じゃ、道中お気をつけてぇ」
谷田貝はへらへらと手を振った。
エリンギの車に戻る間も、ひかるは肩を震わせて泣いていた。
俺は遠慮なしに、よろよろと歩むひかるを引っ張った。
「……ごめん」
嗚咽の合間に何度も言った。
ひかるはバケツの水を浴びてびしょ濡れになった俺のコートを、強く掴んだ。
「本当に、ごめん……」
「余計な事あいつらに言うなよ、いちいち。恥さらしだ」
「分かってる……」
「……。……お前」
ひかるの額に手を当てる。
……おかしいと思った。
「……いつから」
「いや、大丈夫だよ」
「ずっと我慢してたのか」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃない! お前は2週間も監禁されていたんだ、大丈夫な訳ないだろ!?」
ひかるは唇を噛み、また涙を流した。
「ごめん……」
「もう……いちいち謝るな!」
「……ごめん……」
「『ごめん』じゃないッ!」
ひかるの肩を強く握った。
俺も何だかよく分からない感情が腹の中に渦巻いていて、叫びたいような泣きたいような、そんな気分だった。
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「ひかる……っ、よかっタ無事デ!」
エリンギは思わず運転席から降りて来て、涙声でひかるに抱き着いた。
「ごめんエリンギ……、心配かけて」
「ううン、ホントに、無事で何よりだヨ!」
エリンギは涙ぐんでいた。
「エリンギ、このまま病院へ直行だ。熱がある」
「エ……、分かったけド、タカ……どうしたノ?」
俺は答えなかったが、雨も降っていないのに全身びしょ濡れなのは、確かに不自然だ。
「悪いな。シート濡らして」
「いヤ……いいけド」
「早く。行こう」
車が発進すると、雪がちらついてきた。
車内はしばらく、沈黙が続いた。
……いや、本当は俺もエリンギもひかるに聞きたいことはたくさんあるのだが、今はひかるの体調を気遣って控える。
俺とひかるは後部座席で、互いに顔を合わせないように座っていた。
ただしひかるはだるいのか、ドアに寄り掛かっている。
――思い出されるのは、あの喧嘩……。
恐らくひかるも、同じことを考えているに違いない。
ダークの事で必死で……すっかり忘れていた。
俺はあの時コイツに『お前の事が嫌いだ』『さくら号から出て行け、ダークにも要らない』と言ったんだった……。
しかもそう言って追い出そうとしたせいで、誘拐までされた。
『アレは嘘だ、悪かった』なんて言えない。
2人とも、うやむやに終わらすのは嫌う性分だ。
……どうすればすっきりさせられるのだろうか。
俺とひかるの間に、妙な空気が流れているのを感じた。
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近くの病院に到着した。
「タカ、ひかるの財布貸してヨ。車暖房つけとくかラ、ボクが……」
「いや、俺が行く。お前は待ってろ」
「……でモ、余計に冷えちゃうヨ」
「……」
水滴が落ちないまでに衣服は乾燥したが、それでもまだ湿って重く感じる。
……実際、車内でも、寒い。
エリンギは百パーセント、思いやりで言っているのは分かるが……。
「さっきタカが行ったかラ、今度はボクが……」
「くしゅっ」
俺はわざとくしゃみをした。
「……俺も、ついでに」
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「タカ……、大丈夫? 尚更エリンギに頼んだ方が……」
「わざとだ」
「え?」
「わざとくしゃみした」
病院の待合室で、ひかるは首を傾げた。
「わざとに聞こえなかった……。なんで……」
「お前の身分証、本名だろ。性別も」
「あ……、そっか。ごめん、わざわざ……」
「くしゅん!」
俺は壮大なくしゃみをした。……本物の。
「だから、謝るな。礼を言え」
ひかるは笑っていた。
……性別と言えば。
「お前、谷田貝に女ってバレてただろ」
「うん……」
「“ミミズちゃん”って」
「……鷹のエサだって」
「……? 鷹の……」
ひかるが俯いて頬を染めていた。
俺が“鷹のエサ”の意味が分かったのはその後すぐだった。
……本当に、腹の立つ男だ。
俺は顔をしかめた。
「でも、大丈夫。本当に指一本も触られてないよ」
「……」
「タカ、どんなに憎くても人殺しはダメだよ。お父さんが最後まで引き金を引かなかった、その想いを大事にするんでしょ。絶対後悔するよ」
「……分かってる」
「うん……。それで……、聞きたいこととか言いたいこと、沢山あるけどさ」
「俺もだ」
「全部みんなの前で話したいんだ」
「……そうか」
「おれとタカの喧嘩のこと……、みんな知ってる?」
「あぁ」
「だったら、尚更。……大丈夫。タカを悪者にはしないから」
「……は?」
「タカってなんかいっつも悪者にされちゃうから……。たぶん、それで殴り合いの喧嘩になっちゃったんでしょ、まさかりさんと。……仲直りは?」
「お前が帰ってくるまで、休戦中」
「じゃあおれが、鶴の一声ってやつになるから」
「……使い方、微妙だな……」
ひかるがいたずらっぽく笑うと、俺も先程までの嫌な気分を忘れ、硬い表情も消えた。




