第187話 教会の司教へ
「くはははっ、なかなかやるじゃないか。魔王もそうだが、勇者も着実に力を付けているということか」
マスターは操っていた者たちが全員倒されたことを受けて、笑っていた。
「まさか全滅とはな。少しくらいは行けるとは思ったが……まぁ、いい」
「よろしいのですか?」
ハンナが尋ねると、マスターはまだ笑みを顔に浮かべたまま答えた。
「あぁ、構わない。元々、今のは余興のようなものだ。ただの遊びでしかない。本命さえ達成できれば、この程度のことなど些事だ」
「そうですか……」
マスターは腰掛けていた席から立ち上がり、靴音を鳴らして歩き出す。
「……そろそろ、本命の方も動き出す。我々も準備と行くか。お前も、役割は果たしてもらうぞ」
「……かしこまりました」
それが、否応なくすべての始まりになるのだということが、ハンナにはわかっている。
そして、それが自身の命の終わりであることも、わかっている。
それでも道具として生み出された存在であるから、ハンナは最後までその役割に沿って、自身の存在の全てを使わなくてはならない。
神器という神にも届くとされる道具。
ハンナはその神器の中でも意思を持つという異質なものだ。
その神器の使い道は、鍵を開くこと。器に存在が満たされるように、器の扉を開くための存在。
そして、その役目を一度終えてしまえば、ハンナの命も終わるのだ。
♢♢♢
教会に行ってみたはいいものの、あまりの人だかりにそこに入ることすら敵わないリベルたち。
こんな状況では、わざわざ司教に話を聞いてもらうことなどできない。
だが、こんなところでリベルが何か言ったとしても、それを信じるどころか、余計に不安にさせてしまう。
立場というのは、こういう時に必要なのだ。
いったん人混みから離れ、広場の噴水の縁に座って休憩することにした。
「ふぅ~、人が多い」
「ですね~」
「ソフィーだけ行っても無意味だしなぁ」
『そうですね。あの司教様が私の声が聞こえるような人なら、神のお告げとかに思ってくれるかもしれませんけど、さっき確認してみても、そんな様子はなかったですし』
リベルたちが人混みで中に入れないとわかると、ソフィーは試しに司教の所まで行って、耳元でささやいてみたのだ。
しかし、司教がその声に反応することは一切なかった。
「いい考えだと思ったんだけど、なかなか厳しいものがあるね」
「人の数が落ち着いてくる夜にもう一度行ってみるのはどうでしょうか?」
「夜って、教会は閉まってるもんじゃないの?」
『大抵はそうですね。ですが、そういう時でも、場合によっては司教室に司教様吐いたりすることはありますし、それにこんな状況ですからね。特別に開放されることはあるんじゃないですか?』
確かに、ソフィーの言う通り、不安に思う人は大勢いる。特に夜にもなればそういう人は増えてくることだろう。だからこそ、教会に通ってその不安を取り除こうと躍起になるのかもしれない。
「それだと、夜でもあまり人の数は減りそうにないね。夜中に出歩くわけにもいかないし、本当にどうしたものか」
『魔法で声を届けてみますか?』
「誰の?ソフィーの声は聞こえないでしょ?」
『アンナの声はどうでしょうか?』
ソフィーに言われ、リベルはアンナを見てみる。
そして、アンナが神様役を演じるという姿を想像してみた。
「うん、それは悪くないかも」
「ちょ、リベルさん?本当にいいんですか?」
「今のところ、それが一番いい考えだと思うんだよね。実際のところ、いつ教団の人たちが本格的に動き出すのかわからないから、できるだけ早く不安は取り除いておきたい。だからこそ、時間はあまりかけたくないんだから、魔法で声を届けるというのは、僕は良いと思うけどね」
リベルの言い様に、アンナは納得できてしまうが、それでも困惑は抜けない。
「それは、言われてみれば、そうですけど……でも、なんて言うんですか?」
『その辺のセリフは私の方で考えてありますよ。一応、さっき司教様に言ってみたものがあるので。まあ、気付かれはしませんでしたが』
ソフィーがぐっと親指を突き立ててアンナを応援し、リベルの方も頷いたので、アンナは断れなくなってしまった。
もっとも、よく考えてみると、これは役に立つことができる機会ということで、ただのお荷物でなくなることになるかもしれない、とアンナは考えた。
「じゃあ、ひとまず宿に戻ろうか。部屋の中でいろいろと準備しよう」
『そうですね。まぁ、安全のことも考えるとそうなりますよね』
そうして、三人は休憩もほどほどに、宿に戻ることにした。
♢♢♢
リベルたちが司教へメッセージを飛ばすと決めたその頃、教会の方では少し面倒なことが起きていた。
その面倒というのも、人が多ければ多いほど起きやすい問題だ。
募る不安から人々にストレスを与え、ちょっとしたことで口論や喧嘩に発展してしまうというもの。
こういう時こそ、人々は一致団結して、共に乗り越えようとすることが必要だというのに。
ラスカンの首都フィールの教会で司教を務めるエリオットという男は、司教室の机に突っ伏して項垂れていた。
彼は幼い頃から教会に属し、三十という若い年ながらも司教となったのだ。
教会はそれぞれの種族の所には、同じ種族の人間が配置されるようになっていて、他種族同士で仕事をすることなどめったにない。
しかし、それでも他種族が混じって所属しているのは、公に知られている機関では教会がただ一つなのだ。
その中でも人種差別をする者はいるものの、エリオットは他種族同士が手を取り合うことはできるものだと信じている。
だからこそ、それを伝えるために教会に属しているとも言えるのだが、伝えようにもそんなことをすればエリオットは同じ種族の獣人族からも忌み嫌われてしまう可能性があった。
エリオットは他種族同士が豊かに幸せに過ごすという理想がある。
その理想は、過去に生きるのに苦しかった子どもの頃に、人間族に助けてもらったことからきているのだ。
もっとも、誰もそのことを言っても信じてはもらえない。
人間族というのは、獣人族の間では悪魔のような存在と言われ、彼らが獣人族を助けるなどということはあり得ないと思っているのだ。
しかし、エリオットは自分の記憶の中の人間族の夫婦が持っていたのは、まやかしの優しさではなかったと信じている。
あれから、エリオットはその夫婦に会うことはなかったが、その夫婦に助けてもらったことは、エリオットにとってはかけがえのない思い出だ。
ああやって、人と人が他種族同士でも助け合うことができる世界になってほしいと思うのだ。
だが、理想をいくら掲げても、現実はそうはいかない。
今では、同種族同士でも諍いが起きたりする。戦争が始まるという状況下での不安で、ストレスが溜まっているのはわかるが、それでも助け合うべき相手と諍いを起こすのは間違っているのだとエリオットは思う。
それでも、その理想通りには物事は進まない。
だから、こんなにも疲れているのだ。
「本当に、どうしたらいいんだろう……」
司教という立場にあるエリオットは、人々に対してはある程度の発言権がある。人々はエリオットのことを神の代理として、エリオットの言葉を真摯に聞く。
しかし、エリオットは神の言葉など聞いたことはないため、そんな風に思われても背負わなくてはならない責任がどんどん重くなっていくだけだった。
「……はぁ、あの人たちなら、なんとかできたのかな……」
幼い頃に出会ったあの夫婦なら、この状況でも人々をまとめ上げてしまえるような気がしていた。
地位が高いとか、偉いとか、発言権があるとか、そんなことではない。
平民の人々の寄り添うその姿に共感するのだろう。
エリオットの覚えている夫婦には、そんな不思議な力があった。