第159話 夜の部屋とベランダ
ここから、第四章の開始、です。
リベルは、そっとため息を吐く。
「どうしてこうなったんだろうなぁ。いや、想定はしていたけど、まさか本当にそうなるとは、面倒なことだね。逆に」
豪華なベランダから見えるきれいな街の景色を見ながら、リベルは言葉を口にしていた。
「ったく、そんなこと普通言うか?普通なら、こんな好待遇は喉から手が出るほど欲しいものだろうが」
「そうかもしれないけどね、期待するのと、実際に味わうのとではまた別問題、ということもあるわけだよ。ま、僕は元から期待もしていないんだけど」
「それが普通じゃないってことなんだがな」
「そもそも、その普通じゃないというものの定義が曖昧だよね。普通じゃないとは一体何なのか。何をもって普通とし、何がそれを普通となすのか。すごく興味があるけど、それを証明することは比較的簡単、そして難しい」
「は?」
リベルが突然変な話題を出すのはいつものことで、グレンはそれに乗ることにしたのだが、相変わらずよくわからないことを言っていた。
「簡単で、難しい?」
「そう。何が普通なのか。そもそも、普通というのは常識、という風に言い換えることができる。なら、その常識とは何か。それは多くの人がそれを常識だと、当たり前で、ごく普通のことだと認識していること。だからこそ、そう言うだけなら簡単だということ。だけど、それを証明することは難しい。いや、難しいとかのレベルではなく、厳密にやろうものならほぼ不可能だ。なにせ、その場合、全ての人々に聞かなくてはならないからね。まぁ、割合から考えて、常識かどうかを判断するのかは、全員に聞く必要はないかもしれないけど、それでも難しい」
「それで?結局、お前は何が言いたい?」
「そうだね。結論としては、現状、人がそれを普通であり、常識だと思うというのは、あくまでその人個人の常識に当て嵌めているに過ぎないということ。ただ、それでは人々が自由気ままに生きる無法の世界になるわけだから、それぞれの国で法律があり、そしてそれを守ることにしているというわけだ。それでも、何をもって普通なのか、という所だけど、お前が普通だと言ったことは、あくまでお前自身がそう思っているだけにすぎず、僕がそれを普通だと認めるかどうかは別問題ということだね」
「相も変わらず、よくもまぁ、そこまで口が回る」
「まぁ、気分転換には、こういうのが僕には最適なのさ。頭の中だけで回すのもいいけど、こうやって誰かに対して言うのも、なかなか面白いよ。理解されづらいけど」
「そりゃそうだろう」
リベルがこうして気分転換しているのは、どうあっても、今いる豪華な場所、王宮の客室というのがどうも落ち着かないからだ。
隣ではクレアとアンナ、ソフィーがいることにはなっているが、向こう側もいろいろと戸惑うことがあるのだろうと推測できる。
どちらかと言うと、アンナが戸惑うに違いない。
どうしてこんなことになっているのか、というと、グレンの優勝の景品、王宮でのおもてなしだ。
最初、このおもてなしとはリベルたち全員が、精々食事を一緒にできる程度のものだと思っていた。
というか、向こう側も当初はそのつもりだったらしい。
しかし、わざわざ獣王であるレグリウスが、泊めてもいいのではないか、と発言したことで、事態は急展開。
すぐさま部屋は用意され、困惑するリベルたちを差し置いて向こう側で準備が進み、気付けばこんな風に部屋が割り振られていた。
「部屋が広いというのも、些か考え物だね。これじゃあ、庶民には広すぎる。普通の宿の方が、よほど安心感を持つというものだよ」
「確かに、お前はこういうのの経験がないからな。落ち着かないかもしれないが、慣れればどうということもないってのが、生きるものの適応力というやつだ」
「こんなものに慣れても仕方ない気がするんだけどなぁ。まぁ、いいや。精々、今晩ここで過ごして、明日になれば出られるんだ。ちょっとした社会見学みたいに思えばそれでいいか」
リベルはもういろいろと突っ込むのに疲れてしまった。
さっき気持ちを落ち着けたばかりなので、ここで熱くなるのは、先ほどの労力を無駄にする気がして、それは嫌だったので、諦めたのだ。
「それにしても、お前は随分とゆったりしているね。さすがはグレン」
「そうだろう?俺はいつ、どんな場所でもこうして、普段通りで振る舞えるのさ」
豪華な椅子に足を組んで腰掛けるグレンは、どこぞの貴族のようで、それは見ていてかっこいいと思うリベルなのだが。
ジトッとした目をグレンに向けるリベル。
「それが普段通りとかいうグレンに驚きなんだけど。今の自分の姿を鏡で見て、それでもまだ普段通りとか寝言を言えるのなら、今度からはその普段通りと言うのをちゃんといつも実践してほしいものだね」
「ごめんなさい、調子に乗りました」
即座に足を崩して頭を下げたグレンは、相当に切り替えが速かった。
リベルに頭の上がらない部分が、こういう所に出ている。
「こういう所に住んでいるとさ、下の世界ってどう見えるんだろうね」
ふと、リベルは唐突にそう口にした。
自分でも意識したわけではない。ただ、そう思っただけで、それが口に出てしまった。
それをグレンに聞くのもどうかと思ったのだが、それは口にした後だった。
「それは、どうだろうな。人それぞれだろうし、ある人には守るべき民、そして尊敬できる人たち、ある人にはただの同種と言うだけの存在、自分よりも格下の存在。はっきり言って、人の数だけその答えはある。一概に、これがどうとは言えないさ」
「そう、だね」
リベルはグレンの言葉をもっともだと思い、頷いた。
「お前が珍しいな。こんな質問をするなんて」
「王宮に入るなんて、初めての経験だよ。その場所から見えるものが何か、なんて質問はあまりしないでしょ?」
「いや、そう言うことじゃなくてだな……お前が、答えが人それぞれに分かれるのがわかり切っている答えを問うなんてことが、珍しいってだけだ」
「……それもそうだね。何でだろう?何となく、そう思っただけなのに、なぜか口に出ていた。いつもなら、そんなことを思っても、すぐに自分の中で質問しても無駄だって思って、心の中でとどめるんだけど……どうしてだろう?やっぱり、王宮っていう、現実離れした場所にいるから、何だか不安定にでもなってるのかな?」
リベルはぼうっと、外の空を見上げ、星を眺める。
ただ満点に広がる星は、ただ一点を見るのではなく、全体を見ることでその星の瞬きと多さ、そして空の広さをリベルの目に焼き付けた。
そんな様子のリベルを見て、グレンは気になっていたことを聞いた。
「お前、何かあったか?」
「ん?何かって?」
「何かは何かだ。質問で返すな。わかるだろ」
「はははっ、そうだね。でも、何か、か。それはまた曖昧な質問だね。グレンが聞きたいのは、何か、というより、何か特別なことでもあったか、ということかな?」
リベルが軽い調子でそう言うと、グレンはため息を吐いた。
「お前の悪い癖だな」
「どういうことかな?」
「お前は、何か話をしている最中に必死にその先を考える時、どうでも良いことを並べて時間稼ぎをする。黙り込むことで、相手に何かを悟られるのが嫌いなんだ」
「はははっ、グレン、今日は何だか冴えてるね。優勝でもして、頭の中が少しすっきりした?随分な思考力だこと」
「そうでもないさ。お前と十年以上もいるんだ。これくらいわかる」
「あ、そう」
そして、グレンは本題に戻る。
「それで、だ。お前の悪い癖が出ているわけだが……やっぱり、何かあったんだろ?何か、お前ほどの奴が動揺するくらいには」
「『ほど』って何かな?買い被りもいい所だよ」
「お前に関しては、低く見ることがもっともしてはいけないことだからな。俺にそう思わせるだけで、もう十分だ」
「評価が高いことで、それはそれで面倒だなぁ」
「また、話がずれてるな。これも、お前の誘導か?」
「にしては、早く戻って来たね。たとえ誘導だとしても、対応してくるんだね。まぁ、誘導ではなく、ただの自然な会話の流れなわけなんだけどね」
この会話で、グレンは自分の追及がリベルにひらりひらりと躱されているように思えた。
掴めそうで掴めない感覚が、グレンにはあった。
「何があった?」
「結局はそこに帰るよね、やっぱり」
シン、と大きな部屋の中に沈黙が漂う。
夜風が吹き、ベランダに立つリベルの銀髪を揺らし、カーテンが翻る。
その風がやむよ、リベルは口を開いた。
「何もないよ」
「……そう言うだろうとは思っていたさ。だが、何もないことはないだろう?」
「何もないんだよ。本当に、いつもと変わらない、特に何があったわけでもないんだよ、最近は。精々、お前とクレアの大会ぐらいが、僕の中での直近のビックイベントなんだよ」
「……お前がそういう奴だってのはわかっていたが……やっぱり、言わないんだな」
「何もないからね」
「……そうか」
それ以上、グレンが何かを言ってくることはなく、二人して就寝することにした。
(そうだね。何もない。何もないんだよね。僕にとっては、本当に、何でもないこと。いつも通りの、自分自身の我儘を通しているだけで、特に何も変化があったわけじゃない)
リベルは、嘘は言っていなかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。