夜桜の幻想
夜の森に、月光が降り注ぐ。暗く獣道に近いその道を照らすのは、十六夜の月と手に持ったランタンだけだ。
夜の闇とかすかな物音に不安はあるが、過度な恐怖はない。何度も通った道だ。
まもなく見えてくる。暗闇の中に、ぼうっと浮かぶような一本の木。それは、風もないのに時おりはらりと花を散らす桜だ。
私は、その木を代々見守ってきた桜守。と言っても私に桜の専門知識はなく、本当にただ見ているだけだ。
この木はもうすぐ枯れてしまう。せめてそれを見届けるのが、私が思う桜守として果たすべき役割だった。
近づいて、ふと気づく。誰か先客がいるようだ。幹に背を預け、舞い散る桜を見ながら盃を傾けている。淡い色の桜に映える、沈む間際の太陽に染め上げられたような黄昏色の髪のひとだった。
彼の視線が、私に向く。昇ったばかりの満月と同じ、柔らかな黄色の瞳。
「よォ、お嬢さん。珍しいな、ココに人が来るなんてよ」
「め、珍しくなんてないです。私はこの木の桜守です」
自分をふるいたたせるために、あえて桜守だと告げる。酒盛りをしているだけならともかく、桜に害を与えられてはたまらない。
「フーン。熱心だな、こんな山奥まで」
「これくらいはしますよ。私は他に、できることはないので」
「そうか? オレはコイツとは長い付き合いだが、ココで誰かに会ったのは初めてだぜ?」
片方の口角を上げて、彼は笑う。よく見ると、端整な顔立ちをしていた。そして額からは、黒曜石にも似た角がすらりと伸びている。
「お、鬼……?」
「こんな時間にこんなトコで、フツーの人間が花見なんてしてると思うか?」
「それは……、確かに」
月に照らされた桜の下で、盃を手にする綺麗な鬼の姿はあまりにも幻想的だった。その雰囲気に気圧されたように、私はうなずいていた。
「夜は、オレらあやかしの時間なんだよ。怖ぇか?」
ゆるく首を振る。
「余所者なのは、私の方だっていうのはわかりました」
「あら、夕緋さまったら。わたくしの桜守をいじめないでくださいませ」
立ち去ろうと思った私の肩に、誰かの手が添えられる。白くてたおやかな手。振り返ると、穏やかに微笑むひとがそこにいた。
「あなたは……」
「思わず出てきてしまいましたわ。わたくしは、この桜の精ですわ」
「え、桜の精? あ、あの。私、この木のためになんにもできなくて……。申し訳ないです」
「貴女に謝ってほしくて出てきたのではありませんわ。もう終わりが決まっているわたくしのために、心を砕いてくださってありがとう。それを伝えたかったのですよ」
彼女は私の手を握る。まさしく桜の精といった儚げな雰囲気で、夕緋と呼ばれた鬼とはまた違った美しさを持つひとだ。
「せっかくの花見の場なのに、しんみりした空気は嫌いだぜ。香澄、桜守のお嬢さんも、呑むか?」
「わたくしは頂きますわ。夕緋さまとお会いできる機会も、もう少ないでしょうから」
「オイ、だからそういうのは……」
「貴女もいかがですか? せっかくこうしてお会いできたのですし」
控えめに提案しているものの、彼女の手は私の袖を離さなかった。
「お酒はちょっと。私、未成年なので。でも、お言葉に甘えてお邪魔します」
私も木の根元に座ると、香澄さんは嬉しそうに笑った。桜に勝るとも劣らない、花のような微笑み。
「人間は、メンドーな決まりが好きだなァ。ま、無理強いはしねェけど」
そう言った夕緋さんは、盃の代わりに甘酒を渡してくれた。香澄さんには、小ぶりな朱塗りの盃を。
ほろほろと舞う桜を眺め、鬼と精霊が酒宴を始める。
あまり丁寧ではない所作で、夕緋さんは盃を傾ける。しかし盃を空にしてふっと吐く息に、赤く艶めく唇に、どこか色気がつきまとう。
対照的に、香澄さんは両手で盃を持ち、そっと口をつける。頬を淡く染めて、愛おしそうに目を細めた。
「今宵は、良い夜ですわね」
「はい」
交わす言葉は多くない。ただ、あるかないかの風に花が散る。それだけが、時間の流れを示していた。
明るい月光を受けて、夜桜は妖しげに闇に映える。
「夜の花見ってのも、悪くないだろ? 夜桜だって、青空の下の桜とまた違った魅力があるからな」
「私も、夜桜って好きです」
「ふふ。お二人とも、嬉しいことをおっしゃってくださいますわね」
ほころんだ花のように香澄さんが笑うと、はらはらと桜が散った。そのままふわりと、夕緋さんの持つ盃の中に舞い落ちる。
黒い盃には十六夜の月が映り、桜の花びらが浮かぶ。お酒ごと、夕緋さんは月も桜も飲み込んだ。
「夕緋さんは、よく呑みますね」
「鬼ってのは、総じて酒呑みだからなァ」
「夕緋さまは昔から、ここにお酒を呑みにいらっしゃいましたよね。時にはわたくしも交ぜて頂いたものです」
「ココ以上に、うまい酒が呑めるトコはねェよ」
残り少ない時間を惜しむように、桜は花びらを散らす。ゆるやかな春の風に乗って、どこかへと舞っていく。この幻想的な一時と共に。