ネオマヤン
「キチガイだ。帰れ!はやく帰るんだよ!」井上は激高した。
「明日の結婚式も来るな!取り消しだ!今後、二度と、俺の前には現れるな。絶交だ!嫁さんにも、そう伝えておけ。もう二度と会うことはないから。これっきりだ」
ニナガワは驚かなかった。心は穏やかだった。じっと井上を見た。
すると、激情に駆られた井上の奥には、泣いている彼の姿が見えた。
ニナガワは静かに頷き、その後、二度と、井上の方を振り向くことなく、店を去った。
ニナガワの足は、実家へと自然に向かっていた。母親は不在で父親が一人いた。玄関を開けると、父の声がした。居間に上がると、父は珍しく何もせずに、テーブルを前に座っていた。新聞すらなかった。何もしていない父親の姿を、ニナガワは初めて見た。父はいつも家にいるときも、掃除をしているか、ご飯を食べているか、何かを飲みながら新聞や雑誌を読んでいるか。彼はいつも忙しなく何かをしていた。心ここにあらずといった状況に、ニナガワは声をかけられずにいた。
しかし、このときは、違った。父は誰かを待っているようだった。
まさか、この自分のはずはなかった。ニナガワは思った。
「やあ、父さん」ニナガワは、気軽に声をかけてみた。だが、父からの返事はなかった。ニナガワは仕方なく、自分の椅子に座った。父は目を閉じていた。
「たった今、友人を一人失ったよ」ニナガワは、反応のない父親に向って、言った。
「でも、当然だ。俺があいつだったら、やっぱり、そう言うと思う。追い返す。でも俺は、あいつの力になりたい。その想いを伝えられてよかった。自己満足じゃなくて。あいつとはもう、会うことはないかもしれないけど、それでも、あいつの力になれたら嬉しい」
父親からの反応は、相変わらずなかった。
「ある考えがあるんだ」彼は続けた。
「ただそれは、井上に言っても、仕方がなかったのかもしれない。それに、父さんに言っても」
ニナガワは、その後も延々と、構想を語り続けた。言い終えたそのときだった。
ふと、父親は、すでに死んでいるのではないかと、そんな思いがよぎった。
まさかとは思ったが、来てから一度も、言葉を発していないだけでなく、目を開けた姿も見てはいない。近づいてみる。呼吸は聞こえない。手首に触れる。脈拍もない。父の頬を叩く。反応はまるでない。両腕はだらんと、重力に従っている。ニナガワは、その後も何度か、父の身体を揺らせた。だが、反応は返ってこない。ニナガワは救急車を呼ぶ。いったいいつ彼の心臓は止まってしまったのか。母親はどうしたのだ?一緒に救急車に乗り込み、病院へと行った。数分後、母親も到着する。
「どこに、行ってたんだよ!」ニナガワは大きな声を出す。
「どこにって、買い物よ」
「父さん、息をしてなかった」
「そうらしいわね。私が家を出るときは、そんなことはなかった」
「出るときって、いつだよ」
「三十分前よ」
言われた時刻を遡りして考えると、本当に、これ以上にないタイミングで、入れ違っていた。
そのときふと、衝撃的なことを想い出した。家に入る時だった。父親の返事で俺は家の中に入ったのだ。頭が混乱した。あのときは生きていたのか。心臓は動いていた。じゃあ、いつ、止まった?俺が居間に入ってからか?俺の話を聞いていたときか?いったい、いつ?だが、居間に入ってからの父親は、まるで反応がなかった。初めは、自分が、突然訪ねたことに、気をよくしていないのだと思った。しばらく自分が話していれば、そのうち言葉を返してくれるだろうと思った。いったい、いつ、彼の心臓が止まったのだ?救急車の中でも、心臓マッサージが幾度となく繰り返される。病院に着くと、緊急処置室へと入っていった。今も、処置は続いていた。母親の方を見る。彼女に差し迫った焦りは、感じられなかった。ニナガワは、自分の呼吸に意識を集中した。動揺を回避しようとしていた。最悪な事態を、すでに受け入れようとしていた。しかし、いったいいつ、止まったのか。
それだけが、ずっと気になり続けた。まさか、俺があんな話をしたから?だから、彼はショック死してしまった?振り返れば、俺は両親に、ショックばかりを与えていた。安らぎこそが、彼らの求めているものだった。俺は、大事なものを、何も与えられていなかった。申し訳なさでいっぱいになった。
緊急処置室のランプが消える。医師が現れる。深々と頭を下げ、辛辣な表情を浮かべ、ニナガワギんイチさんはお亡くなりになりましたと、彼は言う。自宅での死亡であったため、解剖へと回すことになります。ご了承ください。この度は大変残念でした。
母親も医師に向かって、深々とお辞儀をした。ニナガワは呆然と、その様子を見ていた。
二つの彫像は、彼女の知覚の中で重なり合い、一体となっていた。左右に、別々の一体として、存在していた石像だったが、聖塚はそれを、一つの架空の生物に、昇華させていた。その幻は、ちょうど、途中で途切れた、階段の上空に存在していた。宙に浮いているにもかかわらず、それは、地をしっかりと、踏みしめているように見えた。その一体の生物は光を放っていた。いや、違う。聖塚には、その光が外に向かって放射しているのではない、むしろ、その輪郭の内部へと、周りの空気を吸い込んでいく光のように見えた。
今まで見た、どんな光とも違った。ライトのような淡い光でもなく、太陽光のような目を眩ますような光でもなかった。じっと見ていられた。見れば見るほど、この生物の輪郭の内部に吸い込まれ、向こう側にある世界に出てしまいそうだった。鳥のような獣のような生物は、どんどんと、その存在を拡大していた。聖塚の意識は、ここで耐えられなくなった。すでに、石像に吸い込まれ、別の世界へと抜け出てしまっていた。肉体は確かに、この地に釘づけられていたにもかかわらず。聖塚の目の前には、すでに石像の姿はなかった。廃墟の階段もなかった。身体には妙な感覚があった。
この身体の内部に、あの生き物が、居るような気がした。一体となっている。そんな感覚が続いた。
次第に、聖塚には、その生物が紋章のように、刻まれていくのがわかった。
そうだ。あれは、実際の生き物ではない。シンボルだ。見る者を強力に惹きつけ意識を変性させるシンボルだ。何のシンボルだったか。聖塚は、過去形で考え始めていた。私は知っている。さらに、その紋章に、意識を集中させていく。その意味を、問いかけていた。答えは返ってはこない。代わりに、聖塚の周りを、強烈な光が取り囲んでいる。
やはり、この自分が、シンボルそのものに、なっているかのようだ。
私自身が。それが答えだ。私はいつのまにか、宙に浮いていた。上空の高いところから、地上を見下ろしていた。
「私は、悔しい」
その声が、聖塚を我に返させた。
見下ろしていた街並みは、今や、どこにも存在してなかった。
目の前には、北川裕美がいる。その横には、インタビュアーの男。
「なめられたくない」
そう言う北川裕美の身体からは、青白い炎が燃え盛っていた。
「私は証明したい!私は必ず、王家を復活させてみせる。それが、私の役目だから。私はあの日の出来事を忘れやしない。私は、運命に復讐がしたい。ずっとそう考えていた。惨めな地下の世界へと追いやった、そいつらを。見返してやりたい!私の血を、私の血脈を断ち切った、あいつらに!けれどあいつらは、もうこの世にはいない。あいつらもまた滅びてしまった。すべては滅びの道を、例外なく突き進んでいく。一体、この恨み、憎しみは、どこに、誰に向けて、解き放てばいいのか。私の想いは燻ったまま・・・。私は周りを不幸にし、私自身に牙を向けていく。私はその憎しみを、ただ撒き散らすことしかできなかった。でも、ある人との出会いが、その憎しみを別の形へと変え、浄化させることができることを知った。芸術と出会った。芸術を通せば、すべての憎しみは、形を変えて、天へと返すことができる。
私は新しい私を見つけ、新しい私になった。
あなたの見ている私は、その、新しい私!
では、古い私は、消えてなくなってしまったのか。それは違う!それもまた、ここにある!あり続ける。その古いわたしを、あなたは見ることができる。あなたの波動が、そこに一致したときに。そこにずっと、あり続けているのだから。思い出す王妃の記憶。ブルーブラッドの血。失われた血脈。そして、あなた」
聖塚は、ここで、気を失ってしまう。
心を開く必要があった。私は、その殺される瞬間を、どういう舞台で表現するのか。そもそも、どうして、心を閉ざし、人との交流を極度に避けているのか。そこを探ろうとした。死期を悟った人間には、これほどまでにあっけなく、答えは返ってくるものなのか。私は、人に何故か、好かれたくないと思っていたのだ。そればかりか、興味を、持ってもらいたくない。自分がそんなふうに思っていたなんて、考えもしなかった。
私という人間への関心を高め、時に夢中になってしまうような状況、それを極端に恐れていた。ということは、そもそも、私という人間は、人を熱狂的に好きにさせる、そんな要素を持っているということなのか。だとしても、どうして、それを恐れる必要があるのだろう。その答えも、すぐにわかった。殺されるからだ。殺す対象として、私が選ばれることになるからだ。それを恐れているのだ。もし、人々に興味を持たれ、好意を持たれ、それ以上に関心を極端に集めることにでもなれば、おそらく、私のパーソナリティは、時代や権力の琴線に触れてしまう。私は、処刑の対象になってしまう。そんなふうに死ぬことには、耐えられそうになかった。
だが、そんな恐怖は解消された、今、私はむしろ、人々の関心の対象になることを歓迎していた。そうなる状況が作られることを許してもいた。私は、聖書への解釈をどう表現してみんなに伝えようか。信仰は神を崇めることではなく、神と一体化すること。この自分こそが、神の化身であることを体感すること。そして、その長さ、頻度こそが信仰であるということ。それを伝えたかった。私は聖書の解釈を、自分の言葉に直すことにした。詩になるのか、物語になるのか、それはわからない。とにかく、まとまった言葉へと、集約しなければならない。そこが始まりだった。そして、私は幼い頃、ピアノを習っていたことを想い出した。今まで忘れていたことの一つだった。家族との思い出に、繋がることから、これまで無意識に避けてきたのだろう。
しかし、家族のことも、今はむしろ積極的に思い出したかった。これまで見ないようにしてきたすべての記憶を、あぶり出し、抽出した塊を、一つの空間に重ね合わせたかった。そうしたとき、私は真の私に、回帰することができる。たとえ、物理的な危害を加えられようとも、何のダメージも受けずに、私はこの世を去ることができる。それこそが、キリストだった。私こそが、イエス・キリストなのだった。みなもそうであるということを、私が証明したかった。想いは次々と沸いてくる。それらはバラバラに散らばることなく、一つの大きな想いへと集約していくようだ。私という存在が、まさに、渦そのものになっていた。ここに、すべては集まってきている。なんと幸福なことだろう。私はこれまでの人生のすべてを、肯定し始めていた。すべては、ここに至るための、道程であったのだ。私は死に向かって、自ら疾走していっていた。だが、これほど生きがいを感じ、生きることを欲する私もまた、初めてのことだった。
だんだんと、私は、時間の感覚から逸脱していった。初めから、私は私であった。何も恐れる必要はなかった。死ぬ場所を見つけたのだ。ピアノのリサイタルを開いてもいいのかもしれない。メロディーをつけて演奏してもいい。歌詞をつけて、誰かに歌ってもらうのもいい。みんなで歌うのもいい。聖書の解釈を、ノートに書きつける作業を進めながら、ピアノの調達にも奔走する。いや、そんな必要もない。オルガンがある。教会には、備え付けのオルガンがあった。
私は、教会の音楽部門に直接話をもちかけた。率直に演奏会を開きたいのだと言った。
それと、昔、会得した演奏を取り戻したいので、練習もさせてもらえないだろうか。そう頼んだ。
老人の気まぐれな発言を許してほしい。けれども、自分の命は、そう長くはないと思う。最後に、一つだけ叶えたい夢がある。私は幼いころからずっと、教会のオルガニストに憧れていた。音楽の道に本当は行きたかった。けれど、そのようなチャンスには、恵まれなかった。強い意志もなかった。ただの憧れだった。でも、こうして今、もうすぐあの世へ召されていく身になったとき、私はそのような憧れに、悩まされているのです。一度でいい。たったの一度でいい!たくさんの人の前で自分の演奏がしたい!迷惑はかけない。私は、熱情を込めて訴えていた。
オルガニストは、自分は許可する立場にないからと言い、キリスト教会の上の人間に相談してくれと私に促した。しかし、その申し出には、共感してくれた。推薦状もつけておくと言われた。
一週間後、その返事は来た。キリストの生誕祭までは不可能だが、それが過ぎれば、検討の余地がある。それと、あなたが、どれほどの演奏技量の持ち主で、どのくらいの技量が、どれくらいの練習によって、取り戻せるのか。それを見極めてからにしたい。そういった内容だった。
物事は順調に進み始めていた。
「荒れ狂っていく心の中の淀みを、循環、浄化する装ための装置。都市構造を中心としたこの世界に、インフラ整備として、組み込むべきだ」
ニナガワは主張した。
「もう、それは、個人が個人としての責任を、持つこと以上に、社会的な問題なのだ。この文明の構造が、心を乱す波動を、垂れ流しにしているのであるならば、その乱れを回収して、浄化し循環させて、元に戻す作用もまた、前提として組み込まれている必要があるんじゃないのか。
有毒な排気ガスを、そのまま、いつまでも放置しておくわけにはいかない。
そんなガスを、発生させないことが、本当は望まれるが、今はそんな悠長なことは言っていられない。有毒なガスは、そのまま完全には、自然に浄化されることはない。濃度は積み重なっていく。いつかは臨界点を迎える。最後に代償を得るのは、そう、我々の文明の全体だ。しかし、その極限地に辿りつくまでには、人間そのものが、影響を受ける。より、敏感な人間、より繊細な人間、より遺伝子レべルの弱い人間から、その影響は、出始めることだろう。兆候はすでに、至るところにある。とにかく、緊急に、循環装置をつくり、文明の構造に埋め込まなくては」
ニナガワは、意識のなかったかもしれない父親に向って、話したことを、ここでも繰り返した。結局、ニナガワは、《オンブロ社》の本社ビルに来ていた。拒絶され続けた、ニナガワの心の拠り所は、すでにココにしかなかった。この一階ロビーにしかなかった。白い曲線を描いたドーム型の広い空間。ニナガワの他には、誰もいなかった。
白い壁は、外からの日光のせいなのか、電気で照らしているのかわからなかったが、内部は非常に明るかった。ニナガワは、特定の誰かに語るように、正直に心を開いていた。見たこともない《オブロン社》の代表たちに向かって、話しているのだろうか。旧友の井上を初めとした、他の同期たち、似たような境遇に置かれた人たち、すでに、荒れ狂う感情のカオスに、発狂してしまった人たち、その寸前の人たちに向かって、発信しているのだろうか。
とにかく、今は、この戦闘気味になった激しい狂気を、文明の構造の外、逃がす作用が必要だった。特定の人間に、その狂気を向けることは、絶対に間違ったことだった。
ニナガワは、言葉を出し終えた。ふと、ここが、礼拝堂であるような気がして、なぜかしら、懐かしい気持ちになった。
ファラオは、幼き自分の姿をその闇の中で見ていた。三歳の頃であったり、八歳、十歳、十三歳あたりまでの、自分の映像が、浮かんではまた消えていた。
客観的にみて、彼の見た目は本当に素晴らしかった。周りの大人からは常にかわいいと言われていた。子供があまり好きではない人にまで、彼の魅力は行きわたっていた。ほとんど、十代前半までは、そのような扱われ方だった。ある意味、おもちゃか小動物を扱っているかのように、ファラオには見えた。その光景は実に腹立たしかった。その想いがどこから湧いてくるのか、ファラオにはよくわからなかった。
好かれ、甘やかされ、場の中心に祭り上げられる、もう一人の自分の姿に、嫉妬しているのだろうか。しかし、ファラオは、その幼き日の自分が、後に感じるであろう、大きな出来事を予感して、そのときの想いが憑依してきたことを、すぐに知る。
親戚の叔母という人物が現れ、彼女は吐き捨てるようにこう言った。
「所詮、この子だって商品なんだからね。可愛いに越したことはない。それも、商品価値の一部なんだから。相手の家の男は喜ぶわ」
「ちょっと、叔母さん。やめて。この子は、男の子なのよ」
「男?まあっ!」
「そうよ」
「そうだったんだ。ごめんね。叔母さん何も知らなくて。そう。男の子だったの。それはよかった。王は見栄えが大事なんだから。この子は、素敵な王になる。誰に似たのかしら」
その声は、だんだんと、闇の中へと消えていく。
商品という言葉だけが、ずっと残り続ける。
十代の終わりに、差し掛かる頃だった。王の後継者としての、戴冠の儀が、執り行われることになる。
王族としての成人の儀のようなものだった。親族のすべてが集まった。そこで、彼は宣誓した。その後、民衆の前にお披露目とされることになる。盛大なパレードが執り行われる。しかしそのあいだ、彼の心はずっと気落ちしていた。俺はこの場にふさわしくない。王としての人格は、何も備わっていないのだから。教養も国の未来のビジョンも、何の持ち合わせもない。その片鱗すら、持ち合わせてはいない。こんな男が、王の後継者だって?笑わせてくれるわ。そのとき、あの叔母の商品発言が、蘇ってきた。所詮、あなたは、商品なんだからね。王家の商品なんだから。王家のロゴを身に纏った、商品。それ以外に、あなたの価値などないのだから。
どんな衣装を身に纏うのか。それだけが、人間の価値なのだと。そうなのだと、彼も思ってしまった。民衆の姿を見下ろしながら、彼は、人々がどのような恰好をしているのか。それをじっと観察していた。彼らもみな商品だった。すべてが商品としての、役回りだった。一旦外の世界に出てしまえば。
だが、そう思えば思うほど、彼は自分という人間が、いかに空っぽであるのかを思い知らされた。
商品というのは、空っぽの代名詞だった。中身が何もないからこそ、衣装という名の豪華な装いを、被せる。衣装のランクは、様々だった。自分は、この衣装を生涯身に纏っていく。それは運命だった。
二十歳を前にした彼は、豪華な装いとは、逆に、その気落ち度合いは、加速度的に増していった。
そして、ファラオは、今、思う。
自分のそのような生い立ちが、人からの好意を、頑なに拒み、人から興味を持たれることに、注目されることに、歪んだ解釈を、加えてしまっていたのだと。誰にも相手にされない自分、世間に放っておかれる人間。誰にも、本気で愛されない人間。そんな自分を、内面では、求め続けていたのだ。あの幼き日に、ただ無条件に愛された自分を、許すことができなかった。あいつらは、あの人たちは、俺の本質など、何も見てはいない。ただの表面的な可愛さだけを、弄んでいる。俺の内面を見るんだ。そして、その内面とは、空っぽの荒れ地だ。そこを見て、本当に、お前たちは、俺を愛することができるのか?王家の没落が顕著になり、王位が剥奪される時になるにつれて、実はファラオはそんな状況を、笑っていたのだ。ほら見たことかと、自分を、親族を、民衆を、あざ笑っていたのだ。お前たちは、俺の何を見ていた?何を好きでいた?どこを愛していたのだ?と。
ところが、こうして、何百年と闇に生きた末、今思うこととは、あの、幼きときの愛され方というのは、ただの表面的な称賛ではなかったような気もするのだった。
あれは、あれで、幼き自分の本来の輝きが、周りを和ませていたのではないか。確かに、何のビジョンも、力もない、幼き時代ではあった。でも、その代わりに、濁った眼はしてなかったのかもしれない。その眼を、ファラオは今、本気で取り戻したいと思い始めていた。この闇に生きた数百年と融合させて、本当の自分の姿を、輝かせたいと、今初めてそう思った。
長谷川セレーネは、モデルとしての活動を続けていた。自分が好きになった男には、確実に拒絶されるという連鎖は、いまだに続いていたが、それでも少し薄まってきているように感じられた。交際を断られる。または交際の初期に、相手が自然と離れていくという現象は、あいかわらず続いていたが、その感覚は、恋人になるかならないかの、僅かな差の、どちらにでも転ぶ、可能性のある空気へと、変貌していた。
長谷川セレーネは、本来、感受性は強かったために、この変化はすぐに察知した。
私は変わり始めている。そう確信した。
心の中にある、強固なわだかまりは解け始めていた。ふと感じたのは、本当は私が、男達に拒絶されたのではないということだった。私の方が、最初から拒絶していたのだ。私のことを好きにならない、そんなタイプの男をわざと選び、モーションをかけていたのだ。その思いつきは、最初信じることはできなかった。どうしてそんなことをわざわざするのか。私は拒絶されることで苦しんでいるというのに。苦しんでいる?本当だろうか。違う!喜んでいるんじゃないのか。本当は。そこまでは言わなくとも、密かに望んでいる!私は貶められ、卑しめられたいのだ・・・。どうしてだろう?この美貌だ。
この美貌は、多くの男たちを惹きつける。多くの女性たちを、憧れの対象にさせる。そんな自分とのバランスを、取ろうとするかのように、違う要素を意図的に挿入させたい。私の心はそう願っていたのだ。けれど、そんな願いは歪んでいた。本当に私は傷ついていた。私ではない、何か別の生き物が、私の中には住み着いていて、その生き物は私がもがき苦しむ姿を喜んでいる。
そう考えると、私が好きだと強烈に感じる男たちは、本当は好きでも何でもなく、ただ私を好きにならないという、その一点だけを察知して、告白に挑んでいたのかもしれない。
合点が行き始めていた。わざわざ、そのような男の存在を、私は嗅ぎまわっていたのだ。
意識が戻った時、聖塚は、白亜の部屋の中にいた。ベッドに寝ていた。腕には物々しく包帯が巻かれ、天上からは点滴の袋が吊るされていた。ベッドの横で動く影があった。
「聖塚さん。あっ、気づいた!Kです。作家のKです!ちょっと待ってください。今、先生を呼びますので」
二人の看護婦に続いて、恰幅の良い医師が登場する。
「いかがですか、聖塚さん」
「いかがと、言われても」
「覚えてますか。あなたは、僕と居るときに、突然、意識を失ってしまったんですよ。遺跡の取材です。覚えてますよね?」
Kと名乗る男が、ベッドに顔を覗き込んでいた。
「お二人は、付き合っていらっしゃるのですか?」
医師は訊いた。
「仕事です。取材で一緒に郊外に行ったんです」
「なるほど。顔色もいいようですし、栄養も十分に補給されています。血液検査の結果も、良好です。ただの一時的な過労でしょう。もう、ほとんど、回復なされています。もう一晩、ここで過ごして、明日の朝には、退院なさって構いません」
「お世話になりました」とKは言った。
「私・・・」
聖塚は、部屋を出ていく医師の姿を、目で追った。
「よかったですね、聖塚さん」
「ああそうね。ねぇ、ところであなた」
「何でしょうか」
「誰?」
聖塚は、虚ろな目で、Kから天井へと目を移した。
「どうしたんですか、聖塚さん。Kですよ。K!」
「科学雑誌の?」
「科学ですか?」
「そう」
「科学とは、残念ながら関係ありませんよ。作家のKですよ。エッセイとか小説とか、そういうのを書く」
「私、科学雑誌の記者から依頼を受けて、それで、若手の考古学者としての取材を受けていた」
「そうなんですか?」
「ええ」
「僕のことは、覚えてないんですか?」
「Kさんでしたっけ?」
「そうです」
「存じ上げません」
「そうですか。記憶が抜け落ちているんだな」
「あなたと私は、どんな関係なのでしょう」
「友達です。あなたが僕の家を訪ねてきたことがきっかけの。出版社の丸丘っていう男、知ってますよね?僕の仕事仲間です。彼と、あなたは、知り合いだそうで。それで彼から、あなたの所に話がいった。それで丸丘を通じて、あなたと僕は引き合わされた。それ以来の友達です。ほんとに覚えてないんですか?考古学者のあなたを紹介された。自分が考古学者であることは、覚えてますよね?」
「もちろん」
「それなら、僕を思い出すのも。時間の問題だ」
Kは息を深く吐き、安堵の表情を浮かべた。
「二人で、遺跡の跡に行ったのは、覚えてますか?」
「遺跡の跡」
「レイラインの」
「レイライン?」
「その言葉も、覚えてないのか」
「いえ、それは、私の研究のキーワードです」
「そうです」
「遺跡に行ったのは、覚えてますよ」
「そこで、気を失ったんです」
「でも、あなたとは、行っていません」
「別の人とも行ったんですね。でも、倒れたのは、僕と一緒の時です」
「でも、私、一人で行った以外に誰かと行ったのは、一度きりです」
「じゃあ、それが、僕ですよ」
「違うわよ。科学雑誌の方ですもの」
「なんという雑誌ですか?」
聖塚はしばらく考えていたが、諦めて、首を横に振った。
「覚えてないんじゃなくて、記憶がほんの少し、ズレちゃってるんですね。違う回路同士で、くっつきあっちゃってる。まあ、いいですよ。徐々に、回復なさっていけば」
聖塚は、Kの顔を、じっと見上げていた。
「北川裕美」と聖塚は呟いた。
「今、何て?」
「北川裕美。彼女に会ったわ」
「女優の?」
「画家よ」
「あ、今は、そうか」
「その北川裕美と、遺跡で遭遇した」
「そうなんですか?」
「あなたも、一緒だったんでしょ?」
「いえ、会いませんでした。でも、北川さんなら、今・・・、ええと、ちょっと待って。ああ、そうだ、ちょうど、記者会見をやってる時間だ」
Kはテレビをつけた。北川裕美は一年ぶりの公の舞台だった。二科展で特別賞を受賞して騒がれ、初めての個展を三か月に渡って開き、その後再び姿を消していた。作品の制作をしているという噂だけを残して、その後ぷつりと、消息を絶ってしまっていた。
事務所の人間も、彼女の行方を掴めなかった。その北川裕美が、この度、大作を掻きあげたというのだ。本人自らが、その報告をする予定だった。集まった報道陣は三百人以上を超え、貸し切ったホテルの会場の周りには、入りきれないマスコミの人間で、ごった返しになっていた。さらには、ファンや野次馬など、数千人が犇めきあい、警察官も異例の千人態勢で警備に臨んでいた。時間通りに会見は始まった。テレビ画面のテロップには『最後の審判 ~16ヘリオポリス~ と ~16スワスティカ』と記されていた。
―それでは、今から、画家で女優の北川裕美の記者会見を始めさせていただきます。まずは、ご本人の口から、伝えたいことがありますー
「本日は、みなさん、お忙しい中、こんなにもたくさんの人たちを、巻きこんでしまい、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます。私はこの一年のあいだも、画家としての歩みを、止めることなく生きてきました。次はどんな展覧会を開こうか。海外に発信していくべきか。いろいろと考えました。しかし、頭で考えたことはすべて、現実にはうまく定着せず、代わりに、私には大作の構想が浮かび、それは離れず、自分の血肉へと結実していきました。ずいぶんと長い構想期間を経ての、そのあいだにはあの不幸な天災がありました。そのときも、私は、アトリエで制作をしていました。あの多大な被害にも関わらず、私のアトリエは無傷だったのです!少し都心からは離れていますから。たまたま場所がよかった。うちから数百メートルの場所は、地面が捲れあがり、壊滅状態でした。私はそれまでも、これから描く作品の核となる部分を、しっかりと掴もうとしていた。それがどんな作品となり、定着するのかは、予測すらつかなかった。実際に、制作する本番の直前になるまで、本当に寸前になるまで、ビジョンは見えてはこない。その頃の、私は、次なる作品群における一連のテーマの核を、定着させようとしていた。それを中心に肉付けしていき、肉付けを通してまた、核をより鋭くしていくことを目的としていた。
しかし、あの天災が、その私の構想を、大きく変化させていきました。
作品群と、先ほどは申しました。絵はある意味、一枚一枚、連続で描いていく場合、そこにはストーリーが発生します。その発生したストーリーを掴み、追い、行き着く先を見極める。その作業のすべてが、制作期間と一致します。もちろん、今回も、数十枚、数百枚の絵を連続して、描いていくのだと思っていました。しかし、その構想は、変わりました。一枚の絵。いえ、大きな壁に、それは一発で描かれることになる。一瞬ですべてが見えました。全体像が見えたのです。二週間前です。無事に生還しました。完成に至りました。ご報告します。これまで心配なさってくれた方、応援してくれた方に、本当に感謝を申し上げます。ありがとうございました」
北川裕美は、一年分のコメントを一気に吐き出したかのごとく、大きく息を吐いた。
コップを掴み、水を一気に飲み干した。Kは、ベッドから上半身を起こした、聖塚の様子を見た。
北川裕美は、集まった記者の質問を受けた。
―大作ということですが、一体、どのくらいのサイズなのでしょうか。そして、壁に描いたとおっしゃいました。自由に運べるのでしょうか?ー
「横、三百メートル。縦、二五メートルですね」
会場は、どよめいた。
―お一人で?―
「手伝ってくれる人など、誰もいません」
―凄いな。公開予定はあるのでしょうかー
「こんなにも、集まって、報道していただいてますからね」
―そうですか。場所と、日程はー
「それは、また、あとで報告致します。この質疑応答の後に」
―製作期間の方はー
「約、三か月だと思います」
―最後の審判、というタイトルで、よろしいんですねー
「サブタイトルもお忘れなく」
―ヘリオポリスと、スワスティカの、二つがありますね。壁画自体は、一つなんですよね。ということは、上下か、左右、二つに分かれているということですか?―
「二つに、はい。確かに。上下左右ではないです」
―ということは?―
「同じ平面に、綺麗に、重ね合わせました」
―ちょっと、分かりませんね。見てみないと。二つの世界を、混ぜ合わせたということでしょうか?ー
「混ざり合っては、いません。もしかしたら、見る角度によって、別の画に見えるということは、あるかもしれないですね」
―ああ、あれですね。ほら、白黒の絵で、あるときには、老婆に見え、また少し見方を変えると、壺に見えてくるー
「一概にそうとは言えませんが、そういう人も、出てくるかもしれませんね」
―謎だらけですね。ところで、その作品に込められた想いなどを、お聞かせ願えればと思います。それは、やはり、あの天災が影響されているということですが、内容にも、当然、反映されているのでしょうか?ー
「確かに、天災は、影響しています。間違いありません。けれども、想いとしては、そこにはあまり向いていません。あの天災によって、私は、知り合いをたくさん失いました。それはとても、悲しいことでした。彼らに対して、後悔を抱くこともあります。生きている間に、もっと話をしておくことがあった。けれども、もっと、遊んでおけばよかったとか、同じ時を、過ごしておけばよかったとか、そういう気持ちは、これっぽっちも沸いてはきません。私はすでに、彼らとは十分に関わりあったからです。私は冷たい女ですか?旦那は、その天災の前に亡くなりました。でも今となっては、同じことです。どっちが先でどっちが後か。全然、どうでもよくなってしまう。時間の経過とは、その程度のものです。私は、彼らとしかるべき時に、しかるべき場所で、同じ時を過ごしたから、それでもう、十分なのです。天災そのものに対して、無力感を感じることは、確かにあります。けれど、それさえもが、結局、次なる創作へのインスピレーションに変換されただけなのです。
天災のことよりも、私はある光景の方が、自らの前に立ちはだかっていることを知りました。それは、ヨーロッパでしょうか。街並みからしてフランスかドイツか。その辺りだと思うんですけど。市街には大きな森がありました。この森は、昼間は、確かに市民の憩いの場になっているようでしたが、夜になると、別の顔を見せます。その森自体が、一つの巨大な生き物のように、大きな口を開け、昼の世界に回収されなかった心の奥を集めているようでした。怪物は、それを好物に生息し、その体を肥えさせ、大きくしているようでした。私にはすでに、森よりも遥かに大きくなっているように見えました。昼の世界における森の大きさは、まるで大きくなっていないのに。ほとんど、森以外の部分が感じられないほどに、夜の街は変貌していました。私は自分が鳥になったかのように、夜の街を見下ろしていました。『最後の審判』の視点は、まさにここです。
森の中では、誰が主催したのか分からない、奇妙な集会が催されていました。街中から、人が集まってきていました。無数の炎を灯し、人々の意識を揺らめかせ、いつのまにか、その炎は大きな一つとなります。その瞬間、空からそう・・・、私の、ほんの側から、龍のような生き物が、突然現れ、火を目掛けて、降臨していった。炎と一体化しました。人々は熱狂していました。驚いたのは私の方です。一体どこから、あの龍は、姿を現したのか。龍と呼んでいいのかもわかりません。炎と一体化したその生き物は、とげとげしい放射物を、自らの肉体から、放っていました。液体なのか気体なのかわからない、その黄緑色に、発光した物質を、街中にまき散らしていました。集会に参加した人は、次々と、自らの身体も、炎に向けて、解き放っていました。
彼らは、皆、自ら死んで行ったのです。その恐ろしい光景は、一晩中、続きました。
私は夢を見ているようでした。自分の肉体は、すでに感じなくなっていました。本当に、鳥になっているのだと思いました。また、こんな発言をしてすいません。どうして、私の記者会見は、問題発言を連発させてしまうのでしょう。止められません」
北川裕美は、この先、何十年分の発言量を先取りして、表明しているように、Kには感じられた。そのあいだも、聖塚は瞬き一つせず、画面に食い入っていた。
「これは、新種のホロコーストだと思いました。強制的に連れ去り、列車に詰めこみ、収容所に放り込み、残忍な死を強要する時代ではない。自らを、死へと突き進ませるべく、人の意識に働きかける。それこそが、新しい時代のホロコーストだと言わんばかりに。夜の街に、身を投げていった人々は、意識をすでに奪い取られていたんです。そして新しくプログラムされた意識を、埋め込まれていった。夜な夜な、繰り返される集会によって。火に飛び込むことなしに、その夜は帰宅するという人も、数多くいた。徐々に徐々に意識は入れ替わっていった。そう思います。私は一体、何を目撃したのか。夢は醒めました。しかし、それは一時的なことです。すでに私は、目の前とは、違う世界に、足を踏み入れていましたから。絵を制作するときの空気に、変わっていたのです」
―よくわかりました。それよりも、本当に、そんな巨大な世界を構築できたのでしょうか。今は、どちらに、保管されているんですか?誰か、その作品の存在を、見たことはあるんですか?―
「今のところは、・・・いません」
―本当なんですか?本当に、そんな常軌を逸したサイズで?いったい、どんな絵なんですか?―
「いつだって、私は、常軌を逸してますよ。そう、いつだって。私の本当の姿を、私はあなたに、少しずつ見せているんですよ。見ていったらいい!私が狂っていく姿を。その行き着く先を」
―そんな恐ろしいことを、言わないでくださいー
「私は気づいたんです。その夜の集会に、私自身も参列していたということを。私の肉体は、本当は上空になどいなかった。鳥になど、なってはいない。私の肉体は、そう、地上の、あの人の群れの中の、一つの体の中に、あったんですよ。意識だけが、空に向かって、抜け出てしまっていた。私は、危険を察知して、肉体の外へと逃げ出したのです。そうでもしなければ、私は、無意識にあの炎に向かって、駆け出していたはずです。私は意識を保ちたかった。抜け出るしかなかった。私は、その時、夜が明けるまで、上空で意識を保っていた。昼の世界の到来と共に、私は、自分の肉体へと帰っていった。何とか、寸でのところで、危機を回避した。しかし、これも、時間の問題だった。いつかは、抜け出るだけの時間すら持つことができない。私は知らぬ間に、森へと導かれ、知らぬ間に、炎に歓喜し、あの巨大な生き物と共に、一心同体になるべく、この身を捧げていくんです。何故、そのような現実が、起こるのか。私は、あの死んでいく男女たちを、羨ましく思っている自分を、見つけたからです。愕然としました。自分が死にたがっていることを知ったのです。ホロコーストの実体が、どういうものなのかはわからないが、しかし、死を強烈に求める僅かな心に、奴らは、入り込んできている。そして、いつのまにか寄生し、次第に蝕まれていってしまう。私は喜々として、森の集会へと、出ていっていたのですから。そして、時が来たときに、破滅へと突き進んでいくのです。おそらく」
―その課程を、絵にしたのですか?―
「スワスティカというのは、こちら側の世界のことです。そして、ヘリオポリスがあちら側。こちら側と向こう側が、一つの二次元の壁に、表現されているんです。私はそうやって、夜の森に死んでいく魂を、止めたいんじゃありません。むしろ、積極的に、認めたいんです。その魂の意志を、尊重したいんです」
―どういうことなのでしょうかー
「私は、その森で死ぬことができなかったのです。境界線を越えられなかったのです。本当は超えたかったのです。意識を取り戻し、肉体の外に、逃げてしまったことで、私の肉体は、死への道からは、外れてしまった。けれど、本当に、死ぬことになったとしたら、そのときはずっと、無意識のままでしょう。私は、目覚めたままで、死にたいんです。だから私は、火に飛び込んでいく自らの魂を、認めたいのです。その想いを表現し、さらに、この目で見える形でずっと、側に存在してくれる『もの』へと、変換する。それが、私には、必要だったのです。それを、描ききることができたのなら、そこで新しい北川裕美が、生まれ出るとさえ思った。かつての北川裕美は、炎に巻かれて、死ぬことができる。私は、目を覚ましたままで、死にたいのです」
あの日、本社ビルの内部で、心情を吐露した帰り際、ニナガワは、こんな声を聞いていたことを思いだした。
「その願い。確かに受け止めた」
男の声だった。
そのときは、全然、気がつかなかった。一週間ほど経ってから、ニナガワの脳裏に、その声が蘇ってきた。
ニナガワは、人工ブラックホール構想を、あのとき語っていた。まずは、夜の森から始まる。そこには集まり溜まっていく魂たちがある。人々の身体から抜け出していく、黒く穢れた生命力。人から離れることで、生き生きとしていく。人の身体へと戻れば、それらは、人をひどく落ち込ませ、視界に黒いフィルターをかけ、人生を曇らせていく。
離れた魂たちは、夜の街に喜々として、飛び出していく。森へと結集する。ニナガワは、そこに溜まっていく魂たちを、別の次元へと逃がす装置を、国家で取りつけるべきだと主張したのだ。重要な公共事業の柱になると、言った。
そして、その合体して、巨大になる前の魂たちを、まだ個別の、その時に浄化させ、街に、そっと戻す機能。それを、文明に組み込ませることを、主張した。
ニナガワは、具体的に、どういった技術を導入すればいいのか、分からなかった。翌日の井上の結婚式には、予定通りに参加した。式場で、井上と一瞬目があったものの、彼は微笑みもしなかった。披露宴でも、ニナガワは新郎新婦との写真撮影を避けた。結局、彼とは一言も話すことはなかった。人工ブラックホールの話は、そのあとも誰にも話すことはなかった。
森そのものを、ブラックホールにしてしまう。
夜に蠢く魂たちが、近づいていく。
あっという間に、闇の最も深い世界へと、吸い込まれていく。
一端、その渦に巻きこまれてしまえば、二度と、引き返せなくなってしまう。
魂たちは、例外なく吸い込まれていく。そのまま吸い込まれたまま、抜け殻になった身体たちが朝を迎えたとき、彼らの身に何が起こるのか。おそらく、それまでのインプットされた生活習慣を繰り返すことは、可能ではあるが、それ以上の機能は働くことはない。新たなる機能を、加えることができないまま。時間の差はあっても、魂は、ブラックホールの闇の中から、昼の光の世界へと呼び戻さなければいけない。闇は闇でしか救われることがない。
そのあとは、光の世界へと戻っていくのが自然だった。その道筋と、セットでなければならなかった。人工ブラックホールの機能そのものに、あらかじめ、内臓されている必要があった。ニナガワは、結婚式の最中も、ずっとブラックホールのことを考えていた。何度か、井上が自分の方に、意識を向けているのがわかった。決して、顔は合わせようとはしなかった分、その目には見えない視線の方は、くっきりと認識できてしまった。その度に、ニナガワは、ブラックホールへの意識を断ち切られ、目の前の世界に、引きずり戻された。隣にいた妻が何度か話かけてきた。出されたフランス料理のことについてだったが、彼女もまた、ニナガワが別のことを真剣に考えていることを、簡単に見通してしまっていた。絶妙な間で、彼女もまた、ニナガワの思考に割って入ってきた。そうでもしないと、ニナガワにとっての自分の存在が、消えてしまうかのように、彼女は必死であった。ニナガワは、妻の方に体を向けた。彼女の存在を、しっかりと確認した。その度に、彼女はほんの少しだけ、安心した表情へと戻った。子供は知人に預けていた。久しぶりに、二人で外出していたので、結婚式を媒介とした、二人のデートのようでさえあった。
「あれ、今さ、天災って言わなかった?天災が起こったことで、何か、北川さんの中で、大きな変化がありませんでしたかって」
Kは、突然、大きな声で、テレビ画面に向って叫んだ。
「なあ、言ったよな!」
聖塚は、CМ中の画面からは目を逸らし、すでにベッドからは、完全に起き上がっていた。
まだ青白い顔ではあったが、目は生気を取り戻しつつあった。
「やっぱり、もう、起こったことだったんだ」Kは力なく言った。
「あれは、もう、過去の出来事なんだ」
Kは、だんだんと、あの日の現実を受け止めることに、真剣になっていった。
「私にはまだ、起こってないわ」聖塚は言った。
「えっ」
「私には、まだ、起こっていない」
「どういうこと?」
「私の身には、まだ、起こっていないって言ったのよ」
「ほんとに?」
「天災って、どんなの。地震?」
「違う」
「じゃあ、何」
「ゼロ湖現象だ」
「説明して」
「東京都心に起こった現象で、突然、地面に巨大な穴が出来て、それがいくつもの場所で起こった。その穴に吸い込まれていった人たちは、今も行方不明のままだ。その他のところでは、そのゼロ湖現象の余波なのか。地面が割れたり、捲れあがったり、そんなことが多発した。ゼロ湖同士が引きつけ合い、くっ付き合い、さらに、巨大化していくこともあった。都心から起こり、さらに、日本中へと拡大する予兆があったが、そのときは、それで収まった。その続きは、まだ地下で蠢いているのかも」
「いつの話?」
「半年前」
「私、そのとき、東京に居た」
「大変な騒ぎだったんだぞ」
「知らない。まったく、知らない」
「離れていたんじゃないの?」
「大学の研究室にいた。神楽坂よ」
「じゃあ、知ってるはずだ」
「私の身には、起こっていない。本当に、そんなことが起こったの?」
「北川裕美だって、はっきりと言ってたじゃないか!」
「天災って言っただけよ。地震のことを言ってるのかもしれない」
「その、ゼロ湖現象が、起こったときにね」とKは言った。「俺は、北川裕美とも会ったんだ。長谷川セレーネとも。あれ、ちょっと待てよ。そのとき、確か、聖塚・・・、そんな名前の女も居た」
Kは、目の前の女を見る。
「君も、聖塚だよな。でも似てないな。別人か。いや、でも。わからない。どうして、聖塚が二人。いや、そんなことはないか。あのときの聖塚と、あなた。実は同じ人間で、でも別人で。いや、別人のふりをしていて。分裂していて。
もし、本当に、あのゼロ湖がまだ発生していないんだとしたら・・・。いったいいつ、起こるのだろう」
結婚式から、一週間が経ったときだった。
ニュース速報では、警察から森の側に近づくことを禁止する発令が、出されていた。
森からそう遠くないエリアに、《オブロン社》の本社ビルはあった。
会社にすぐに連絡を入れた。しばらくは通じなかった。何度もかけているうちに、受付の女性の声が、やっと耳に届いた。社員にはこれから、通達が行くと思いますがと、彼女は前置きをした。封鎖によって、会社には入れないということだった。発令が解除されるまでは、自宅待機ということになった。娘の学校は、森とは反対方向にあったので、妻は娘を連れて、すでに家を出ていた。しかし、ニナガワは嫌な予感がした。すぐに家を飛び出した。彼女たちの後を追った。森の付近だけではない街全体を、早く封鎖するべきだと感じた。
今夜も、長谷川セレーネは、恋人の一人のマンションを訪ねていた。長谷川セレーネは最初にこの男と会ったときから、彼がいい人間であることを知っていた。この人に抱かれたいと思っていた。長谷川セレーネは、激しい一目惚れや、強烈に好きという感情が、ここのところ、勢力を緩めて消えていく様子を、自分で見ていた。
ただ、人間的に素晴らしい人で、男性としても魅力的だなと感じる人に、自然と惹かれていった。そして彼女がそう思うのと同時に、その男性とはすぐに、親しくなる機会が訪れることになった。静かに意気投合した。食事に行き、その後の流れも、自然に展開されていった。長谷川セレーネは、いつのまにか、バージンからは、ほど遠い存在になっていた。
初体験はいつだったか、もう思いだせないくらいに、数多くの男性と体を重ねていた。
性的な経験を繰り返せば繰り返すほど、長谷川セレーネからは、あの狂気的な一目惚れ
の症状が和らいでいった。男性との付き合いは数回。数か月の時もあれば、半年続くこと
もあった。長谷川セレーネは、特定の男性に絞ることはなかった。また同時に、付き合っ
ているという感覚さえなかった。ずっと昔に、バージンを失ったような感覚さえ抱いてい
た。
初体験の印象は、驚くほど薄かった。どれがその体験だったのか。誰とだったのか。長
谷川セレーネは、不思議と、鮮明に思いだすことができなかった。男のいない、男を知ら
ない女の姿は、そこにはなく、長谷川セレーネは、極端に仕事にエネルギーを注ぐことで、
好きな人の存在を忘れようとすることもなくなっていた。有名になることで、彼らにアピ
ールするとか、見返してやる、復習してやるといったことさえ、完全になくなっていた。
夜はたいてい、好きな男のマンションへと向かった。長谷川セレーネは、十二時を超えて、男の部屋に居続けることはなかった。男の部屋に泊まることもなかった。男たちはみな仕事に忙しかった。朝起きたときに、女の相手ができるような、暇な人間は誰一人いなかった。
長谷川セレーネもまた同じだった。自宅から、翌日の仕事に向かいたかった。その日の仕事の段取りのイメージを、一人、部屋でシュミレーションしてから、家を出たかったのだ。
長谷川セレーネと、男達の考えは、だいたいのところ一致していた。なので、そういった価値観の違いで、喧嘩することはなかった。別れる時もまた実に自然であった。付き合うタイミングと同じく、二人は去るときもまた心得ていた。付き合う時にはすでに別れるタイミングまでもが、分かっていたのかもしれなかった。長谷川セレーネは夕食を男と共にして、男の部屋で性行為をしてから、その日のうちに、自宅まで送ってもらった。彼女の自宅に行きたいと言う男も、何人かはいたが、長谷川セレーネはそのすべてを拒んだ。男達を、信用してないわけではなかったが、性行為の後、男が完全に寝てしまうことを恐れたのだ。朝まで居られては困る。長谷川セレーネは、一度も、男の部屋で熟睡してしまうことはなかった。
高級マンションの最上階に住んでいた長谷川セレーネだったが、同じマンションで有名なスポーツ選手や映画監督、メディアで見たことのある経営者などと、エントランスですれ違うこともあった。エレベーターが一緒だったりすることもあった。お互い目があっても、軽く会釈する程度だったが、いつのまにか、近所のバーで密会するようになった相手もいた。同じマンションの違う階に、恋人になった男を、訪ねていくこともあった。別れてからトラブルになることはなかった。男がセレーネの自宅に、押し入ってくることもなかった。みな紳士的だった。家庭を持っている男もたくさんいた。このマンションに住むようになってからは、すべてがスムーズに動き始めていると、セレーネは感じていた。最近、Kという作家が、このマンションに入居してきたことを知らされた。Kは、最下層の一番安い部屋に入ったようだが、すれ違う事はまったくなかった。長谷川セレーネは、このKの著書を何冊か読んでいた。本の内容よりも、Kという人間に強く興味が湧いていた。いつか、会って訊いてみたいことがあるような気がした。彼がどんな日常を生きているのか。どんなバランス感覚で生きているのか。知りたかったのかもしれない。
そういった興味を抱いた相手は、彼の他にはいなかった。
まさか、そんなことになるとは、ニナガワは思いもしてなかった。妻も娘も人工ブラックホールに飲みこまれて死んでしまったのだ。森の空気が震動し、内へと向う渦を作り出して間もなく、その渦は、森の中に留まることを拒絶し、街へと拡張していった。
台風の目のように、それらは動き回った。あっというまに、人を物を吸い込んでいった。ブラックホールは細胞分裂するかのように、局所的に現れては、遠隔に互いを感知しながら勢力を広げ、融合していった。最大限、威力のある融合の仕方を、あらかじめ知っていて、そこに合わせて、初めから出現しているようだった。
ニナガワの妻子は、発生の初日に、ほんの三十分後に、飲みこまれてしまった。
哀しんでいる暇などなかった。すぐに、緊急避難命令が発令された。
ニナガワはGIAに乗った。だが、ブラックホールの威力は凄まじかった。すぐに風圧を感じ、大きく揺れた。普段なら、ハンドルを握ることもないのに、このときは、かなり強く固定しようとしても、簡単に吹き飛ばされてしまった。GIAは,不規則な回転を繰り返した。あっというまに、粉々に破壊されると思った。だが、しばらくすると,GIAは機体を安定させた。何事もなかったかのように、目的地の入力を要求する。妻子の無事を祈った。彼らもまた、GIAに乗っていた。GIAが、この混乱極まる外界からの、シェルターであるような気がした。GIAに乗ってさえいれば、この局面は耐えられる。乗り越えられると直観した。しかし、水も食糧も何もない。だが、ニナガワは思い出す。緊急の保存食品が、機体のどこかに備え付けられていることを。すぐに、ハンドルの横の赤いボタンが目につく。ここを数十秒押せばいい。まさか、こんな機能を本当に使うとは、思ってなかったので忘れていた。管が天上から伸びてくる。ニナガワは、そのチューブを口に咥えて勢いよく吸う。ゼリー状の甘味のある物質が、口の中を満たす。ニナガワは大きく息を吐いて、安堵する。死ぬことはなくなった。完全食品の中の完全版で、未来食として、その現実化が騒がれていた。すでに非常食として、完備されていた。それは、大気と雨水から抽出されるフリーフードで、半永久的に、抽出することのできるテクノロジーを応用したものだ。こうした技術が、人間社会の中では、あらゆる分野ですでに網羅されていて、完備されているのではないかと、ニナガワは思った。自分たちは何も知らない世界がすでに出来あがっているのだ。
あの男の声を思い出す。あの声の持ち主は、そんな未来の世界からの伝達者のようだった。
いつかは終わりが来るだろう。ニナガワは外部の荒れ狂うブラックホール化現象のことを思った。ブラックホールが、別のブラックホールを発生させる。誘発させる。引きつけ合う。拡大、巨大化する。この時空を、物質を、飲みこんでいく。その連鎖は止められない。止める必要もない。だが次第に、飲みこむことのできる物質は、減少していく。勢力は減退していく。
静かな世界が、広がり始める。そこには、音さえない沈黙の世界が広がっている。
成人したファラオは、今はなき王家の復活を心に決めていた。闇を転々とした時代は、終わりを告げた。ファラオは一つの紋章を、王家の象徴とすることにする。そのシンボルはすでに幾度となく、夢の中に現れた生き物だった。その光輝く紋章の奥には、教会での演奏会へと向かう、中世の農民の姿があった。彼のために、教会は場所とオルガンを提供した。
男はありがたいと思う反面、今から起こることを考えると、ほんの少しだけ心が痛んだ。
この世での、我が人生の終わりを告げる、鐘の音が、胸に染みわたった。教会までの道中、さまざまな記憶が浮かんでは消えていった。そのほとんどは、時代も性別も違う、別の人間の姿たちであった。懐かしく思った。その違う人間たちがすべて、終わりに向かって今歩き始めている。
男は自分の周りに、そのエネルギーの層を感じていた。自分は一人ではない。
大勢の人間と共に、今、故郷の轍を歩いている。そんな気がする。
演奏する曲のメロディを、何度も、頭の中で反復した。歌詞を書くのを、男は最初の段階で放棄していた。オルガンの練習を始めた彼は、自分が思いの他、音楽に能力があることを知って驚いた。そして言葉に起こしたいというその想いのすべてを、音に込める決意をした。天との回路を取り戻すのだと、男は思った。信仰などすでに、どうでもよくなっていたことに気づいた。異端の信仰、教会とは違う聖書の解釈、地下の礼拝堂。それらの外観は、次第に溶けてなくなり始めていた。自分の想いを告白するのだという意志もまた、急速に薄れていっていた。
男は自らの存在、自らの身体を、この広い大地と同化させていた。その上で天との回路を取り戻そうとしていた。天井と意識を疎通させる。その回路としての音楽。メロディ。男は次第に、自分が死に向かっているということも、忘れていった。
生きるとか、死ぬとか。そんなことはもうどうだってよくなっていた。教会まで歩いているこの現実さえ、すでに、天との回路の一部になっていた。男は穏やかな心と共に、教会の内部へと入っていた。そのまま礼拝堂へと進み、オルガンのある舞台へと歩いていった。
すでに人々は、席についている。
異様な静けさの中、男は自然光に照らされたオルガンの前へと座る。
その場所だけが、淡い光に包まれている。この、暗闇の中世のことを彼は思った。世界全体が、黒く大きな雲で覆われてしまっている、この時代のことを深く思った。その世界に、一縷の光を差し込ませる。そう。一縷でいいのだ。消えない光を。光はやがて生命力を伴い始め、成長していくのだから。このオルガンの舞台のように。小さな範囲かもしれなかった。でも、光は、確かに定着するようになる。そして拡がる。
いつか、あの鳥が、グリフェニクスが、その淡い光の世界を捕らえ、舞い降りてくることを、予感させる。
その予感は、さらなる光を集め、輝きは礼拝堂へと拡張する。
演奏を聞く人々の周りには、光の粒子で満たされていた。グリフェニクスの降臨は、もう間もなくだった。男は優しくて力強い調子で、鍵盤の上の指を滑らせていった。すでにそのときには、どのメロディを弾いているのか、その自覚さえなくなっていた。男は心のすべてを解き放っていた。
第一部 第八編 前夜の紋章 Ⅳ
高まっていく水原への気持ちは、戸川と激原で爆発する。
鳳凰口には、その爆風で押されるような形で連鎖する。
鳳凰口は、葬儀のあと、会社の処分に追われた。財務状況をチェックしたが、確かに親父の言うように、借金はなくなっていた、彼が死ぬほんの少し前に、多額の金が入金されていて、この金を税理士は問題にしかけた。しかし結局、会社も存続させないということから、税理士も面倒が起こることを好まなかった。よって、うまく処理してくれた。
作家のKも、水原の捜索に、力になってくれるものだと鳳凰口は思っていた。彼の人脈を通じて、捜索が、劇的に進展する可能性もあるなと期待していた。ところがKは、執筆の忙しさを理由に、あからさまに鳳凰口たちを避け始めたのだった。むしろ最初は、Kが一番首を突っ込んできたのに、だ。この豹変ぶりに、鳳凰口は苛立った。Kに何度も電話をかけ、いやがらせのように、彼を罵った。そうすればするほど、Kは遠ざかってしまうのはわかっていながらも、その行為を止めることができなかった。
だがようやく、Kは、鳳凰口の呼び出しに応じることになった。激原も戸川も、当然同席した。やはり、交差点付近の喫茶店だった。ついに、工事現場を覆っていたシートの存在がなくなっていた。そこはまったくの空地になっていた。更地だった。いや、そうではない。白くて、低い塀に囲まれていたのだ。そこにはかなり、深い池のような、巨大な四角い穴が広がっていた。建物ではなく、貯水池のようなものが、出来上がっていた。
鳳凰口は、その白くて低い塀の上に立って、中を見下ろした。ずいぶんと深い。その中心には、深い闇が広がっていた。怖くなって、鳳凰口は塀から降り、遠ざかった。親父はいつのまに、ここの工事を、終わらせたのだろうか。入金の意味は、はっきりしていた。確かにウチには借金があった。しかし、この事業を請け負ったことで、完済したのだ。
喫茶店に入った。すでに、Kも激原も戸川も来ている。鳳凰口は窓の外を指差した。戸川はもう自分は見てきたと言った。激原も頷いた。Kは特に何の反応も示さなかった。
「これが、正体だったんだ」
戸川は、青ざめた顔で言った。激原は無言だった。しかし、明らかに、この二人の様子はおかしかった。
「どうしたんだ?」
鳳凰口昌彦は、気を取り直して、四人目の席に着いた。
「あれは、いったい、何なんだ?聞いてないぞ」
戸川は、憤慨した声で言った。
「どうしたんだよ、何が気に食わないんだよ」
「お前んとこの会社だよ。ちゃんと、工事はしていたじゃないか!そのあいだ、俺には、何の連絡もなかった。ただ、採用しましたとだけ。それで放っておかれているあいだに、工事は終了し、社長は死んで、会社は解体された。怒りを覚えないことの方が、不思議だ」
「悪かった」と昌彦は謝った。「親父のこととはいえ」
「ああ、そうだよ。償うんだよ。お前でいいから」激原は、戸川の肩を、静かに抑えた。
「俺は、お前の会社にも、振り回された」
「だから、申し訳ない」
鳳凰口昌彦は、謝り続けた。
「存続は、可能なんじゃないのか?君が、会社を継げばいいだろ?」
「無茶を言うな」
「素人なら、水原が代わりに、経営をしていけばいいじゃないか!水原が、この会社を、事実上は乗っ取っていたんだろ?彼を呼び戻すんだ!」
「そのとおりだよ!」激原も続いた。「そして、俺の採用も、考えてくれ!」
「とにかく、水原を呼ぶんだ!彼を、代表に据えてくれ!」
「無茶を言うな!」
そのあいだも、Kはずっと、つまらなそうに外を眺めていた。
昌彦は、そんなKに、矛先を向けた。
「新作の準備は、進んでいますか?」
昌彦は、穏やかな口調で、彼に訊いた。
「新作?」
「仕事、忙しいんでしょ?」
「誰が、そんなことを?」
「執筆してるんでしょ?あなたにとっての、あの工事現場は、単なる次回作への入り口。インスピレーションにすぎなかったんですよね?」
激原と戸川は、Kを睨むように、強い視線を送っていた。
「みんな、そう怖い顔をするなよ。悪かった。悪かったよ。でも、そういうつもりはないから。勘弁してくれ。ただ、水原のことは、もういいじゃないか。水原は、俺たちとは、何の関係もないんだ。鳳凰口建設とは、少し仕事をしたみたいだったけど。俺たちには、まったく関わりがなかった。何度だって、繰り返すぞ。あいつは、俺らとは、何の関わりもなかった。そうじゃないか。えっ?実際、何の話をした?それなのに、水原に勝手に想いを寄せているのは、俺らだ。馬鹿馬鹿しい。それは、何も、水原じゃなくてもよかった。ただの、実体のない幻想に対しても、きっと今と同じような、関心のよせ方をする!君たちは、そう。申し訳ないが、はっきりと言わせてもらうが、自分に、関心を集中させることができない人間たちなんだ。焦点を結ぶための関心事が、そもそもない!自分の中に。だから、外にばっかり、求めだす。まがい物だろうが何だろうが、そんなことはお構いなしだ。何だっていいんだ。ただ、そのときに、目の前を通り過ぎたものであれば、何でも。そして、それが、自分の求めていたことだと錯覚して、執着していく。茶番だ!!何とも哀しい光景だよ。今日は、そのことを言いにきた。忠告しに来た」
気づけば、Kは、胸に溜まっていた言葉の混濁を、皆の前にぶちまけていた。
水原永輝はふと、嫌な胸騒ぎを感じた。見士沼祭祀を伴って、完成したグラウンドゼロイチへと向かった。あの場所が、誰かに侵略されるような、予感がしたのだ。完成はしたものの、まだ安定していないあの場所には、人の激しい往来は好ましくなかった。いまだ、白いシートをかけたままに、しておきたかった。だが、シートは、いつのまにか取れてなくなってしまっている。鳳凰口建設の人間が、外した感じでもなかった。予想外に、鳳凰口建設社長は、急死してしまったが、ぎりぎりのところで工事が間に合ったことが、せめてもの救いだった。
見士沼祭祀は、水原の命令に、わけもわからずに従った。水原の、慌てふためいた様子に、本能的に手助けをする必要性を感じたのだ。見士沼は黙って、彼についていった。ぱっくりと、地底への扉の開いた元工事現場に、人の影が蠢いていた。
やはり勘は当たっていたと、水原は思った。あの場所でいったい何をやっているのだ?数名の影は、もみ合っていた。大きな声が響き渡っていた。男だった。四人の影を確認する。声はだんだんと鮮明に聞こえてくる。
「お前など、もう二度と現れるな。絶交だ」
「許さないぞ」
「お前は言ってはならないことを、平然と言った」
「一人だけ、自適な生活をしやがって。それなのに何故、首をつっこんできた?つこんできたのなら、最後まで、行動を共にしろ」
「何故、今さら、手を引く?」
三人の男に、一人の影が押し包められるような、恰好だった。
次第に、その影が、見覚えのある顔であることを、水原は確認する。
後ろを振り返ると、見士沼の姿がある。まるで理解ができない表情を浮かべながら、彼は不安そうに、焦点の合わない目を泳がせている。
水原は、四人の影に向って何度も叫んだ。争いはやめるように、心を落ち着けるようにと叫んだ。だがその矢先だった。もみ合ってる最中、その一人の影が、グラウンドゼロイチの中へと落ちていった。水原は全速力で接近した。三人の男は、その事態に呆然としてしまっていた。場の時間は止まっていた。水原は、鳳凰口昌彦の顔を確認する。そして、あとの二人も、どこかで見たことのある顔だと思った。そういえば、この辺りの喫茶店で、見たことのある顔だった。そうだ。話したこともある!この工事現場に、非常な関心を寄せていた奴らだ。
あまりに怪しい影だったので、近づいていったのだ。彼らの身元を把握したかった。
邪魔者はすべて、排除するつもりだった。そうだ。そいつらだ!鳳凰口も一緒だ。巨大な穴に落ちていったのは、一体、誰なのか。水原は、その三人の顔よりも、堕ちていった男を何とか助けようと、覗き込んだ。男は地底まで落ちてはいなかった。数メートル下の狭い平面の突起物に、引っ掛かっていた。彼はそこから、自力で平面に両足を乗せ、さらに上へと登ってこようとしていた。その男の顔も、知っていた。作家のKだった。やはり、この工事現場に何らかの関心を抱いて近寄ってきた男だった。この男が、最大の危険人物であった。おそらく、この現場を題材に、作品を描くのだろう。何としても、妨害したかった。
しかし、現場が完成すれば、あとはどうでもよかった。彼の存在も、俺の中では消えてなくなった。
そのとき、地面が揺れた。地震は、すぐに止まった。だが数秒おいて、さらにドスンと、縦に一瞬震動が走った。そのあとだ。大きな横揺れが襲ってくる。
水原は、その場に立っていられなくなった。地面に跪いた。幸い、上からものは落ちてはこない。ほんの少しだけ、地面が割れていた。そう思った瞬間だった。亀裂は一気に開いていた。反射的に亀裂の片方に飛び移る。他の四人がどんな様子なのかは目に入らなかった。揺れは激しく、水原は思わずは目を瞑ってしまうほどだった。亀裂は拡がり、地面は崩れ落ちるように傾いていった。まさかと彼は思った。地盤沈下が起こったのではないか。地震に連動して。この地ははグラウンドゼロを作ったことで、地盤が極めて弱くなったのではないか。タイミングが悪かった!完成のほぼ翌日に、地震に見舞われた。耐震のことに、頭を巡らせてはいなかった。
水原は、それ以上、亀裂が広がらないことを祈りながら、地面にしがみ付いていた。
地震が収まったとき、おそるおそる彼は目を開けた。
視界は絶望的に歪みきっていた。最初、地面はどこで空はどこなのか。地面はどのようにズレてしまったのか。全体像が、まるで把握できない状態だった。
水原は、自らの知覚が狂ってしまったのだと思った。時間が経ってからも、修正される様子はなかった。水原は何度も何度も頭を振った。いまだ知覚は正常に戻っていなかった。度の入った眼鏡が吹き飛んだくらいの、焦点のぼやけから始まった。色彩も、その輪郭から見事にはみ出ている。入り乱れていた。高低差がよくわからない。その断層には、均等なリズムは、走っていない。ぐちゃぐちゃに乱れ、それでいながら、その後、無理やりにくっつけ直したようなフォルムが、続いていく。
もしかして、俺はすでに、地上にはいないのではないかと思った。
あの穴から落ちていったのはこの俺で、ずいぶんと深い場所に、短時間で潜りこんでしまった。光は失っていない。身体を強烈にぶつけた様子もない。そういえば声が聞こえてこない。周りにいた四人の男の声が、聞こえてはこないのだ。彼らはどこに行ったのだろう。聴力が失われている。視界は狂っている。まともな器官はどこなのか。匂いはよくわからない。焦げたような匂いもしない。饐えたような臭いもしない。無臭に近い。手を動かしてみる。足を動かしてみる。どこにもぶつからない。砂のような場所に横たわっているような感覚だけがする。見士沼!と叫んでみる。不思議なことに、自分の声も出ているのかどうかはわからない。鳳凰口!と叫ぶ。どの名前を呼んでも、自分の耳には聞こえてはこない。
水原はその状態のまま、身動きのとれない長い時間を過ごす。
いつのまにか、意識を失っていた。目が醒めたときにははベッドに横になっていた。だんだんと周りの様子が見えてくる。視界は正常になったようだ。身体の感覚も戻ってきた。人の影も見えてくる。
水原はベッドではなく、茶色の固いソファーの上に、寝かされていた。
そこは喫茶店だった。アルバイトをしていた喫茶店だった。影は三人だった。
「目を覚ましたな、水原!」
「お前を、待ってたんだ」
「やっと、会えた」
右から左から、太さの違う男の声が連呼される。
「Kは死んだ。あんなところからは真っ逆さまだ。まず助からない。途中、ひっかかって、もがいていたようだが、それも、そのあとに来た地震によって」
「たぶん、駄目だろう」
「Kって」
水原は呟いた。起き上がろうとした。全身に強烈な痛みが生じた。
「あの落ちた影はやっぱり、Kだったのか?」
「Kだよ」
「どうして」
「お前だよ」
影の一つは大きな声を出した。
「今頃、来るとはな。どこに雲隠れしていた?もう少し早く来たら。そうすればKだって、な」
言われている意味が、水原にはわからなかった。
「Kが何かしたのか?」
「お前とは、どんな関係だ?水原。お前と、Kとの関係だ」
鳳凰口は言った。
「知らない。ほとんど知らない!一、二度、顔を合わせただけの、顔見知りなだけだ。それ以上、何も知らない」
「お前の方は、そうかもしれない。だが、そうじゃない奴らも、たくさんいる」
「俺が、何をした?」
「すべてを企んだのは、お前だ。全部、話してもらおうか。そうしなければ、わかってるよな。あの穴に、Kを落としたのは、お前だよ。お前の仕業だよ。俺らはそう証言する」
水原は、自分が連れてきた見士沼祭祀の存在を、思い出す。
「見士沼さん」
水原は、途切れそうな声を、必死で紡いだ。
見士沼祭祀は、この影の中にはいないのだろうか。
思ったほど、視覚が取り戻せないことに、水原はやきもきする。
身体の痛みのほうは、少し和らいだ。
「見士沼っていうのか?お前」
別の影は言った。
「そうです。見士沼祭祀です。あなたたちは?」
「戸川だ。よろしく。こっちは、激原」
影たちは、お互い、自己紹介を始めた。
「見士沼さんですか。この水原とは、一体、どんなご関係で?」
「二人でいらっしゃいましたね」
「さっき会ったばかりで。ほとんど知りません」
見士沼は、正直に答えた。
「水原とは、どんなご関係なのですかと、聞いているんです」
戸川は、厳しい口調で問い詰めた。
見士沼は、なかなか、口を割ることはなかった。
「俺が説明するよ」
水原は、四つの影に見下ろされる形で、そう答えた。
まるで、グラウンドゼロイチに落とされたのは、この自分で、その様子を、地上から四人が見ているような光景だった。この四人が、水原の口を割らせるため、拷問のために身体の自由を担保に・・・。こうして・・・。
「見士沼さん。いいかな」
いいです、という声が聞こえた。
「見士沼祭祀という男だ。彼の家は、ちょっとした有名な宗教団体で、彼の父親、見士沼高貴が、代表を務めている。彼は今度の件で、その団体の代表として、ウチと鳳凰口建設が施工中の、あの場所に対して、抗議文を提出しに来た。それで顔を合わせた。それだけの関係だ。そして、その問題に関しては、すでに、解決済みだ。何の問題も起こらなかった」
「じゃあ、何故、一緒にいたのですか?」
「だから、その話し合いの、続きだ」
「解決したんでしょ?」
「解決するまで、話し合っていたんだよ!わからんやつだな」
「ほんとうですか?」
戸川は、身士沼祭祀に訊いた。
「ええ。そのとおりです。それだけです」見士沼祭祀は言う。
「どうして、二人で、連れだって来たんですか?そこが、全然、不明瞭だ。どうして、あの現場に、お二人で?」
「俺が、どうしても来いと、言ったんだ」
「どうして」
「嫌な予感がしたからだ。そして、来てみたら、やっぱり」
「俺らが、揉めていた」
「ばっちりと当たっていたじゃないか」
水原は、イラついた口調で言った。
「遅かったですよ。あなたの行動は。もっと、早く来ていれば、Kもここに、居ることができたのに」
「何で揉めていた?」
水原は、四人の影のどれかに向って訊いた。
「あなたの所在が、わからなかったからだよ」
「それと、Kは、どんな関係があるんだよ」
「けっ、今さら、首を突っ込んでこられても、困るんだよ!!Kがどうしたとか。Kと、どんなトラブルがあっただとか。もういいかげんに、Kの話はやめてくれないか!別に、Kには、何の問題もなかったよ。ああ、そうだよ。特にはな。Kには、何の問題もなかった。問題があったのは、水原、お前の方だよ!!お前が俺たちの前に姿を現さなかったからだよ!!」
「だから、どうして、それとKが、関係あるんだ?」
「関係などないって、そう、言ってるじゃないか!」
鳳凰口が、これまでで、一番大きな声を出した。
「ただのトバッチリだよ!何の意味もない!!Kはな、お前のことは、もうどうでもいいと言い始めたんだよ!!あいつは、何故か、この工事現場に関しても、お前のことに関しても、突然、興味を失っていった。いや、急に、何かに、怯えはじめたんだ。一人だけ違う意見を言い始めた。だから、揉めた」
「それに、俺らは、奴を、殺してなどいない!あいつは生きていた。あそこに落ちた後も、しばらくは生きてあがいていた。途中で引っ掛かっていた。あの後たまたまやってきた揺れで、行方がわからなくなっただけだ。そうじゃないか。俺らのせいじゃない!あれは、自然災害の一部だった。ごく自然な成り行きだ。それは、お前も、わかっているはずだ」
そう言われた水原は、確かに、生きてるKを最後に目撃していた。
「それは、そうかもしれないが・・・」と水原は言った。「でも、過失はある」
「お前のせいだからな!Kがああして、危ない状況になるまで、お前は、姿を表そうとしなかった。その嫌な予感さえなければ、いつまでも、隠れていた。そうだろ?お前は、はっきりとした意思の元で、姿を消した。どんな計算が働いていた?だから、Kのことは、とりあえずは、もういい。忘れろ。もともと、たいした知り合いじゃなかった。ほんのすれ違っただけの人間だ。知り合いというレベルでもない。それよりも、水原。お前だよ!お前は、そもそも、何を考えて、誰のどんな意図のもとで、動いていた?そして、あのわけのわからない建築物。あれは、いったい何なんだ?Kのことだって、すべては、繋がっている。Kはまさに、あの場所に落ちていったんだ。偶然じゃ済まされない」
水原は、今だ自由のきかない身体を、横たえさせながら、すべてを語る決心をした。四つの影に向って、すべてを吸い込む渦が必要だったと述べた。詳しい話を、今となってはするつもりはないし、四人それぞれの受け止めたかも違う。それまで勤めていたデザイン会社の金を着服し、退職したあとも、横領し続けることで、資金をつくったのだと水原は言った。その資金を、経営が立ち行かなくなっている鳳凰口建設に流した。自分の言うがままの工事をやらせた。鳳凰口社長は、素直に従ってくれた。俺が昌彦の同級生だったことも、交渉が円滑に進んだ一つの要因だ。そして、俺はその後、工事を邪魔する者の監視をしていた。工事が終わるまで何とか、目を逸らしておくくらいのことしかできなかったが。
でも、それは、裏目に出たようだよ。君たちを騒がせてしまった。大人しくじっとしていればよかったものを。何か疾しいことがあると、つい、何か動いていないと、落ち着かなくなってくる。文明の中で処理しきれなくなった、あらゆるエネルギーを、吸い込む渦が、この世界には必要だと思ったんだ。ものを作り続けることは重要だ。それが、あらゆる進化に繋がっていくことも当然のことだ。しかし、多くの人間は、高く積み上げることにしか頭がいっていない。そのあとで、不要になった物質のことには、あまり意識がいっていないように見える。そのことが、俺には、どうにも解せなかった。そして、積み上げることに加担することは、もうたくさんだと、そう思うようになっていった。積み減らす方に、何とかシフトできないものかと。社会構造に、そのような機能を組み込む仕事がしたいと。
けれども、それは、自分一人でできることではない。どうしたらいいのか分からなかった。確かに、今後、何十年、何百年という構想を思い描き、そのために、少しずつ歩み始めることは、可能だったかもしれない。でもじゃあ、今、この瞬間の俺はどうなのか。今、何ができるのか。一人で、何ができるのか。間違った行動だったのかもしれない。でも、こうするしかなかった。それが唯一、これまでの自分を慰める方法だった。
あの巨大な穴が、すぐに実用的な機能を果たすことはない。でも、それでいい。何か、自分の想いをすぐに形にしたかった。そこから、始めたかった。新しい始まりを意味する、シンボルだった。君たちには、まるで意味不明な穴ではあっただろうが。
鳳凰口社長は、文句ひとつ言わずに、作業を続けてくれた。単に、借金がゼロになる、ただのそれだけの理由で、引き受けてくれたのでは、全然ないような気がした。彼もまた何か、人には言えない想いを抱え持った人生だったのかもしれない。俺に何かを、託しているような、そんな雰囲気さえ、何度となく感じたものだった。昌彦。それはお前に、完全に受け継がれているんじゃないのか。俺にはわからないけれど。昌彦、お前なら、気がつくんじゃないだろうか。グラウンドゼロイチと名づけたあの場所に、まさか人が落ちていってしまうとは、思いもよらなかった。救助はすでに要請したのだろうか。
答える影は、ない。
「その彼は助かったのだろうか。大きな怪我でも、しているのだろうか」
どの影も、やはり、答えはしない。
「グラウンドゼロイチは、今のところ、それはただの、巨大な整備された穴だ。それでしかない。大洪水でも起こったときにはせめて、水を流すくらいの役目しか果たせない。でも、俺のイメージは違う。これは、まだ、ほんの始まりであって、その穴は、すべてを吸い込む渦へと進化する。この社会における、気流の循環装置となる。俺はそう信じている。必要なテクノロジーさえ、とり込んでいくことになるだろう」
水原は影に向かって主張した。その影の誰かが、自分の想いを引き継いでくれるのではないかといった、哀願にも似た、切ない訴えだった。
しかし、影からの反応は、まったく返ってこなかった。次第に、水原の身体からは、重みが消えていった。彼はソファーから身を起こした。
四人の影に、彩りが戻っていく様子を確認する。そして、水原は一人、会釈をして、店をあとにした。
すぐに、一人の影が後を追ってきた。その足音に、水原は反応する。後ろを振り返った。
「待てよ」
追ってきたのは、鳳凰口昌彦だった。
「ありがとう」と昌彦は言った。「たとえ、どんな理由にしろ、ウチの借金を帳消しにしてくれたこと。素直に感謝するよ。俺に負債を残さないようにしてくれて。お前のおかげだから。何とお礼を言ったらいいか。お前とまた、縁が繋がるとは思わなかった。ありがとう。これからは、俺ができることは何でもする。だから、言ってくれ。鳳凰口の建設会社の継続を、もし君が望むのなら、俺が引き受けたっていい」
「建築会社は、もういいんだ」と水原は言った。
「君が引き継いだって、あっというまに潰すだけだぞ。また、莫大な負債を、背負いたいのか?君は稼ぐ側だ。是非、そうあってくれ。今からなら何だってできる」
「手伝ってくれ」と昌彦は言った。
「確かに、君とは、不思議な縁があるな。今でも友達だ」
「俺の彫刻のこと」
「ああ、そうだったな。君は、彫刻家だった」
「彫刻家じゃない。俺は、何者でもない。何をどうしたらいいのか、全然、支離滅裂だ。だから助けてほしい」
「人助けには、興味はないよ」と水原は言った。「俺自身だって、何の創造もできちゃいない」
「俺らが、力を合わせれば、・・・きっと」
水原は、首を横に振る。
「何かの縁だ。また、繋がる時がくるだろう。それじゃあな」
水原は、呆気なく去っていった。鳳凰口昌彦は喫茶店に戻った。戸川と激原の姿はなかった。見士沼祭祀という男だけが残っていた。
「二人は?」
「帰りました」
見士沼は静かに答えた。
「そうか」
鳳凰口昌彦は、ソファーに座った。見士沼祭祀も、昌彦の正面に座った。
「鳳凰口さんですね。水原が話している時も、僕はあなた一人にず、っと注目してましたよ。鳳凰口っていう苗字が、最初から気になっていたし。親父が、あなたの建設会社に、文句を言い始めたのを機に、僕もまた違う観点で、ずっとあなたに注目してたんですよ。鳳凰口家に、一人息子の長男が居ると聞いて、さらにその興味は加速していった。すると、僕と同じ世代の人が、いるじゃないですか。しかも、家は、会社をやっている。親父が代表を務めていて、いずれは、継ぐことになる。内容は違うにしろ、いや違うからこそ、僕はあなたの家と、共通点を見い出して、合わせ鏡をみているように、傍観していた。あなたとはいつか、お会いしたかった。ところが、代表者として来たのは水原だった。それでも、昌彦さん。あなたに会える日は、近いと思っていました」
鳳凰口昌彦は、身士沼祭祀という男の風貌を、観察した。
その瞬間、水原の影は、この男にとって代わった。
「宗教関係の仕事だそうですね」
「軽蔑してますか?」
「まさか」
「正直に言ってくださいよ」
「いや、まあ、よく、わからないんですよね。実体としての宗教って。実際に、入信っていうんですか?内部に入ってみないことには、何とも言えないです。わからないですね」
「そのとおり。あなたの言うとおりです。中に入ってみなければ、何も、わからない。閉鎖的な怪しい団体です。けれど、周りが感じる程、おかしなことをしてるわけでもないんです。ただ、自分たち寄りに、偏った解釈をしてるだけで。ただ、僕は、宗教と宗教体験とはまったく違うと、ずっと主張し続けているんです。いや、心のなかで。もちろん、そうです。そんなこと、口が裂けても言えません。僕はこれでも、大人しく家を継ぐようなポーズを、ずっととっているんだから。実際、継いでいいとさえ、思っているところがある。あるとき、ある時点で、突然、教義の内容をガラリと変えて、別物にして、内部クーデターを起こしたいですよ。穏便に相続した、その瞬間にね。狭く限定的な宗教ではなく、広く開放された宗教体験に、様変わりさせたいんですよ。もちろん、僕一人では、そんなことは無理だ。でも、ある意味、その宗教体験というのは、一人で、可能なことです。いや、一人で、可能なことでなければ、何の意味もなさない。そして、一人で体験したことこそが、みな、可能であるということを証明して広めていく。
一人一人の宗教体験が、ある時間、ある場所で、同時に多くの人間が体験するという現象も、その一人の体験の延長線上で、ありえる話です。いや、そうあるべきだ!是非、そうしたい!それが通常の在り方にしたい。
そういう意味で、水原の行動には、共鳴できたんです。
彼が目指しているビジョンは、正直、僕にはよく理解できなかったけれど。理解しようとも思ってなかったけれど。でも、その渦っていうんですか?それを、この社会、世界全体で共有するべきであって、それが、通常の常態なのだという考え方には、おおいに共鳴できたんです。一人から始まること。水原にもわかっていた」
鳳凰口昌彦は、身士沼の圧倒的な言語の奔流を、自分なりに、頭の中で反芻していた。
とても、自分の頭では理解が及ばないなと思いながらも、意識は思わぬ状況といつのまにか繋がってしまっていた。
「俺はね、これまで親父の会社にはまったくのノータッチで、かといって、外でどこかの会社で何か働いたわけでもなくて、何をしているのか、自分でもよくわかっていない。けれども、とにかく、彫刻をしていた。自宅のガレージで。彫刻家でもないのに。ただ何かが、俺を突き動かしていた。別に彫る必要なんて何もない。絵をかいていようが、楽器を演奏していようが、別に何でもよかった。彫刻刀を手にしたのも、まったくの偶然だ。それに、もし、彫刻刀じゃなかったら、それは、刃物だったのかもしれない。その刃物で、あらゆるものを切りつけ、傷つけていたのかもしれない。怒りなのか、哀しみなのか、何なのか。この湧き上がってくる感情の行き場所が、とにかく欲しかった。その場所が、いったいどこなのか、まるで見当もつかなかった。でも、彫刻刀を握ることで、その感情と一つになれることがわかった。そして、その辺に転がっていた木屑を相手に、その一体化した感情を、ぶつけていった。感情というのは、ただ、それだけでは、どこにも行き場所を、見いだせないものなんだ。そのことが、よくわかった。何かと一体にならなければならない。そして、そのための道具が必要だ。つまらない話だな」
「いえ、続けてください」
「その道具がね、あるいは、その人間の運命と、呼ばれるものなのかもしれないし、仕事と呼ばれるものなのかもしれない。俺はまだ、混乱の中にあるから、この彫刻刀が、仕事と同義ではなかった。仕事にするつもりもなかった。仕事にできるとも思ってなかった。でも、最悪な事態は、避けられた。たとえ、どんな感情に、俺自身が支配されてしまったとしても。変な話、彫刻刀がある。これを握り、彫る場所さえ、準備できれば、・・・。どうして、こんな話になってしまったのだろう。やめよう。そもそも、何の話、だったのか。ええと、そうだな。一人から始まる話だった。そこから脱線していった。要するに、そうだ。俺も、その気持ちがわかると言いたかっただけだ。共鳴させてくれ。そう。その、感情と、彫刻刀と、木屑と、この俺。すべてが一つになっているときだ。そういう経験を、何度もした。わかるよ。俺は、別に、美術家になりたかったわけじゃない。でも、この創作している心身の状態というのは、まさにそうだ」
見士沼祭祀は、じっと、鳳凰口の言葉に耳を澄ませた。
見士沼の表情は、時おり曇り、陰りをみせたかと思えば、圧倒的に輝きを取り戻した。
恍惚にも似た表情にもなり、激しく変化していった。その変化もまた、次第に落ち着きを見せていった。穏やかな雰囲気を取り戻していった。
「あなたは、本物かもしれない」
見士沼は言った。
「あなたのような人を、僕は求めていたのかもしれない。心の奥底で。それです。あなたは、すでに知っている。それが、宗教体験です。僕は芸術と宗教は、完全に繋がっていると思っていましたが、まさにそうだ。あなたこそが、宗教家だ。まったく、信じられない。どうしてこんな短いあいだに、出会いは連鎖したのだろう。それぞれが、全く違うことをしているのに」
身士沼祭祀は、息が上がっていた。
「表向きはまったく気づかない共通点があった。あなたはこれから、大きくしていくべきだ。この社会で、世界で、宇宙で。会えてうれしかったです。本当に、ありがとう。また、どこかで会えたなら」
見士沼祭祀は、晴々とした表情で、彼もまた去っていった。
喫茶店を出て、交差点付近の元工事現場の横を、戸川と激原は、二人で歩いていた。
二人は、この短期間で起こった出会いと別れを、まだすぐにはうまく受け止められずにいた。
何を話していいのか分からなかった。当てもなく歩いていた。
Kを除いた四人が、同じ場所にいたのだが、どうにも、その雰囲気に耐えられなかったのだと、激原は戸川に打ち明けた。戸川も同意した。
「やはり、そうだったのか。そう感じたんだ」戸川は言った。
「あの、見士沼という男は、ずいぶんと、独特な雰囲気だった。俺は、身士沼に、強いエネルギーを感じた」
「俺は、身士沼というか、もっと全体的な空気だ。今は、この四人は、同じ場所に居ては、駄目だって」
「見士沼からは、どんな、エネルギーが出ていた?」
「穴倉から、出てきたような雰囲気だった。そう。まさに、Kが堕ちていった穴の底のような場所だ。まるで、堕ちていった人間と、入れ替わるように、浮かあがってきた。這い上がってきた、そんな感じだった。一見、暗さは、背負っていない。そう見える。ところが、違う」
「それは、いいエネルギーなのか?」
「いいも悪いもない。ニュートラルだよ」
「害を、撒き散らす男ではない」
「ふと、思ったんだが、お前は、そういう目に見えないエネルギーを、見ることができるのか?」
「わからない」と激原は答えた。
「でも、確かに、あの場では、そう感じた。Kと入れ替わるように現れた、見士沼」
「Kの話はやめろ」
「悪かった」
「あれは、不可抗力だった。仕方がなかった。俺らが直接、殺したわけじゃない」
「いちおう、警察には、連絡しておいた」
「ああ」
「地震が起きたときに、あの穴に、落ちていった人影を見たと」
「救援が要請され、捜索が開始される。俺らは特に、関わる必要はない。静かに見守ろう」
戸川は、しぶしぶ了解した。
「俺らも、また、いつまでも一緒にいたって、仕方がない。ここで別れよう」
二人もまた、去っていった。
長谷川セレーネは久々の収録のため、テレビ局を訪れていた。撮影スタジオやCМ撮影のため、野外での仕事ばかりが続き、休みの日は日帰りであったが、ほとんど海外と行ったり来たりを繰り返していた。自宅に帰らない日が続いた。
クイズ番組やトーク番組への出演は、すべて断っていたが、今日は例外だった。
北川裕美と一緒に番組に出演するのだった。真面目なニュース番組だった。女優の北川裕美の特集コーナーに、ゲストとして呼ばれたのだ。北川裕美本人とのやり取りはなかったが、なぜか彼女が自分を呼んでいるような気がしたのだ。一度、道でばったり会った以外に、彼女との接触は、まったくなかったが、それでも長谷川セレーネは北川裕美との絆を感じない日はなかった。
北川裕美はすでに、女優という肩書きに完全に戻っていた。突然、奇襲攻撃のように、記者会見を開くこともなくなった。一年以上も、姿を消し、スタッフも誰も、その行方がわからなくなることもなくなった。彼女は、芸能事務所に所属し、マネージャーも付き、かつて十年前のように、華々しく表舞台に復帰していた。二科展で受賞して騒がれ、そのあと個展を開き、長い雲隠れの後で、あまりに巨大な壁画のような作品を発表したあとで、彼女は静かに女優へと復帰した。まるでそれまでの長いブランクなどなかったかのように、今までずっと、芸能界で活動してきたかのような自然さで、彼女は本来の居場所にぴったりと納まった。
長谷川セレーネは、北川裕美が同じ世界に居ることを、心の底から安堵の気持ちを持って迎えていた。
彼女がいない間、ずっと不安だった。北川裕美にあのとき言われたことを思い出そうとしたが、不覚にも、忘れてしまった。ただ、どんなときも、私はあなたの味方で側にいるからと、ずっと、そう言われ続けているような気がした。それだけが支えだった。北川裕美が芸能界に復帰を発表したとき、それまで自分の中に抑えてきた、見せかけの強気が、音もなく崩れていく様子を、この目で見た。これまで自分が、どれほど、無謀で過剰に突っ走ってきたのかが、思い知らされた。
北川裕美がなぜ、自分をゲストとして呼んだのか、その思惑はわからなかったが、すでに、いくつか向こうの部屋には、彼女がいる。そう思うと、胸は高まり、同時に締め付けられる気持ちになった。もうすでに、横にいる実感が、沸いてくる。と同時に、これまでの、どんな時よりも、遥かに遠い地点に、飛び去ってしまったかのような、そんな感覚も抱いた。
長谷川セレーネは、アシスタントディレクターに誘導され、収録スタジオに入る。
すでにキャスターはいた。長谷川セレーネは指示された椅子に座る。ちょうど斜め前に、空席が一つある。そこが北川裕美の席だった。隣ではなかった。しかし顔はよく見える。ずっと見ていることができる。長谷川セレーネは、その特等席に、心底、喜んだ。そのあとのことは、心が高ぶりすぎて、所々、記憶は飛んでしまっていた。北川裕美を交えての収録は、だいぶん進んでいた。
彼女が目の前にいる光景は、夢のようだった。彼女からは、まだ直接話しかけられていない。いまだ長谷川セレーネに、話は振られてなかった。北川裕美が、キャスターのインタビューを延々と受けていた。彼女は饒舌に話していた。彼女は生来、話すことが得意であった。あの記者会見を見てもそうだった。理路整然とした話し方をした。説得力もあった。時々、意味のわからない発言を繰り返したが、それも、あとになってよく考えたときには、深く納得するのだ。常人の理解を超えた言葉、考え方、そして行動。周りはみな、彼女に振り回される。それでも彼女は、決して人を傷つけることはなかったし、その一見奇怪な行動であっても、実はよく考慮されたのではないかと思うほどに、のちになってからは、辻褄が合うのだった。
北川裕美は、女優を引退してからの私生活を素直に話した。
画家としての復帰と、その後の活動の経緯、女優に戻るまで赤裸々に語った。
だが、その激しい内容にも、どこか、彼女の話し方には腰の据わった静けさがあり、もうあらかじめ決められていた計画通りのことを、淡々と進めているというような、そんな不思議な整然さが、漂っていた。長谷川セレーネも、その整然さに、すでに引き込まれてしまっていた。それはキャスターもまた、同じだった。他のスタッフもみな同じだった。世界は北川裕美一色に染まってしまっていた。彼女が中心にいながら、その空気に、逆に彼女本人をも同化させているような、そんな雰囲気さえ感じられた。これが、北川裕美なのだと、あらためて、長谷川セレーネは感動した。
話が振られたことに、長谷川セレーネは、全く気がつかなかった。
メインキャスターの横にいた女性のアナウンサーに、何度も肩を叩かれた。
やっと長谷川セレーネは、目の前の現実に戻った。長谷川さんは元々、北川さんのファンだったんですよね。デビュー前から。そうですと、長谷川セレーネは答える。小さいときからずっと。いつか一、緒の世界で生きることができたらなと、そう漠然と考えていました。でもそれは、小学生くらいの子なら、誰でも思う事ですよね。北川さんが引退なさってからは、急激に芸能界への興味はなくなりました。でも、その頃からでしょうか。スカウトされることが多くなりました。学校にもスカウトの人が来て。大学に入ると、それは劇的に増えていきました。
「長谷川さんは、当時、学生の中でも、大変な注目度があったと聞いています。芸能界ではすでに、知らない人がいないほどの知名度があった。誰が、どの事務所が、あなたを落とすのだろうと。そこに注目が集まっていたようです」
それはよくわかりませんと、長谷川セレーネは言った。そんな世界が自分にふさわしいとは、全然思ってなかった。でも、そのオファーの熱のようなものが、もう、私個人の思惑では、逃れられない地点に達したと感じたとき、やはり、そこでも、思い浮かんだのは北川さんでした。彼女と同じ世界に立つというよりは、彼女がいた世界に、自分も触れることができるんじゃないかという想いが、最終的に、私を決断させたのです。まさか、こうして、北川さんが復帰して、同じ時代に、こうして近い場所で、活動できるとは思いもよりませんでした。ましてや、今日のような日が来るとは・・・。もうさっきから、感動しっぱなしで、心がここにないんです。何を言ってるのか・・・、滅茶苦茶だし。眩しすぎて、直視することが、できません。
スポットライトは、再び、北川裕美へと戻った。
「画家の活動は、どうなるのでしょう。画家として、芸能界に復帰なさったときは、その道で、ずっと行くというようなことを、仄めかしていましたけど」
「そうですね。あのときは、全くそうでした。でも、今は、まったく考えられません。少なくとも、今は、まったく制作する気にはなれないんです。絵を描くという行為が、ずっと途切れることなく、続けていく仕事には、今は、思えてこないんです。仕事という意味では、やはり演技をすること、そこに縁があると思います。ずいぶんと長い、専業主婦時代に溜まってしまった心のエネルギーの発揮場所が、最初の創作に、すべて吐き出された。そのあとも、いろいろと、トラブルが続いたのですが、それがまた、絵に変換されていった。最後は、あの巨大な絵に、行き着いた。あれを描いたんです。もう、他に描きたい絵など、ありません」
「そうですか」とキャスターは、簡単に同意した。「その絵が、こちらです」
VТRが流された。「この絵は、今も、ある遺跡に描かれています。移動は不可能ですね。ここは、今、一般の人の立ち入りが禁止されています。遺跡の、修復作業が始まっています。いずれは、公開されるんですよね?」
「急に、遺跡が注目されてしまって」
「あなたが描くまでは、誰にも、見向きをされなかった遺跡です」
「あの遺跡は、重要な場所です」
「本当に、一人で、あのサイズを描いたのかと、みんな驚愕していますが。本当のところ、どうなのでしょう」
「一人ですね。まったくの一人です。普通に考えても信じられません。私ですら、そうなのですから。とても、信じられない。もし、自分で、信じられたとしたら、そのときは、画家として、今後も生きていきますよ」
北川裕美は、そう言って笑ったが、スタジオにいた人間は、誰も笑うことはなかった。
「もうすぐ、北川さんの復帰作、アトランズ・タイムという映画が公開ですね」
「すでに、舞台挨拶は、終わりました」
「明日からですね」
「久しぶりの演技は、新鮮でした」
「どんな内容なんですか?」
「小説が原作なんですけど、だいぶん、映画的に、改編したようですね。原作とは少し違った世界になっている。この東京が、舞台の話です。地殻変動の話です。地震ではなくて、大陸移動の話。今も大陸は、ほんの少しずつですけど、動いていますよね。それが急加速していくというアクション・サスペンス大作です。危機的な状況が一気に訪れ、あっというまに、首都は壊滅します。しかし、日本列島の話ではありません。地球上の大陸分布が、一気に、変化するわけですからね。続編はあります」
「なるほど。怖い映画ですね」
「いえいえ、怖がらないでください。怖がってはいけません。観客としては、怖がってもらえれば、嬉しいですけどね」
「そうですね」
「でも、見終わったら、別に、忘れちゃってください。かなり誇張して、描き過ぎていますから」
北川裕美は笑った。
「次の出演作も、決まっているのでしょうか?」
「ええ。再来年までの仕事は、決まっています」
「では、本当に、画家としての活動は?」
「ないですね」
「休止ということで」
「筆をとることは、もうないと思いますよ。それよりも、あの壁画の公開に、尽力を尽くします。あれが、私の画家としての集大成ですから。あれ以上はありません」
長谷川セレーネは、その後、話題を振られることはまったくなかった。
北川裕美とも、番組内で言葉を交わすことはなかった。対談形式のようなものも予想していたが、そういった様子すらなかった。二人の関係にも焦点はまったく当てられず・・・。完全に、北川裕美一人の特番だった。長谷川セレーネは、存在意義をまったく見い出せないままに、番組は終了してしまった。
収録後の楽屋でも、長谷川セレーネは何度となく、北川裕美の部屋を訪ねようとした。
けれども、同じ世界に、こうして同時に存在している状況を、客観的に認めれば認めるほど、何故か、彼女との体感としての距離は、ずいぶんと遠くにあるようだった。
北川裕美の新しいスタートをこの目で見た、その日の夜、長谷川セレーネは、一か月ぶりに自宅マンションへと帰った。エントランスが妙に騒がしかった。人の出入りが、頻繁にあったのだ。長谷川セレーネは特に変わりなく、建物に入っていった。しかし、大きな声で、別の人間に指示を出す様子からは、何かが起こっていることを意味していた。紺色の作業着のようなものを着た何人もの人間が入ってくる。
長谷川セレーネに気づいた一人が、深々とお辞儀をする。何が起きているのか。自分の部屋に関係があるのだろうか。だが誰も声をかけてくる様子はない。長谷川セレーネは、エレベータに乗る。自宅のドアを開ける。中に別条はない。エントランス付近の喧噪からは隔絶している。電気をつけ、上着を放り投げ、ソファーに深く座る。目を閉じて、収録の光景を思い出そうとする。だが、やはり、同じマンションのことが気になって仕方がない。もう一度、上着をひっかけ、外に出る。最上階の様子に異変はない。エレベータに乗る。一階に戻る。やはり人だかりが出来ている。ふと彼らが鑑識のように見えてきた。そして、スーツを着た男たちは、警察に見えてくる。何かが起きたのだ。
長谷川セレーネは、サングラスをしたままの自分に気づいた。素早く外し、彼らの前に登場する。すぐに、長谷川セレーネの存在に、気づいた。しかし、彼らは、深く頭を下げるだけだった。すでに、事情を知っていると思われているらしい。なので自分から訊いた。驚いた様子を浮かべた男は、やはり、警察の人間だった。そして、一階に住むKという男が、二日前に亡くなったことが告げられた。自宅で亡くなっているところを、訪問した知人が発見したということだった。
事件性は薄いようですが、とりあえず、詳しく調べています。お騒がせして、大変申し訳ありません。男はさらに、深くお辞儀をした。そのあとで、仕事に戻っていった。
突然のことで、Kが亡くなったことを、受け止められずにいる自分がいた。呆然としてしまい、はやくも、エレベータに乗ろうと、ボタンを押してしまっていることに気づく。慌てて、正気に戻した。捜査員の一人に、再び近づいていった。
「あの、死因のほうは、何だったのでしょうか」
目の前の女性が、長谷川セレーネだということに気づいたのだろう。捜査員は仰け反るような仕草をした。だが、次の瞬間、あっというまに佇まいを修正し、「心不全です」と答えた。「ご自宅で」
捜査員はや、はり深々と礼をして、長谷川セレーネの前から去っていった。
後日、長谷川セレーネは、Kの葬儀に参列した。しかしそこで見た、棺の中のKの姿に、心底驚いてしまった。そこには、首と胴体が分離し、胴体と両腕、下半身、さらには両足と、綺麗に分断された人間の姿があったのだ。そして、そのそれぞれは、何故か、一人の人物のものではないようにも見えた。
Kは、帰国後、『アトランズタイム』の日本公開の試写会に参加するため、六本木へと向かった。舞台挨拶の前に、関係者だけが楽屋に集まり、あらためて自己紹介することになっていた。
もちろん、出演者を含め、ほとんどの人と会うのが初めてだった。誰もKのことは知らない。演者同士はすでに雑談をし合っていた。Kは居心地が悪かった。ここで、三谷という監督が最後に部屋に入ってきて、人物の紹介をし始めた。
Kの名前はなかなか呼ばれない。忘れられているんじゃないだろうかと思うくらいに出てこなかった。だが、ほとんどあきらめかけたそのとき、最後にKの名前が呼ばれた。Kは一歩前に出てお辞儀をした。原作者のKくんです、と言われた。この映画の、そもそもの発案者のKくんだ。彼がいなければ今日我々が集まることはなかった。そういう意味でも、Kくんを囲む集まりだと言って、過言ではない。三谷という監督の物言いは、大げさすぎた。一同は拍手をしていた。それでは、Kくんから一言。
Kはマイクを渡される。
みんなの前で、挨拶をするなど考えてもいなかったので、一瞬頭は真っ白になる。
秘書の聖塚の方を見た。彼女は、Kの目を見て何度か頷いた。
「みなさん、ご紹介に預かりましたKです。原作者とはほぼ名ばかりで、映画はみなさんの力で完成にこぎつけたので、この僕がこの場にいるのは、どうも場違いなのではないかという感じがして、気後れしてしまっています。まだ、完成した映画を見てないんです」
俺たちもそうだぞと、よくテレビ画面で見たことがある俳優が言った。
「自分の原作がどんなふうに変わっていっているのか。とても楽しみです。ですが、一抹の不安もあります。作品はまったく違うものになっているんじゃないかと。もちろん、それで全然構いません。そのほうが僕も安心します。でもそうなると、この自分が原作者だなんて、そんな扱いをされることに耐えられだろうか。そう思ってしまう自分がいます。そのときは、みなさん。是非、僕の名を、クレジットから外してください。どうか、よろしくお願い致します」
どういう挨拶だよと、三谷という監督は呆れた。
Kに続きをしゃべるように促した。
有名な俳優陣も私語を慎み、みなKの次の言葉を静かに待った。
「続編を書いたんです」Kはその静寂を切り裂くように、言葉を繋いだ。
「この映画の続きです。まだ結末には至っていません。原作としては何本か、すでにできています。もし、この第一作が、ヒットしたときには、その続きも是非、みなさんで、作り上げていってください」
会場には何故か、笑いが起こった。
Kには何が起こったのかわからなかった。
この話のいったいどこがおもしろいのか。
三谷という監督がみんなを代表して口を開いた。
「続きがあるとは知らなかった!」
その言葉は、さらに、会場中の爆笑を誘った。
聖塚は、周りに合わせて笑っているようだった。
「おもしろいことを、言えるじゃないか」三谷は、感心していた。
「あの始まりでは、ずいぶんと、つまらない話が続くんだろうなと思っていたが、実は、ギャグ好きな男だった」
みんなは大盛り上がりだった。
K一人だけわけがわからず、三谷という男にマイクを返した。
出演者、スタッフは皆、Kに拍手を送る。
そのあとは、滞りなく、試写会へと場を移す。
そのあとで、舞台挨拶があるのだ。そこには、監督と出演者のみだけが出席する。
試写会場へと移るとき、秘書の聖塚に訊いた。
いったい俺のスピーチのどこがおかしかったのか。
「あなた、本当に、すました顔してさ、平然とジョークを言うのね」
「だから、俺がいつ、そんなことを?」
「言ったじゃないの。続編を書いてるから、期待してくれって。また出演、お願いしますって」
「それが?」
「だって、出演者は、全員死んでしまうのに、どうやって続編に出るのよ」
そういうことかと、やっと、Kは理解した。
「ゾンビのように、また、平然と出てくださいって、そう言ってたのよ」
試写会場に入り、席につくと、隣には、モデルの長谷川セレーネが座った。
振り向かなくても、それが長谷川セレーネだと感じる。
匂いから、空気の圧力から、何もかもが常人離れしている。
Kは、彼女の存在を無視するかのように、黙って座っていた。
そういえば、あの楽屋でのスピーチの時には、彼女の存在を感じなかった。
「今度は、あなたが、イケニエね」と彼女は、耳元でそう呟いた。
Kは、それでも、彼女を直視しなかった。
何も、訊きかえさなかった。
結局、彼女は、それ以上、何も、言葉は発しなかった。すでに、フイルムは回っていて、最初のシーンは始まろうとしていた。いつのまにか、試写会場には、自分ひとりしかいなかった。隣には、長谷川セレーネだけが座っている。そんなイメージに、Kは支配された。
映画は、中盤を迎えていた。だが、そのとき、はっと気づいたことは、この映画の主人公はいったい誰なのか。思い当る顔がなかったのだ。楽屋には錚々たる顔ぶれの演者たちがいた。あの人たちの中に主役がいて、脇役がいるはずだった。だが、まったく出てこない。フイルムの前半を頭の中で、再現してみた。いたかもしれない。何気ない日常のシーンの一コマを、飾っていたかもしれない。
しかし、そんな程度の出演だった。時計を見ると、あっというまに、一時間が経ってしまっている。感覚としては、まだ最初の五分程度しか見ていない気がする。それなのに、フイルムは、すでに、中盤に差し掛かっている。事前の話では、120分の映画だった。前半はほとんど、日常のあらゆるシーンをランダムに並べているだけのようだった。ドキュメンタリーなのか、ニュースなのかも、不明瞭な。不明瞭すぎて。何も考えずに、自然に受け入れてしまっていた。横に長谷川セレーネがいたというのもある。出だしは、彼女のことばかりが気になって、映画に集中してなかった。
ほんの存在を確認するだけのために、横をちらりと見る。
確かに、彼女はいる。間違いない。長谷川セレーネだ。
ストーリーが激しく展開していた様子は、皆無だ。
なので、今からでも、映画は、取り戻すことができた。
そう思って、画面に集中した。
特に映画のシーンとしてのセリフのようにも思えない。本当に、普通に街のあちこちにカメラを無造作に設定して、日常を撮っているようにしか見えない。それが何重、何百場面と続いていく。よく見ていると、それでも、サラリーマンの集団の中に某俳優がいたり、カップルがデートしていて、その女性の方が、有名アイドルの一人であったりと。注意深く見ると、確かにいることにはいた。これは、あくまで、適当に撮影したものではなかった。
映画における映画のための映像だった。そう思い直してみると、これは、後半に向かって重大な意味が凝縮されているのかもしれないと思うようになった。
けれど、自分の原作が、このような作品に化けているとは驚きだった。ある種、あの三谷という監督は、才能があるのもしれないと思った。もし大きな変動が、この映画の中で起こるとしたら、その撮影スタイルそのものに、強く内容を反映させているのではないかと思った。構造そのものに、表現手段、手法そのものに、内容を強く反映させているのかもしれなかった。単に、ストーリーに乗せるだけではない、創造の仕方。だとしたら、後半は、どんな撮り方になっていくのか。そこが、どんどんと、変化をしていくのではないかと、Kは期待した。
匿名の人物のように、さりげなく、登場する俳優人も、来たるべき大変動のための、サブリミナル的な効果を狙った、出方をしている。そのようにも見えてくる。
ただ、時々、数字が映像に挿入されていた。それが気になる。西暦の年月日が。本当に注意していないと見逃してしまうほどに、背景の色と、そっくりな色で差し込まれている。すぐに消えてしまった。始まりのときからずっと、この数字は現れていたのかもしれない。一度、気づかなければ、気づくことはない。一度気づけば、そのあと何度も注目することになる。
この数字だけは、シーンを象徴する、重要な情報だった。その数字は、時の変化を忠実に表現しているようだった。2011、12、13と、前半は、淡々と時は移ろっていく。その単調さは、Kの心を鎮めていき、ずっと催眠にかかっていたかのように、意識をすっかりと抜き取られていく。
三谷という監督の、これが狙いなのだろうか。
何故か、Kはたった今、スタート地点に立ったような気がしてきた。
それまでは、本編が始まる前の、別の映画の宣伝広告を見せられているような、そんな無意識が、ずっと続いているようだった。
バシャンという、物が何かつぶれるような巨大な音がした。
そこで、Kの意識は、完全に醒めた。
何の音なのかは、まるで判然としなかった。映像の中に手掛かりはなかった。視覚との連動性がまったくなかった。何の音なのかかが、ずっと気になり続けた。映像はあいかわらず、前半と同じく、淡々と日常の一コマを展開している。まるで間違って挿入されてしまった音のように、編集のときに消すのを忘れた音のように、厳然と脳裏には残り、住み着いてしまっている。振り払おうと、Kは内心格闘していた。その音を、この自分の身体からは外に出したい。排除したいと、そう強く思えば思うほどに、その音は身体の内部へと深く突き進んでいくようだった。そのあとに続く音は、まるでない。
その不自然な音の続きを、求めてしまっていた。映像は、何も解決してはくれない。
前半とはまったく同じ世界観の映像が、続いているのに、前半とはまるで違った風景に見えてくる。
こんな映画は、見たことがなかった。音声と映像が、完全に食い違ってしまっている。
思い返してみると、しかし、最初から、音声は分離などしてなかった。
映像に関する音を忠実に流していた。それが、いや、今も続いていた。
映像と音声は分離などしていない。分離しているのは、この自分のほうだった。
自分の中で勝手に、あの変な音を、再現してしまっているのだ。
映画の世界から、分離されてしまったのは、この自分の方だった。
時は、2014年5月24日。
不穏な予感は、刻まれていく。
ビリっという大きな音がする。
その瞬間だった。映像が引きちぎれるように切り裂かれた。初めてだった。
初めて、違和感のある音に映像が反応したのだ。一致したのだ。その亀裂は、すぐに元へと戻った。また淡々とした日常のシーンが続く。だが、確実に、映像には、変化が生じている。人々の動きが早く小刻みになっていった。何かを避けるように、走って移動する人も出てくる。何かが起こっていたのだ。
ここは、その起こった何かの中心地ではなかった。その中心地の周辺から逃げているような映像だった。もしかしたら、違和感のある音声は、その何かが起こったことと連動しているのかもしれない。きっとそうだ。なるほど。最後まで、その中心地は、映さない。人々は、完全に逃げ惑っている。パニックを起こす人たちで、街は溢れかえっている。
ここで、緊急ニュース速報の画面へと替わった。
日本列島に大きな亀裂が入りました。東京の有楽町付近です。突然亀裂が入り、あっというまに、その穴は拡大しています。辺り一キロメートルにいた人たちは、その穴の中へと、落下した模様です。ニュースは以上です。そして、その亀裂は、今後どこで発生するのか、まったくの、予断を許さない状況です。政府は注意を促しています。数字は一気に、2015年の8月30日へと飛んでいた。もはや、さっきまでの静寂は、どこにもなかった。
亀裂は深く至る所に存在していた。まるで出現した化け物から逃げ惑うようだった。
人々は、パニックを起こしている。ある有名な女優に映像が、クローズアップしていく。
彼女が逃げていく様子を、カメラはいつのまにか追っていた。
そのあとも、特定の人間を、複数の軸に据えての、カメラアングルであったが、そのどれもが、一人に集中していくことはなかった。
出演者にあらかじめ会っていたから、すぐに画面の中に居ても気づいたし、有名俳優もいたので、瞬間的に気づくこともあったが、それでも、この喧噪な街の様子に、主人公は誰なのかが、映画の後半になっても、全然わからなかった。
ふと、どこかで見たことのある光景のような気がしてきた。
まさに、数か月前、自分が体験した街の様子にそっくりだった。
有楽町界隈で爆発が起こり、数日のあいだをおいて、東京の別の場所でも次々と爆発が起こった。次第に、地面が捲り上がり、津波に襲われるかのごとく、人々を飲みこんでいった。
Kの時間の感覚は、まったくもって狂っていった。
あのとき見た光景によって、知り合いは何人も死んでしまっていた。
ところが、街そのものは、そのあと無傷だった。何か悪い夢でも見たかのように日常は復活していた。あのときの光景が、そっくりとこうして、映像に撮られている。わけがわからなかった。あれは、映画の撮影だったのだろうか?それとも、今見ている映像の方が、実際に起こったときの光景を、そのまま映しているのだろうか。
それをこうして、我々が見ている。その構図もまた、理解不能だった。
過去に見た光景と、映画の中の光景が、こうして重なり、その両方を見ている自分がいる。
しかも、この映画の原作は、自分である。
まだ起こってもいないことを体感して、それを本にでも、書いたのだろうか。
そして、その本の内容を、映像作品へと移し替えた。その映像が、たまたま、自分が想像していた絵と似ていた・・・。そういう偶然なのだろうか。
ということは、あの知り合いたちの死は、何だったのだ?
俺の想像の中の、話なのか?だが、そんなことはなかった。
井崎の死体も、聖塚の死体も、この目で確認した。目の前で彼らは死んでいった。
聖塚?確か、あの女はそういう苗字だった。俺の秘書の名もまた聖塚だった。
どうして、忘れていたのだろう。彼女たちは別の人間だったが、初めて会った時に、どうして同じ姓であることに気がつかなかったのだろう
そうだ。隣には、長谷川セレーネがいる。映画が終わったら、あのときの街の被害について、彼女に訊いてみたらいい。彼女とは、ほんのわずかではあったが、同じ部屋で、同じ時間を過ごしていた。
あのあと、何が起こったのかを、彼女からすべて、聞き出せばよかった。
夢ではなかったことが証明される。
逃げ惑う人々の中の一人に、女優の北川裕美がいた。彼女は人々が逃げていく方向とは、逆に走り出していた。大規模な火災が起こっていたが、その中心地へと、彼女は全速力で移動していた。火災を鎮火しにきたのか、わからなかったが、その上空には飛行船が浮いていた。
放水するのかと思いきや、縄の梯子のようなものが、落とされた。
北川裕美は、その梯子に飛びついた。あっというまに、飛行船の中へと引き上げられていった。彼女のあとには、数人が同じように、火災の中心地へとやってきて、同じように引き上げられていった。
ここに、あらかじめ、飛行船が現れるのを知っていたかのように、彼らは何の迷いもなく、救助されていった。
街の至るところで、もっとも被害の大きな場所に、その飛行船は現れる。
そこに引き寄せられた、わずかな人びとを、地上から引き離していった。
飛行船は、そのあとで、一斉に姿を消した。街はすでに、火の海だった。地面が割れ、海水がすでに流入している場所もある。火災が起こっている場所に、その海水が入り、鎮火しているようなところもある。
大地は、急激に揺れ始めた。動いているところもあった。
すると、ものすごい揺れが次にやってきた。海水がすごい勢いで、大地を浸し、沈んでいる面積が多くなっていった。大きな衝撃を、彼らは感じていた。何かが衝突したようだった。警報が出される。小規模な大陸や島が、猛然と、日本列島に向かってきたという事後報告だった。空は漆黒の雲に覆われ、光を遮り、気温は激変に下がり、強い風が吹き始める。火災が起こり、海水が流入してくる。大地に亀裂が入り、強い衝撃が加えられ続ける。
揺れはずっと止まらなかった。
報道番組は、放送を続行できずに、人々はネットでしか、情報を得ることができなくなった。
交通機関は止まり、電源は消失する。
残ったバッテリー分の携帯電からの情報しか、ほとんど頼れるものはなかった。
日本列島における安全地帯を示す情報に、人々は殺到した。
大移動が始まった。その情報しか頼るものがなかった。とにかく、その場にはいたくはないという心理も、働いていた。その場にとどまり、嵐が過ぎ去るのを待つために、比較的身を潜めてられる場所を、探そうとする人は、ほとんど皆無だった。
とにかく、何かしていなければ、落ち着かないようだった。
しかし、サイトによって、情報はまちまちだった。
無名の俳優たちは、そのネットの情報の選択肢を迫られる。
発作的に、そのどれかを信じ、行動を開始する。そんなとき、飛行船は、いくつかその姿を上空へと現す。
だが、空を見上げている人々などいない。誰もその存在には気づかない。大地にへばりついたまま、どの大地を選択するのかに囚われている。
飛行船は、それでもわずかな救出を、続けていた。人々が殺到しない場所に、静かに現れた。
火はほとんど消え、大地の半分以上は、すでに海に沈んでいた。
ここでも、Kは、デジャブを見た。まるで、自分が体験した光景を、誰かが映像で押さえたかのようだった。
そして、今、その映像を、他の人間と共に、見せられているような、そんな錯覚が続いていた。
地上で逃げ惑う不特定の群衆のほとんどが、海水に飲みこまれ、流されていく中、映画はいよいよ佳境を迎えていた。地上数百メートルのところには、地上からの脱出を図った飛行船が浮いている。その飛行船は、着陸すべく大地を探していた。
複数の飛行船の内部の映像に、切り替わる。操縦士はみな、緊迫していた。浮いていられるだけの燃料は、あと数日で底をつきることがわかっていた。それまでに、いかに無駄な燃料を使うことなく、最短で着陸地へとこぎつけるか。そのことに、意識を、集中させていた。
しかし、大陸はいつになっても、安定することはなかった。そればかりか、時間が経つにつれて、どんどんと、その姿を消していってしまった。もっと広い範囲で、地上を見なければ、全体像など、まるで把握できなかった。この日本列島付近においては、ほとんど残る大陸は、ないのではないか。それなら、別の大陸に生き延びる道を、探らなければ。だが、このまま飛んでいけるだけの燃料が、あるのだろうか。操縦士の一人がこう言った。これではあと、二日後には、すべての飛行船が、どこにも着陸することなく、海へと墜落してしまう。どの機体かに、集中して燃料を集めろ。他の操縦士は、反対だった。すべての飛行船が、無事に助かる道を、みな模索していた。その、一人の操縦士を除いて。
「駄目だ」と孤立した操縦士は、言う。
「燃料を、二つか三つの機体に、まず集めろ。その機体を遠くに飛ばせ。これは、情報収集のための飛行だ。乗客はすべて、他へと分散させろ。その二基か三基を、今すぐ選び出すんだ。立候補でもいい。だが、その操縦士は、残念ながら、戻ってくることはできない。帰ってくるだけの燃料はない。つまりは、墜落する最後の情況まで、情報収集のために、燃料を使い切る。その情報を、こっちで待機している飛行船に、すべて送り届ける。分析にかける。残った飛行船で、その後の対策を、立てる。おそらく、日本列島近辺で、着陸できる場所はない」
「何を言っている?どうして、そう言い切れる?」
「違う」と孤立した操縦士は、言う。
「もし列島に、このすべての飛行船が着陸できる、場所が現れるのなら、それが一番望ましい。それで、落着だ。もし現れない場合は、どうする?そのことを言っている」
「許さないぞ。どうしてわざわざ、捨て駒のような操縦士を、選ばなければならない?俺は、絶対に御免だ」
すべての操縦士は断った。乗船した人々も、同じ気持ちだった。
「もちろん、その一人は、この俺だ。だから、あと一人を選びだせ。そして、その二人は、永久に戻ってくることはない。では、次の話に移る」
孤立した操縦士は、淡々と話を続けた。
「残った飛行船は、生存する確率のもっとも高い、いちはやく、安定を取り戻した大陸への、着陸を模索する。その際、移動するのに、燃料が足りている場合は、それでいい。しかし、おそらくは、足りない。燃料を、またいくつかの飛行船に、集中させる。いいな。乗客も、そこに移せ」
「そんな馬鹿な。定員をオーバーしてしまう」
「なら、切れ!どんな選び方をしても、構わない!」
他の操縦士は、みな絶句した。すでに、反論すら起きなくなっていた。
「そうやって、どんどんと、可能性を模索していけ。そこまでくれば、もうやることは、自然と見えている。いいな。では、俺と共に、情報収集機を、飛ばしていく男を選ぶんだ」
孤立した操縦士は、そう言って、無線で立候補を募った。
その後、なんと一人の立候補者が現れる。二人の操縦士は、すぐに逆方向に機体を飛ばしていった。無線でのやりとりをすることもなかった。お互いの機体の位置をレーダーで確認しながら、なるべく広い範囲での情報を、集めることに集中した。残された空中に浮かぶ機体に乗った人間たちは、ざわめき始めた。このまま何もせず、情報を待っているだけの状態には、だんだんと耐えられなくなっていった。
別の操縦士たちは、二人の操縦士に、置き去りにされた格好になっていた。彼らも、だんだんといたたまれなくなっていった。地上に着陸できる大陸をいくら探しても、そんな場所はすでになくなっている。完全に、大地は沈没してしまっていた。一時的に、空中に避難しても、すぐにどこかに不時着できると、楽観していた。むしろ、水に巻きこまれずに、脱出できたことに幸運を感じていた。それで、万事が切り開かれると、勝手に思ってしまった。
だが、あと二日もすれば、燃料切れで、水の中へと墜落する。結局は、命を長らえさせただけの結果に終わる。それなら、あのとき、一気に地殻変動の波の飲みこまれてしまったらよかった。操縦士たちは、もう二度と現れる可能性の低い、大地のことを思った。それでも、数人の操縦士は、まだ念力を送るかのように、大陸の出現にエネルギーを注いだ。
乗客たちは、だんだんと、あの二人の操縦士のことを口にするようになる。最初に孤立したあの操縦士の言葉を繰り返した。あの人が言ってることが、正しいのかもしれない。同調する人々は、増えていった。可能性を狭めなければいけない。誰かが言った。狭めることで、生き延びる道を明確にしないと。もうそこまで、我々は追い込まれている。全員は、助からないかもしれない。操縦士の耳にも、彼らの話声は届く。だが、そうなると、殺し合いのようなことがおこる。誰もが感じていたことだった。機内が、殺伐とした空気に変わることを、操縦士は恐れた。あの男たちは、火種を置いていったのだと、操縦士は思った。俺は最後まで、あの男の言うことは信じないからな。たとえあの男の予言通りになったとしても、俺は最後に、人々が殺伐とした想いを抱えながら、死ぬことだけはさせたくない。乗客の誰を突き落すのか、ということだろ?操縦士である自分が、先に落とされることはない。その安心感もまた、嫌な感情だった。そんな不穏な空気には、耐えられない。そうなったときには、真っ先に、自分で、機体から飛び降りてしまうかもしれない。
操縦士は、二基の偵察機からの、情報を待った。
けれども、彼らからの情報は、いつになっても、来ることはなかった。無線を妨害する、何らかの問題が、発生したのか。それとも、すでに、彼らは、墜落してしまったのだろうか。状況はまったくわからなかった。乗客たちは、窓を開け、用を足していた。食べ物は何もなかった。空腹でいらいらとしている人も出てきた。陽は沈み、夜を迎える。連絡はまったくこない。
こちらから、何度も、応答を要求するが、二基のどちらからも、返答はない。
夜が明けてしまった。すると、二人目の操縦士の方の声が来た。
「応答願います。302機です。応答願います」
「どうぞ」
一斉に、各飛行体の操縦士が声を出す。
「見つかりました。大陸が見つかりました。着陸できる広さにあります。すでに、1時間以上、観察しておりますが、安定しています。可能性を感じます。東京から、1万3千キロメートル離れた場所です。東の方向です」
もう一機からの連絡も、そのあとに、やってきた。
「こちら、西に飛びました49機です。こちらもわずかにありました。島のような場所です。ここは、地殻変動の波に、まったく、影響を受けていないように思われます。全員、この島に、着陸できると思われます」
「東京から、西に何キロですか」
「3万5千キロです」
「わかりました」
無線を受けた飛行体の操縦士は、東を選ぶことで一致する。
それ以降、西に飛んだ飛行体との連絡は、絶った。
「今後、49機との交信はしません。いいですね」
63機の操縦士が言った。
「彼はそうしろと、自らに言ったようなものです。可能性のあるものに、どんどんと道を狭めていかないといけない。絞っていかないといけない。西に道はない」
誰も反論するものはいなかった。
「よし。東に向おう。全員で向かうぞ」
「そんな。無茶です。1万キロまで、もちません。燃料を集中させましょう。僕の機体を捨てます。ここで終わりです。彼はそう言って、隣の機体に近づき、燃料を移し替える作業を始めた。そして、そのあと、彼は一人機内に残り、だんだんと、高度が下がっていく機体に、抵抗することなく、海へと消えていった。爆発はなかった。すぐに巨大な波に飲みこまれ、機体そのものの姿が、なくなった。眼下の海は、さまざまな海流が、激しく入り乱れ、上空に残った人間たちを、呼び込むために、ぱっくりと口を開いていた。
落雷が始まり、計器は制御がきかなくなっている。燃料の移動も簡単にはいかなくなった。それでも、宙に残った人々は最後の望みを託し、狭い可能性にかけていくことにする。
轟く雷鳴は、まさに、人々の神経系統を変えた。彼らは、自らが助かる道を放棄し、一人でも、この世界に人間を残そうとすることだけに集中していった。必然的に、自らの命を放棄し、最後の行為に走る者もいた。それも止まない雷鳴が、彼らの恐怖心や自己保存の本能を、打ち消していくようだった。落雷はひどくなっていく。だが、それにつれて、太陽の光は強くなっていく。雨雲はまだ存在していた。その合間から強烈な光が射していた。雲越しにも、光が感じられた。けれども、雨もまた、多量に降り注いでいた。異様な混在ぶりの天候が、続いていった。
画面は、船内の映像と外の天候とを、交互に映し出している。船内の人間たちは、光の存在にはまったく気づいていない。黒い雲は、さらに厚みを増し、水を地上へと落としていく。その強烈な勢いを受け止めるのも、また、今や地上の水そのものだった。海の水嵩は益していった。もう二度と、大地が地上に現れるのを防ぐかのようだった。その降りっぷりは、容赦がなかった。風は飛行船を煽り続ける。人々は傷を負いながらも、最後の一機になるまで、生き延びる道を探った。髪の毛はびしょ濡れになり乱れた。着ているものなど、ほとんどない中、人々は、必至に人間そのものを絶やさないよう、行動し続けた。
結局、偵察にいった飛行船の情報は、生きず、さらには燃料を移し、飛行船の数を減らしていく作戦も、功をせず、最後の一機もまた海の中へと沈んでいった。その光景は、あまりに無残だった。そして、その最後の一機が陥落したのと、ほぼ同時に、落雷は止まった。雨雲は消えていった。太陽が完全にその姿を覗かせていた。飛行船が海面に浮かび上がってくることはなかった。海は穏やかになり、波はどこにも発生しなくなる。終わりのない湖をみているようだった。
Kは、その静寂さに、ずっと見とれてしまった。数分前とはうって変わり、世界には、誰一人として、人間がいなくなってしまっていた。水面は燦然と煌めいていた。カモメのような白い鳥の群れが、じょじょに近づいてきていた。映像は、限りのない湖を映し続けていた。ピアノの音色も加わり、クレジットが現れた。出演者からスタッフ、スポンサーの名前がた羅列されていった。映画はエンディングに入っていた。
Kはそのクレジット越しに、最後まで湖の姿を見つめていた。
上映が終わった。スクリーンは黒い映像が続く。けれど、照明はいつになっても、灯ることはなかった。横にいる長谷川セレーネの方を向いたが、輪郭は判然としなかった。手を伸ばしてみた。だが、誰にも触れることはなかった。Kは、電気の点灯を待った。
いきなり、ものすごい照明が、劇場内に一気に灯った。
と同時に、カメラのフラッシュがたかれ、人の声が飛び交うようになった。
Kはなかなか、目を開けることができなかった。
「ちょっと、君。そこにいると、邪魔だから、こっちに来て。さあ、早く」
Kは肩に触れられ、別の場所へと、誘導されることになった。
「ちょっと、何なんですか」
Kはささやかな抵抗を見せた。
「舞台挨拶だよ。君は、取材の人間か?」
「違いますけど」
「速やかに、退席するように」
すでに、場面は、記者発表の場へと早変わりしていたのだ。
さっきまでの、映画が流されていたスクリーンには、北川裕美をはじめ、出演者がずらりと、横一列に並んでいた。
「ただいまより、映画『アトランズタイム』の舞台挨拶を、始めさせていただきます。主演の北川裕美さん、同じく、主演の・・・」
Kは、この強烈な光の嵐から逃れるように、速やかに会場から去った。