始まりは噂から
ええと、今日は何をされたっけ?確か、朝にドロップキックをされて、トイレで殴られて、財布をとられて、そのあと水をかけられて…
教室に入ったら机がなくて……
ああ、だめだ。思い出すと目からなにか出てくる。
ほろりと目から涙がこぼれる。
泣くなよ…!何泣いてんだよ…!
泣いてどうなる…!?抜け出せるのか?泣けばあの地獄から…?
もう一人の自分からの問い、答えはノーだ。何も起きない。泣いたところで何がどうなるわけもない。
自分の涙に気づき言い聞かせる。
そんなことわかりきっているのに、目からあふれ出る液体は一向に渇く気配がない。
僕は自分の顔をごしごしと擦った。
その時、すれ違いざま、夜の道路で、女子高生であろう二人組の会話が、僕の耳に遠慮がちに入ってきた。
「HERO屋って知ってる?」
「なにそれー?」
舌足らずな言葉が、その女子高生の外見上、低い知能であろうという予想に、拍車をかける。
「トモコいるじゃん?彼女、一回妊娠疑惑で騒ぎになったことがあるのね」
妙な語尾のアクセントに苦闘しながらも、話の内容に聞き入っている自分がいた。
HERO屋という単語に聞き覚えがないので、余計に気になっていた。
距離を離さないように、歩を緩める。
「あー、そんなことあったねー」
「でさ、相手の男がタチ悪くて、ヤクザの準構成員みたいな奴だったのね」
「うんうん、それで?」
うんうん、それで?
心の中で自分も相槌を打つ。
いつのまにか歩は完全に止まっていた。
「お腹の子は堕ろせって言うし、お前とは縁を切るとか、最悪だったみたいなのね?」
「その男最悪ー」
「でね、そこの仲介に入ったのがHERO屋。
これがまたすごいの!その男のバックにいたヤクザ黙らせて、円満に解決しちゃったんだって」
ヤクザを黙らせた?それが本当ならすごいことだが、そんなことが現実的にできるのだろうか?そんなのは漫画の世界だけだ。
「じゃあ今トモコどうしてるの?」
「その男と結婚したみたいよ」
「へー、で、そのHERO屋ってどこにあるの?」
「噂だと、深夜の東高校の科学室で受け付けてるみたいよ。あくまで噂だけどねー」
そこまで聞くと、僕は歩を再開していた。足の先は、東高校に向かっていた。
そこから歩いて、三十分、東高校についた。時刻は午前零時。
校門の前に立った時に、自分が今やっていることをなんとなく理解した。このまま校内に入ることは不法侵入。下手したら裁判ものだ。
そんなことはわかっているのに、校門を登っている僕がいた。
硬い門に擦りつけられ、体がひりひりと痛んだ。
僕は足音に注意し、ゆっくりと校舎に向かった。
ガラスの扉の取っ手をつかむ。引くがびくともしない。もう少し強めに引くが、手ごたえはなく、扉が開くことはなかった。
当然のことだが、扉の鍵は閉められていた。
普通ならそこで諦めるだろう。だがその日の僕は普通じゃなかった。
校舎裏に回り、開いている窓はないか、探していった。
探して十分足らずでそれは見つかった。
学校と外界をつなぐ穴が開いた。そこに足をかけて、校舎に入ろうとしたとき、窓枠に泥が付いているのに気がついた。
ということは、すでに、僕がここに来る前に、ここから校舎内に入った人間がいる、ということだ。僕の中の期待は一気に高まった。
僕は窓をよじ登り、校舎内に入った。
薄暗い(暗闇に目が慣れた僕にはそう感じた)校舎内には、無人の廊下と教室が並べられていた。人の気配は一切しない。だから恐怖心は全くなかった。
ホラー映画なんかは、そこに何かがある、という不確定な確証が恐怖心を煽るのだ。それがない学校は昼間の学校と変わらない。
勘を頼りに校舎内を歩き回り、科学室を探した。
三階に上がってすぐに、光が目に入った。
一室から、蛍光灯の光が漏れている。あそこだ。というか、あそこしかない。
僕は自然と駆け出していた。