第188話 司教へのお願い
教会の定時の集会の時間となり、エリオットはその重い腰を上げた。
今が大変な時だからこそ、教会の司教の立場にある者として、その役目を果たさなくては、と自分に言い聞かせた。
そして礼拝堂へと向かおうとしたその時、頭の中に声が響いてきた。
『え、えっと、聞こえてますか?司教さんは聞こえてますか?』
頭の中に聞こえてきた声は、幼い少女の声だった。
しかし、周囲にそんな人はいない。幻聴というには、意識ははっきりしているし、しっかりと聞こえた。
エリオットも教会の紙に使えるものの一人だ。こんな風に突然声が聞こえて、これが神の声だと信じてしまう。
「まさか、本当にいるなんて」
エリオットが感慨深げにそう呟くと、感動で涙さえ浮かべていた。
そして、声の方もそんなエリオットの様子に気付いたようだった。
『あ、聞こえているみたいですね。では、あなたにお伝えしておきたいことがあります。今教会には戦争という不安に脅かされている人々が、多く通っています。あなたはその人たちの不安をできるだけ取り除かなくてはなりません』
「それは、当然のことと思いますが」
そう言った瞬間、エリオットはしまったと思った。
せっかく神様が話しているのに、その話を途中から入って止めたり、あまつさえその考えを当然のことだと言ってのけるなど、無粋極まりないことなのではないか。
神様の声があまりにも幼いものであったため、つい相手が神様だという認識が抜けてしまっていた。
このことが原因で、もしかしたら死んでしまうかもしれない、と本気で思っているエリオットは、プルプルと体を震わせ、謝罪の言葉を述べようとした。
しかし、恐れから言葉が出ない。
そもそも、頭の中に誰かの声が聞こえてくるなどという現象を体験するのは初めてであるから、心構えが全くないのだ。しかも、それが神様となれば、緊張の度合いは跳ね上がる。
エリオットは何か言おうとするものの、声がかすれて言葉にならない。
『そうなんですよね。当然です。でも、あなたが思っている以上に事態は切迫しています』
しかし、その声はエリオットの様子は特に気にしていない様子だった。
それに少し救われたエリオットは、そっと息を吐き出した。
「切迫、とは一体どのようにでしょうか?」
『人々が不安することによって、今回の戦争を引き起こした者たちの思惑が成就するのです』
「戦争を引き起こした、とはどういうことでしょうか?今回の戦争は、人間族と魔族軍が動き出したことが原因では?」
少なくとも、国から伝えられた情報はそのことだ。
だから、ついに他種族が動き始めた、と誰もが不安になっているのだ。
『いいえ、その二種族ですら、ある者たちの掌の上で踊っているのです』
「……それは、つまり、三種族全部が思惑に沿っているということでしょうか?」
『その通りです。その者たちの狙いは、戦争を起こすことで膨大な不安や恐怖といった負の感情を集めることです。負の感情を集め、この世界にさらなる混沌を引き起こそうとしているのです』
「その混沌、というのは一体?」
エリオットは必死になって尋ねる。こんなことになっているのなら、それはとても危ないことだ。教会本部にすぐにでも知らせなくてはならない。
だが、声はエリオットの問いに回答はくれなかった。
『それ以上はそちらで何とかすることです。このように助言をすることすら、本来はあり得ないことなのですから、これ以上頼りきりではいけないですよ』
「そ、そんな……」
『安心してください。不安や恐怖さえ取り除くことができれば、彼らの思惑を阻止することができます。そのために教会が動かなくてはならないのです。人々の負の感情を取り除くことで、世界を幸せにするのです』
「で、ですが、そんなことをしても戦争が実際に起こってしまっては……」
『それも問題はありません。この事態に気付いている他の者たちが、戦争を止めようと動いています。あなたはあなたの役割を全うすればそれでいいのです』
「わ、わかりました。善処します」
エリオットは強く言った。
自分自身に言い聞かせるようにしたその言葉は、決意がこもっていた。
先ほどまではこの事態に落ち込んでいたのだが、それをどうにかして、みんなを幸せにできる可能性が提示されたのだ。それに従わないという選択肢は、エリオットにはなかった。
『それでは、頼みましたよ』
「はい、やってみせます」
司教室を出た時は疲れていたのに、今はその疲れが吹き飛んでやる気に満ち溢れていた。
今まで聞いたことのなかった神様の声を、ようやく聞くことができた。
それだけで、自分が司教なのだという実感が持てたし、成長しているのだと思い、自分がやらなければならないという使命感にもあふれた。
エリオットはその気持ちをそのままに、礼拝堂へと入って行った。
普段なら物静かなエリオットの突然のやる気にシスターたちは驚いている様子だったが、そんなことは気にはならなかった。
今は自分がすべきことだけを考えていれば、それだけで良かった。
そして、すべきことをして、みんなを幸せにすることができるのなら、エリオットにとっては本望といえた。
♢♢♢
ソフィーは伝えるべき内容が終わると、念話の魔法を解除した。
その瞬間、ずっと気を張っていたのかアンナの体から力が抜け、椅子に座りながらテーブルにうつぶせになった。
「お疲れ様。とても良かったよ」
リベルがねぎらいの言葉をかけると、アンナは疲れ切った様子で答えた。
「それは、何よりです。何だかだましているようで申し訳なかったですけど」
『でも、実際の所はだましているわけじゃないですよね。別に一度たりとも、私が神だ、というのは言わなかったわけですし』
「そう。相手が勘違いしやすいように誘導し、こちらの思惑と要求を伝えやすくするという方法だよ。まさか、こんな時に使うことになるなんてね」
リベルが満足げにしているところで、ソフィーと顔を上げたアンナが苦笑いする。
「そういうことを言うのは、どうなんでしょう」
『まぁ、伝えた内容が嘘じゃなくて、本当に必要なことだから許されるようなものの、日常的にやっていたら、刺されることになるかもしれませんよ』
「二人とも言うねぇ。こんなこと、日常的にするわけないでしょ?たまにしかやらないよ、たまにしか」
「たまにやるのもどうなんでしょう」
『本当にそうですねぇ。あの司教さんに申し訳なくなってきますよ。ほとんど押し付けたみたいになりましたし』
ソフィーの言うことに関しては、それは正しい。
実際に、リベルたちは人々の不安を取り除くという役割をエリオットに押し付けたことになる。あちら側としては快諾したことになるのだろうが、それでも押し付けたのは事実だ。
「まぁ、そうだね。そうせざるを得なかったとはいえ、そこは申し訳ないかな。でも、必要なことだと割り切るしかない。何もせず、何もできずにこのまま自体が進んでしまえば、何が起こるのかわからないんだから」
「そうですね」
『確かに、最悪なことになるよりはまし、ですね』
「そういうこと。最低でも、回避しなくちゃいけないことは回避しよう。そのためにできることをする。グレンもクレアも頑張ってるんだから、こっちも頑張らないとね」
「その頑張りが、他力本願というのは、少し心苦しいですけど」
『人選という意味では役に立っているとは思いますが』
若干の後悔は仕方がないのはリベルも自覚していた。
もともと、こんな風に知らない人を巻き込むのは本望ではなかった。それでもこうするしかなかったから、その手段をとったのだ。ここで後悔しても、意味はない。
「それより、こっちは引き続き、教団の狙いについてだ。負の感情を増幅させることで何をしようとしているのか。それを調べないと」
「わかりました」
『まだ終わらないですよね、当然』
三人はまたしても、情報収集へと戻る。
その間に、司教がどうにかいして人々の不安を取り除いていると信じて。