第4話 謝るなら考え直しても構わない
「スシーマ様? スシーマ様!」
スシーマは側近に呼ばれている事に気付いて、はっと顔を上げた。
「珍しくぼんやりされて、どうかしましたか?」
「いや、べつに……」
先日から書物を読んでいても、マントラを唱えていても、気付くとあの巫女姫の事を考えてしまっている。
思い浮かべるたびに一層鮮やかに、一層美しくなって心を占領する。
傲慢なのに真摯で、辛辣なのに甘く、そして高飛車なのに愛らしい。
自分は一体どうしてしまったのだろうかと思った。
女など今までさほど興味を持った事もなかった。
美醜の違いはあれど、どの姫も大差ない。
みな同じように慎ましく、同じように言いなりだった。
だから結婚相手も、誰でも良かった。
それなのに昨日の巫女姫の特殊性はなんだろう。
あんな女は見た事がない。
いや、きっと他にはいないだろう。
傲慢で高飛車な女など好きではない。
だが、あの姫にはそれを甘んじて受け入れたくなる何かがあった。
対等と認めざるをえない何か。
(神の許婚の威厳のようなものか……)
十四と言っていた。
自分より六才も年下の幼い少女なのに。
侮れない何か。
それは腹立たしくもあるのに、どこか甘く心地いい。
「アサンディーミトラ……」
ナーガの言葉に、ギクリと視線を向けた。
「……様という名でしたね。先日の巫女姫は」
「あ、ああ。確かそんな名だったか。それがどうした?」
まるで今初めて思い出したように平静を装って聞き返した。
「本当に断って良かったのですか?」
「あ、当たり前だ。あんな無礼な女!
やっぱり考え直してくれと言ってきても、もう遅いからな」
言いながらも、先日はすみませんと向こうから謝っては来ないかと期待している自分がいる事に気付いていた。
「だが、私の妻になるのが、あの姫の最上の身の振り方だろうからな。
どうしてもと言うなら、人助けのつもりで考え直してやらん事もない」
スシーマは仕方ないという態度で肯いた。
「それは無いと思いますよ」
しかしナーガはあっさりスシーマの淡い期待を打ち消した。
「ど、どうしてだ!」
「スシーマ様が断ったと聞いて、さっそくアショーカ王子が動き出したようです。
あちらはかなり乗り気のようで、早くも大量の贈り物をしたとか……」
アショーカとはマガダの第二王子であり、西宮殿の王妃の息子だった。
長く皇太子争いをしていた、スシーマの最大の政敵でもある。
スシーマは心の動揺を気取られぬように膝に乗せた猿の頭を撫ぜた。
「ア、アショーカにはすでに三人の妻がおるのだろう。
この上もう一人妻を迎えるつもりか!
なんという好色男だ」
「ですが三人とも事情があって妻にしたという噂でございます。
自ら進んで妻にしようとするのは今回が初めてではないでしょうか」
「事情など関係ない。
三人も妻のいる男との婚姻こそ、あのプライドの高い巫女姫が応じるはずがないだろう」
「ええ、応じないでしょう。
ですが、私は別の懸念を抱いているのでございます」
「別の懸念?」
「はい。実はわたくし、あの後シェイハンの聖大師とミスラ神について多少調べてみたのでございます」
「聖大師とミスラ神について?」
「ええ。スシーマ様は自分がミスラの神妻ならば、敵国の妻になるとあれば自死するとおっしゃってましたよね」
「ああ。その通りだ。いまだにのうのうと生きているのは、あわよくば権力ある男の妻になろうなどと計算しているのかと思ったが……」
そうであれば、自分との婚姻ほどいい条件はない。
しかし、先日の姫にはそんな甘さは微塵も無かった。
「ミスラの神は寛容で、他神を信じる事をも許容しておりますが、ただ一つ禁じている事があるのでございます」
「ただ一つ禁じる事? それは何だ?」
「自死することです」
「自死すること?」
スシーマは同じ言葉を繰り返した。
「はい。自ら命を絶つ事だけを禁じております」
「では、あの姫は……」
「ええ。自ら命を絶つ事は出来ません。
ならばどうしようと思っているのか……」
「どうしようとは?」
スシーマは心が騒いだ。
「考えてもみて下さい。
先日のスシーマ様への不遜な態度を、もしビンドゥサーラ王にしていたなら……。
どうなっていたと思いますか?」
「父上ならまず間違いなく手打ちにしているな」
スシーマの額から冷たい汗が一筋流れ落ちた。
「そうです。スシーマ様だからあの程度で済みましたが、あの巫女姫はスシーマ様がどんな人柄かは知らなかったはずです」
「つまり……うまく私を怒らせれば、手打ちにされて死ぬ事が出来ると……」
「考えていたでしょうね。
残念ながら計画は失敗でしたが、少なくとも婚約は破棄できた」
「ではまさかアショーカにも……」
「ええ。同じようにわざと怒らせようとするでしょう」
「そ、それはまずいぞ。
アショーカは私と違って短気な男だ。
チャンダ(暴虐の)アショーカの異名を持つ男だぞ」
「しかも女性に手を出すのも早いですね」
「な! まさか敬虔な巫女姫に不埒なマネを?」
「あの王子ならやりかねません」
「そんな事許さんっっ!!」
スシーマは思わず立ち上がっていた。
膝の子猿が驚いて肩に飛び乗った。
ナーガはその様子をにやにやと見つめた。
「いや……、つまりあいつの行いで、マガダの名が穢されるのは許せんという事だ」
スシーマは慌てて弁解した。
しかしナーガはあえて畳み掛ける。
「どうしますか?
優先順位はこちらにあります。
スシーマ様がやっぱり妻に娶るとおっしゃるなら、アショーカ王子はあの姫に手出しする事は出来ません」
「それは……」
スシーマはうろうろと部屋中を歩き回った。
アショーカ王子に手篭めにされるのはしのびない。
いや、皇太子の自分に無礼を働いた報いだ。
いや、だがそのまま、なし崩し的に弟の妻になるのはむかつく。
あの姫が他の男のものになると思うと、不思議なほどの憤りが込み上げる。
だが……自分にも皇太子としてのプライドがあった。
あれほどはっきり断っておきながら、今更やっぱり妻にするとは言いにくい。
自分があの女に屈したようでカッコ悪い。
さんざん悩んだ挙句、一つの結論を出した。
「て、手紙を書け。私ではなくお前の名前でだ。
謝るなら考え直しても構わないと。
悪いようにはしないから、それが一番得策だとお前がうまく説明しろ」
ナーガはやれやれと苦笑した。
モテ過ぎる王子は、今まで自分からアプローチする事がなかった。
まして振られるなんて考えた事もないだろう。
正直になって自分の気持ちをぶつける勇気がないのだ。
(ここは私が一肌脱ぐしかないか……)
ナーガは「分かりました」と素直に請け負った。
そうしてナーガは、あくまで自分が勝手に巫女姫の身を心配して書いたという体で長文の手紙を書いたが、待てど暮らせど、かの姫から返事が来る事はなかった。
次話タイトルは「あら、わたくしに言わせるの?そんなひどい事を」です