第195話 光に包まれた、その時
世界中に音が響くという現象は、種族に関わらず多くの人たちに影響を与えた。
それは少ない例外を除いては、全ての人々に対して、だ。
そして、アンナはその例外に入らないため、不快で痛い感覚に苦しんでいた。
「あああぁぁ!」
心の奥の苦しみに耐えきれず、部屋中をのたうち回っている。
そのそばでソフィーはアンナに声をかけ続けるものの、その声はアンナには全く届いていなかった。
見ているソフィーまで苦しくなるほどに苦しんでいるアンナを見て、ソフィーは自分がもし霊体でなかったら、と悔しく思った。
霊体でなかったら、この手でアンナに触れ、抱きしめてあげることができるというのに。
しかし、逆に実態を持っていたら、この音の影響を受けていたかもしれないと思うと、それも嫌だった。
ソフィーは教団の人間以外の数少ない例外だ。霊体だから影響を受けず、そしてアンナを救うことができない。
「アンナ!」
ソフィーが慌てふためいていると、部屋のドアが勢いよく開き、そこからリベルが入ってきた。周囲でもアンナと同じように叫んでいる人がいる中でも、リベルの声はしっかりと聞こえた。
その声に反応するかのように、アンナはのたうち回るのが少し大人しくなった。
「ソフィー、君はひとまず周囲の状況を見てきて。この現象が一体どの程度広がっているのか知りたい。アンナは僕が見てるから」
『わ、わかりました。では、よろしくお願いします』
ソフィーはここで自分にできることはないと知っていたため、リベルの言う通り外へと調査に出た。
そして、アンナは少し大人しくなったとはいえ、苦しいのは相変わらず変わらない。むしろ、リベルの前だからとやせ我慢しているところがある。
そして、それはリベルにも見て取れた。
「アンナ……僕には今、こうするしかないから……」
そう言うと、リベルは倒れていたアンナの体を起こし、そっと抱きしめた。
「あっ……」
「しばらくはこうしてる。苦しいのなら、たぶんこうしたら少しは楽になるだろうから」
「……はい」
リベルの言う通り、抱きしめられている間は何だか心地よく、苦しみが和らいでいくのを感じていた。
まだ心の奥には変わらず苦しみはある。自分の中に、よくわからないままに発生した苦しみが。そこに困惑するだけの余裕が、今のアンナにはあった。
「どうして、いきなり……」
「わからない。教団が何かしたのかもしれないけど、一体何をしたのかはわからない。だけど、これがレヴィさんの言っていた止められないことなら、その通りだ。これは止められない」
こんな不意打ちのような形で、よくわからない攻撃が来ては対処のしようがない。そして、苦しみからは負の感情が多く生まれる。教団の求める負の感情が、今多く発生している。
このままでは、教団の思惑通りに事が進んでしまう。
だが、それに対する打開策が、今は<ハーモニクス>のただ一つしかないというのが問題だった。
最後の手段は、そう簡単には切れない。
「……そういえば、リベルさんは、なんともないんですか?」
アンナが今気づいて、リベルを見上げて尋ねる。
「あぁ、そうだね。<ハーモニクス>のおかげか、それとも別の理由か。わからないけれど、今は何ともない。だから、大丈夫」
「はい」
こうしている間にも、周囲の部屋からは大きな物音や叫び声が聞こえている。二人にはそれらを聞いているのが、心苦しい。
それでも、今は何もできないということがわかっているから、そのままでいる。
何もせず、何もできずにそのままで。
もしかしたら、響いている音が止んだら元に戻るかもしれないという、淡い期待をリベルは込めている。
それでも、苦しい人はとても苦しいのだろう。
「くっ……」
アンナは苦しさに一層強くリベルにしがみつく。その腕に込められる力から、アンナがどれだけ苦しいかがうかがえる。
リベルはその腕の力をただ受けるしかない。何かできることはないのだから、ただリベルにはアンナにさせてあげたいようにするしかない。
子供とは言え、獣人族の子供だ。その力は相当に強い。息苦しいとも感じることはあるが、それで引き剥がすわけにはいかないのだ。
だから、リベルはただ抱きしめるだけではなく、その頭をそっと撫で、アンナを落ち着かせる。
ふさふさと柔らかい髪と猫耳を撫で始めた時は、緊張して体を固くしていたが、しばらくすると少し落ち着いてきたのか腕に入る力も少し収まってきた。
苦しみを排除できないのなら、その苦しみに上書きする形で何らかのいい刺激がなければならない。そうでなければ、これは乗り切れないのだと、リベルは思った。
『リベル、戻りました』
突然、ソフィーが戻って来たことに少しリベルは驚いたが、彼女の切羽詰まった表情から、すぐに気を引き締めた。
「どうだった?」
『まだ全部は確認していないですが、ラスカン全体は間違いなく覆っています。それにきっと他の種族にまで広がっている可能性は高いです』
「つまり、世界中?」
『そういうことになります』
リベルは考え込んだ。
このまま音が鳴りやむまで待つべきかどうか。教団が負の感情を必要としている以上、その一定量に達するまでこの音は止まないだろう考える。
それで今どの程度の量が発生しているのかわからないのなら、あとどれくらい続くのかもわからない。
もしかしたら、ずっと一時間以上も続く可能性だってある。
だが、それで<ハーモニクス>を使って、人々の負の感情を消せば、それは人としてしてはいけないことなのだと思っている。
それなら、ただ単純に、害悪を排除するしかない。
<ハーモニクス>で排除したい対象は、イメージがなくてはならないため、この音を出している相手は消すことができない。
なら、その音に込められている力を消すしかない。
一体どんな力かわからない以上、消せない可能性だってある。
しかし、今はそれくらいしか方法がない。
「さて、どうなるかな」
「……何かするつもりですか?」
アンナは不安そうに問いかけける。
「そうだね。まぁ、ひとまず試してみるだけだ。うまくいかなかったら、別のことを考えるさ」
「そうですか……」
リベルはソフィーの方に向き直り、指示を出した。
「ソフィーはもう一度外に出て、僕が<ハーモニクス>を使った後にどんな変化が起こるから、それを確認して」
『了解しました』
そう言うと、ソフィーは出て行き、再び部屋の中にリベルとアンナだけになる。
リベルはそっと深呼吸をして、心を落ち着けていく。
リベルは怖いのだ。今使うのは、これまでの<ハーモニクス>とは少し違う。対象が曖昧であるから、その効果がどう表れるかがわからない。
もしかしたら、何も起こらないかもしれないし、逆に変なことが起きるかもしれない。しかし、それでもやると決めたらやる。そのための深呼吸だ。
「よし、じゃあ、やるか」
リベルは少しずつ自分の中へと集中する。
しばらくするとそれが湧き上がってくるのがわかった。
そして、一言。
「<ハーモニクス>」
その瞬間、世界が光で包まれた。
♢♢♢
マスターは自分の力に反発する力を感じた。
「なるほど、神の子が動いたか。しかも、私の力を消すつもりときた。これは面白い。では、少し面白くしようか」
マスターは奏でる音を激しくしていった。そうして使うのは、精神操作の奥の手。
精神崩壊。
力を強めることで、全世界の人々の精神を壊しにかかる。
「さて、これを消せるのかは、見ものだな、神の子」
マスターは自分の視界が広がる光で包まれたとき、笑みを浮かべていた。