第194話 タクトの力
獣人族からも軍が出兵し、その後は多くの者が浮かれていた。これでひとまずは安心だ、ということで酒を飲み、騒いでいる人もいる。それは勝利の時にするものだというのに、そのうかれようは見ていて少し馬鹿らしかった。
その一方で、やはり不安げな表情をする者もいる。そういう人たちは、戦争はできればしない方がいいと思っている者たちだろう。
他種族を憎み、敵対することはあっても、それだけで戦争に発展させたくはないのだろう。戦争をすることで失われるものの方を大事にしているのだ。
だが、どちらにしても、獣人族の軍は困惑することだろう。人間族や魔族がその足を止め、攻め入ろうとはしていないということに。これでは、無暗に手を出して本格的に戦わせるわけにはいかない。戦えば、死傷者が出るのは絶対だ。
その時に獣王がどう対処するのか、それを確認するのもやぶさかではなかったのだが、マスターはその前にやるべきことをやることにした。
おそらく、こちらの方が困惑することになるだろうから。
「さてと、まさかこの時にラスカンに神の子がいることになるとはね。何たる偶然か」
ラスカンは広大な国で、地図上の世界の中心地点はラスカンにある。とは言え、首都からは離れているものの、同じ国にいることになるとは、マスターも考えていなかった。
もっとも、そこにいたからといって別に何があるわけでもない。ただの偶然が面白いというだけだ。
マスターはその世界の中心地点にいる。そばにはハンナも同行していて、辺りは草木のない荒野だ。
「神の子よ、人々と同じく、あなたのことも試させてもらおうか。器として適切な力を見せてくれるのか否か」
マスターはおもむろにバイオリンを取り出し、誰もいない荒野でそれを引き始めた。
しかし、ただ引くのではない。マスターの力である、神属性魔法<タクト>も同時に使う。
「さぁ、世界に生きる全ての人々よ。我が饗宴にご参加願おうか」
<タクト>に乗せられたバイオリンの音は、全世界の人々へと伝わって行った。
この神属性魔法<タクト>とは、生きている人々を自在に操ることのできるもの。ただし、魔物は対象外。グレンとクレアがいる時に、魔族と人間族の軍を動かしたのはその力だ。
これはある程度距離が離れていても、その場所にマスターと同じ波長さえ存在すれば、そこを起点として一定範囲内で発動できる。その波長は、別に教団の仲間がそこにいる必要はない。要は、教団の仲間の魔力がそこにあればいいだけの話。
魔族も人間族も、それぞれの教団の手先に魔力を付着させられているのだ。だから、動かすことができた。
そして、今回の<タクト>では、全世界に散らばる教団の一員たちの全てを起点として、世界中にその効果を広げている。そして、それは人を操る力。さらには、音楽という今では禁止されているものが聞こえている。
普段は聞き慣れないものに、人々は強く影響を受け、その音に耳を傾ける。そうすることで、<タクト>を使った精神操作が可能となる。
操作と言っても、それは人の体とは違って正確に操れるわけではない。ただ、ある一つの方向へと向かわせることができる。その進み具合は人によって千差万別。それでも、誰もがある方向へと精神が向かって行くのだ。
教団が望む、負の感情へと。
♢♢♢
その音を聞いていた時、レヴィは王宮の入り口付近にいた。マスターの<タクト>が教団の人たちを中心にしている以上、少しでも町に近い所にいた方がいいと判断したのだ。
そして、レヴィはその音を聞いても何ともないが、王宮の警備をしていた兵士たちには異変が現れた。
誰もが声が潰れるほどの叫び声をあげて、その場に蹲っていた。レヴィがマスターの<タクト>の精神操作を見るのはこれが初めてだが、その様子にはさすがに驚いた。人それぞれどれだけ操作されるかは、その人の精神的な強さに比例するらしい。
そして、兵士がこれほどまでに怯え、嘆いているのだ。ただの平民たちではこの程度では済まないのかもしれない。まさしく、教団が望む負の感情が一気に高まっている。
だからこそ、誰がどれだけ対策をしようとも、そもそものマスターをどうにかしなければならなかったのだが、たった短い時間でそんなことができるわけがない。世界が混乱するのは、必然的なことだったのだ。
ついに計画が最終段階へと向かったことに感動していたレヴィは、背後から聞こえた足音に驚いて振り向いた。
「これが、あなたが狙っていたことね。さすがにこれは、止めようがないね」
「あなたは……この中でも平気なの?」
レヴィは自分に向かってまっすぐ歩いてくるメルティの姿を、信じられないものでも見るかのように見ていてた。
大の男の兵士たちがうずくまって叫んでいるという状況なのに、まだ十歳の少女であるメルティは何ともないというのは、かなり異常だった。
「平気、とは言い難いわね。実際、今でも胸の辺りがとても苦しいもの。そこの兵士たちがそうしているのも納得できるくらいには」
「でも、そうやって平然としているじゃないの」
「かなり頑張って耐えてるのよね、これでも。せめてもの抵抗という所。だから、あまり気にしなくていいよ。レヴィは自分のやりたいようにやっていればいい。私もやりたいようにやるし」
メルティはそう言うと、スッとレヴィの脇を通り過ぎて行った。
「え?ちょっと、どこ行くの!?」
王宮の玄関へと向かうメルティに、咄嗟に声をかけるレヴィ。
そんな彼女に、メルティは振り返ることはなかった。
「ちょっと町の様子でも見てこようかな、と思うのよ。こんな状況だもの。まともでいられる人なんて、そう多くはないんじゃないかしら?」
「でも、あなたが行く必要は……」
ない、と言おうとするが、レヴィにはできなかった。なぜなら、それを言ったら嘘になるから。
「行く必要はあるでしょ。だって、王族なんだから、責任は果たさないと」
そう言うと、メルティはそのまま玄関の戸を開こうとする。しかし、如何せんメルティはまだ幼い少女だ。その玄関は台の大人が開けることを前提にして作られているのだ。しかも、二人がかりで。
だからこそ、いくら全部開ける必要がないとしても、メルティ一人で開けるのには無理があった。
それでもメルティはここから外に出る必要があった。
他にも外に出る方法はある。しかし、ここから出ることに意味があるのだ。人々が負の感情に押しつぶされそうになっている時に、真正面から外に出ることで意味があるのだ。
だが、現実としてメルティには開けられない。諦めずに押し続けるものの、それはびくともしない。
しかし、不意に扉が少し開いた。
メルティは不思議に思って見上げると、メルティのものではない手が玄関を押していた。
「まったく、相変わらず頑固なんだから」
レヴィが、メルティを手伝って扉を開けている。そのおかげもあって、ようやく扉をメルティ一人が通れる程度には開けることができた。
「さぁ、行ってらっしゃい」
「……どうして、協力してくれたの?」
「う~ん、あなたが何をやっても止められるとは思えないから、少しくらい自由にしてもいいかなって思ったのかな。でも、一番はあなたが私の妹だから、かな。妹を助けるのは当たり前でしょ?」
「……教団に加担しているあなたに、そんなことを当たり前と言われてもしっくりこないけど……でも、ありがとう」
メルティはあまり表情を変化させなかったが、それでも少し頬を緩めてそう言った。その顔を見て、レヴィもまた微笑んだ。
「はい、行ってらっしゃい」
メルティはそうして、町へと向かった。