第121話 十年の想いと五人
シュトリーゼ王国の王宮の一室。
アスティリアは自室のベッドの上でうつろな瞳のままでいた。
一週間ほど前にクレアがこの王宮を出て行った、そしてこの国を裏切ったと言われてから、アスティリアはそれが信じられず、しかし否定する証拠を上げられずにずっと抜け殻のように何もできずにいた。
国中に勇者が反逆したとして、指名手配されていることは、国民たちに大きな混乱をもたらした。
アグニ討伐からまだ少ししか経っていないというのに、また新たな混乱が生まれてしまっていることを、アスティリアは嘆いていた。
しかし、嘆いていても何もしない。何もできない。
アスティリアは本当にクレアのことを愛していた。我が子、と言えるほどではないが、アスティリアなりに愛情を注いできたつもりだった。
十年前、まだクレアが六歳の頃。
最初に会った時は、クレアには勇者としての役割しか期待していなかった。幼いながらも常人離れした力を持つ子供のことをすごいと思うことはあっても、結局は国のために必要な一人にすぎないと思っていた。
だが、ある時アスティリアはクレアが誰にも見られないように陰で泣いているのを、偶然見てしまった。
いつもなら誰かが見ている視線を感じたら気付くはずのクレアも、その時は泣くことだけをしていてアスティリアに気付くことはなかった。
アスティリアはいつものようにクレアをただの勇者と思っていればいいと自分に言い聞かせて、その場を通り過ぎようとしたのだが、その時、クレアがぼそりと言った言葉が聞こえた。
「おかあさんに、あいたいよ……。おとうさんに、あいたいよ……」
その瞬間、アスティリアは電撃に撃たれたかのような衝撃を受けた。
いつもの凛々しく、そして強い勇者としてのクレアではなく、今そこにいたのは、ただ家族を思う一人のか弱い少女だった。
いくら勇者であっても、その内側には一人の普通の少女しかいないのだ。
そのことがわかったアスティリアは、その日から少し変わった。
いつもならどうでもいいと思っていたクレアの鍛錬や勉強に、少しだけ興味が出てきた。一生懸命に頑張っているクレア。その本質の所には、家族に会いたいという強い想いがあることを知った。
勇者という過酷な運命に選ばれてしまった少女に、そう簡単に自由はない。そもそも、会いたいといっても、クレアの故郷はこの国のはずれだ。そう簡単に会いに行けるようなところではない。
ならばどうすればいいのか。
後々になってから気づいたが、アスティリアはこの時からクレアに対して、愛情を持っていたのだ。愛情を持って見つめていたのだ。
そして、そんなある時、アスティリアはついにクレアに声をかけることにした。
それは他愛もない、ただの世間話。しかも、親しい間柄でするような親密度がうかがえる会話ではなく、事務的な、典型的な会話。
しかし、それだけでもアスティリアはクレアと話せたのが嬉しかった。
それからもアスティリアは何度もクレアに話しかけ、クレアの話を聞き、自分の話をする。
この時はもうすでにアスティリアは部隊の隊長の任について、クレアはまだ鍛錬したり勉強したりで、なかなか会う機会はなかった。
それでも会う機会を作り、時間を作り、たまに時間がなくとも、視線を合わせるだけでもして、そうしてアスティリアは愛情を注いでいった。
こんな風に誰かを愛おしく思うことが長い間なかったために、アスティリアはぎこちなく接していたかもしれない。クレアにとっては、事あるごとに話しかけてくる変な人だったかもしれない。
ただ、アスティリアはクレアにどう思われようとも、あの時見たクレアの涙とあの時聞いたクレアの静かな叫びを忘れることができなかった。
あの時に決めていたのかもしれない。クレアの生きていく道を支えていくと。そのために、クレアと接しようと。
その思いがあったからこそ、それから一年が経てば、アスティリアはクレアと気心の知れた友だち、という関係にまでなることができた。
それはクレアがまだ七歳の頃で、勇者としての力を本格的に解き放ち始めた頃だった。
今までクレアに剣を教えていた人ではもう到底クレアの力量に追い付いていけなくなっていた。剣の技術という面ではまだ些か未熟と言えたが、それでももう少し鍛錬すればすぐに追い抜いて行ってしまうほど。身体能力に関しては、大の大人でさえも上回るほどで、どちらかと言うとそちらの方が驚異的だった。
そのため、訓練の相手は部隊長であるアスティリアに任せられ、それからは毎日のように二人で打ち合った。
最初はアスティリアの方が手加減していたが、だんだんと本気になってきて、今ではもう手加減する余裕がないほどだった。
いつ自分を越えていくんだろうか。
それを思わずに寝た日はなかった。そして次の日に打ち合う時を楽しみにした。
それが、もうできなくなってしまうということに、アスティリアは絶望していた。
クレアが王宮に引き取られてからもう十年。その十年の軌跡を一番近くで見守ってきたアスティリアからすれば、今回の勇者の国家反逆は、立ち直るまでに相当な時間を必要とするダメージだった。
アスティリアは布団を引き寄せて、そのまま蹲る。
「クレア……」
その声は、とても細く、空気に紛れて消えてしまった。
♢♢♢
獣人族の国、ラスカン。
その首都であるフィールの王宮の一室で、王族が集まっていた。時間からして夕食だった。
食事をとっているのは五人。
獣人族の頂点に位置する王、獣王と呼ばれている男、レグリウス=ラスカン。そしてその妻フェルミ―、長男のジークに、長女のレヴィ、そして次女のメルティだ。
レグリウスが、突然話を始めた。
「獣人族が今この国に次々と集まってきているな」
その声に反応したのは、ジークだった。
「そうみたいですね。エクリア王国の崩壊によって解放された奴隷たちが、こちらになだれ込んでいるようですね」
「ジーク、言い方に気を付けろ。彼らは祖国に帰ってきているだけなのだ。なだれ込むなど言うでない」
レグリウスが静かに纏う怒気に気付いたジークは、すぐに頭を下げた。
「申し訳ありません。以後、気を付けます」
「うむ、それなら良い」
「それで、一体どうしてそのことをわざわざ?」
レグリウスの言うように獣人族はラスカンに集まってきている。だが、それをわざわざ言う必要はなく、この場にいるものは当然のように知っている。
つまり、話の本質はそこではない。
「エクリア王国を崩壊させた人物、ジークは何か心当たりはあるか?」
「心当たり、ですか。それはなぜ俺に聞くのですか?」
「仮にも一国を相手にするようなことだ。複数いる可能性は高いが、どこかの国が軍隊で動いた形跡はない。となると、少数であの国の軍を黙らせられるほどの力量を持っていないといけない」
「あの程度の国なら、俺一人でもどうにかなりそうですがね」
ジークがニカリと笑って冗談を言うと、レヴィが口を挟んできた。
「お兄様、さすがにその言い方はどうかと思われます。それに、たとえ冗談であっても、王族が一つの国を一人で相手にするなど、行っていいものではないと思われます」
「いちいち固いなぁ。言うだけなら自由だっつの」
「その一言で何かが起こりかねないというのが王族なんですよ。そこをそろそろ自覚していただかないと……」
「へいへい、わかってるよ」
口だけで実際には反省もしていない態度にイラッときたレヴィは身を乗り出そうとしたが、隣のフェルミ―が止めた。
「レヴィ、食事中にそれはやめなさい」
「ですが、母上!私はー」
「いいから座りなさい。せっかくの食事が勿体ないわ」
レヴィは強気に突っかかろうとするが、やんわりとしたフェルミ―の態度に、どうにも強気に出られない。
フェルミ―が優しい人なのは理解しているレヴィは、自分の母親ながらどうにも苦手で、ここはおとなしく引き下がるしかなかった。
それを見て、レグリウスは話を戻した。
「それで、お前の知る限りで、あのようなことができる奴はおるか?」
「俺の交友関係は父上よりは広くありませんよ」
「それはわかっている。だから、参考として聞かせてほしい」
「……そういうことなら。ですが、俺の知る限りでは俺と父上、それから三天獣の三人くらいしか……そうですね、それ位しか思いつきませんね。実力を知っているのはそれ位なので、断言できるのはそこまでです」
「そうか……」
レグリウスの表情がかげるのを見て、ジークはたまに発揮する勘の良さで、レグリウスが考えていることを悟った。
「父上、もしかして、同じ獣人族がやったんじゃないかと思っているんですか?確かに仲間を救い出したという意味ではそう考えるのが妥当かもしれませんが、さすがにいくら何でもそれは厳しいところがあります。なにせ、あそこはー」
「あそこは獣人族を見つけたら容赦がないから、か?」
「そ、そうだよ。見つかったら、首輪付けられてそれで終わり。どんなからくりかは知らないけど、今までもいろんな奴らを送ってきて、そいつらが全員ダメだったはずでしょう?それなのに、獣人族にできるわけないでしょう?」
「そうかもしれん。だが、他の可能性を考えると、人間族か魔族ということになる。これがどこかの国の一部が動いたなら、できないことはない。ただ、一つ気になるのは情報によると、町中は戦闘には巻き込まれなかったそうだ。暴動で建物が壊れたり、荒れたりはしても、少なくとも獣人たちを解放した時の戦いでは町中に被害は出なかったそうだ」
「……それがどうかしたんですか?大した問題では」
「大した問題ではないかもしれない。だが、ここから一つわかることがある。それは、解放したそいつらは最初から町に被害を出すつもりなどなかったということだ」
「それがどうしたというんですか?」
「わからん。だが、そこに何かあるとしか思えないんだ」
レグリウスが食事そっちのけで本気で悩んでいた。
その姿を見ると、ジークもレグリウスの言うことが重要に思えてきた。
「何か、何かが見えてきそうなんだが、あと少し足りない。何かの策略なのかもしれないが、全く意図が読めないんだ」
「確かに、そう考えると不気味だな。本当に、一体何者なんでしょうね」
二人が考え込んでしまったところで、メルティが手を叩いた。
パンっという乾いた音が響いて意識を引き戻されたレグリウスとジークに、メルティは一言。
「ご飯の最中」
有無を言わさぬ威圧感を感じ、その後二人は黙々と食事に没頭した。