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第10話 望み通り殺してやろう

 川辺では狩りの前の儀式が行われていた。


 本来、弓の具合を確かめるために、貴族達がまとに当てるのを競う余興のようなものだったのが、ビンドゥサーラ王になってからはその的を不可触民ふかしょくみんという最下層の身分の者で代用するようになった。


 腰巻き一つつけただけの貧相にやせ細った男達が柵の前に並べられ、狩りに参加する貴族が順番に弓を射ていく。


「ぎゃああああ!!!」という断末魔の叫びと、的に当てた事を喜ぶ貴族と民衆。



(残酷なことを……)


 バラモンの神々を信心する敬虔けいけんなスシーマには、耐え難い乱行だった。


 スシーマはいつも理由をつけて参加しないようにしている。

 どうしても出ろと言われたら、わざと外している。 

 自分が王になったら、真っ先にやめさせようと思っている儀式の一つだ。


 だが王子の今は従うしかない。

 異をとなえれば失脚する。


 今はどんな理不尽な事も黙って従う姿勢を見せなければ簡単に皇太子の地位など奪われてしまう。

 替えの王子などいくらでもいるのだ。


 自分が王になるまでの辛抱だと、スシーマは父王に逆らったことなどない。

 逆に弟のアショーカ王子は事あるごとに父王に楯突く。

 だから皇太子になれなかったのだ。


 本来なら最愛の西宮の王妃の息子であるアショーカが皇太子になっていたはずだ。

 だが、あの無鉄砲な弟はおそらくこんな儀式を黙って見ていられない。

 きっと一悶着ひともんちゃく起して狩りを台無しにするはずだ。


 いまだに失脚せずに命があるのが不思議なぐらい無謀な弟だった。

 おそらくは西宮の王妃への愛だけが、弟王子の首の皮一枚を繋いでいた。


 理想と描くものは同じかもしれないが、自分はそんな愚かな男にはならない。

 ヒンドゥの未来のために自分は失脚するわけにはいかない。


 だから今は耐えるのだ。


 早くおぞましい時間が過ぎてくれと、スシーマは馬上で静かに待った。


 しかし、ざわざわと騒ぐ民衆に気付き、騒ぎの中心を見やって驚いた。


 なぜそんな事になっているのか分からないが、あの巫女姫が不可触民を守るように両手を広げて立っているではないか。



「なっっ!!」


 わざわざユリを小賢こざかしい言葉で言いくるめてまで、安全な場所に導いたというのに。

 死にたがっているあの姫を、無慈悲な王の前に出したくなかったのに……。


 スシーマの苦労は水の泡になった。


「まずいですよ、スシーマ様。なんて事を……」

 ナーガもスシーマの横で青ざめている。


(ようやく堅物王子に愛していると言わしめた姫だというのに)



「このような残酷な事はやめるのだ!!」


 スシーマとナーガの心配をよそに、巫女姫は馬上の王を睨みつけて言い放った。


(やってしまった……)

 と二人は絶望を浮かべた。


 あろう事か、王に命令口調だ。

 プライド高く、心の狭い王が許すはずがない。


(まちがいなく死罪だ)

 それは誰の目にも確かな結論だった。


「なんと! このワシに意見するか。

 そなた、国でどのように崇められていたか知らぬが、この国ではワシに逆らって生き延びた者はいない。

 そこをどけいっっ!!」


 しかし巫女姫は王を睨みつけたまま動かない。


 あまりに無謀で愚かな行為。


 だが、スシーマは絶望の中で感動もしていた。


 誰もが残酷と思いながらも止められなかった。

 王子の自分ですら父が恐ろしくて言えなかった。

 なのに、あの小さな少女はためらいもなく告げるのだ。


 ヴェールもつけず、月色の髪が広げた両手に流れている。

 その深い深いみどりの瞳は自らの正義を信じて疑わない。


 あまりに美しい光景。


 天から降りた月神のような畏怖をたたえ。

 誰もがひれ伏したくなるような畏敬の輝きを放って。



 スシーマだけではない。

 重臣も民衆も、誰もがその美しさに心を打たれた。


 時が止まったように誰も動けない。



「スシーマ様、姫を助けて下さい。

 このままでは死罪ですよお……」

 隣りのナーガが泣きついた。


「バカを言うな。ここであいだに入ったりしたら私が罰を受ける」

「じゃあ、あの姫を見殺しにするっていうんですか?」


「自業自得だ。あの非力で王に立ち向かおうとするなど正気ではない」


 そうだ。


 どれほどそのおこないが美しくとも、ただのバカだ。

 後先あとさき考えず死にに行くようなことを……。




(死にに行ったのか……)


 スシーマはそれに気付いて、たまらなく悲しくなった。




(死にたいのだ……)

 その現実だけが突きつけられる。


 スシーマのいるこの世界に何の未練も感じてはいない。

 あの姫にとって、自分の存在などとるに足らないものなのだ。

 たとえ皇太子である自分が共に生きてくれと頼んでも、きっとあの姫は見向きもせずに死に向かうだろう。




 それが悲しかった。



「どかぬというなら仕方あるまいな」

 王はまとを巫女姫に替えて弓を構えた。


(ダメだ!)


 もうあの姫を助ける手立てなど何もない。

 ここで自分が止めた所で、共倒ともだおれするしかない。


 愛のために理想の国を創るこころざしまで捨てるのか。



 王の矢は巫女姫の右頬をかすめてそれた。

 ほうっという安堵の声があちこちから洩れた。

 理屈ではなく、誰もがこの美しい命を惜しんでいる。


 だが、王だけは自分のプライドのためにもう一度矢を継いだ。

「今度こそ……」


 安心したのも束の間、何度も何度も矢を放つ。

 そのたび、民衆が息を呑むのが分かった。


(頼む。どうかもうあきらめてくれ……)

 スシーマは祈るように見守る事しか出来ない。


 しかし一向に当たらぬ矢に、巫女姫は微笑んで告げた。


「我が神の怒りに触れたのだ。

 今日を限りにこのしき儀式を止めねば、私の命をにえに王とこの国に呪いをかけようぞ。

 王は地獄の苦しみと共に死に、マガダの国は飢饉と病気で死に絶えるだろう。

 さあ、私を殺すがいい」



(もうダメだ……)


 スシーマは怒りに震える王を横目に見ながら絶望した。

 王にこんな言葉を吐いて助かった者など一人もいない。


 初めて心動かされる女に出会ったというのに……。

 さっきまで浮き立つような思いで、婚約の手はずを考えていたのに……。

 嫌われたまま、自分の想いなど少しも知らず……。




 くのか……。




 ようやく手が届きかけたと思ったのに……。





 すり抜けてってしまう……。




 それで本当にいいのか?


 王になる未来のために、諦めていいのか?


 失脚を恐れ、かけがえのないものを失って、後悔しないのか?


 もう二度と現れないだろう存在を見捨てて、そんな男が理想の国など創れるのか?






(いや!! 否だ!!!)


 スシーマは顔を上げた。

 ここで動かなければ一生後悔する!


「望み通り殺してやろう!」

 王は剣を抜き、すでに巫女姫に向かって馬を走らせていた。


 少女はゆっくり目を閉じ、命を終える覚悟をしている。



 気付いた時には駆け出していた。

 王の馬を追いかけていた。

 そして、ぐんぐん距離を縮める。


 重臣達も民衆も、思いもかけない皇太子の行動に呆然と見守る。


 怒り狂った王だけは、眼前の巫女姫しか見えていない。

 両手を広げ無抵抗の巫女姫に剣を振りかざす。

 そしてそのまま振り下ろした。


 だが、その刃が少女に届く直前で、横から差し出された剣に受け止められる。




 ガッッ!!!




 ガンジスの川辺はしんと静まり返った。




 スシーマが態勢を崩しながらも間一髪、馬から乗り出して剣を受け止めていた。



「なぜ……?」

 驚いたように目を見開く少女が、馬上のスシーマを見上げた。

 その目は、初めてマガダの皇太子ではなく、スシーマという存在を見たように思えた。


「何故邪魔をするスシーマッ!!

 死罪になりたいのかっ!!」


 交えた剣に力が入る。

 王の目には愛息であるはずの自分への殺意が見てとれた。

 自分のプライドのためなら本気で殺すつもりだろう。


 スシーマは軽く王の剣をね退け、馬から跳び降りて王の前にひざまずいた。


「お待ち下さい、父上。

 今この者を殺してしまえば、この者の思うつぼです」


 スシーマは思い浮かぶ限りの知恵を振り絞って進言する。


「なにっ!!」

 まだ王の殺気は消えていない。


「この者に魔力があるという噂は民にも広まっています。

 もし呪いの言葉を吐いたまま殺してしまったなら、民は動揺し、すべての不幸を呪いのせいだと疑うでしょう」


 この暴挙の上で唯一生き残る方法があるとすれば……。


「それにもし本当に呪う力があれば、王はまこと死に迫られるやもしれません」

 スシーマはいかにも王の身を心配するかのように告げた。


 王の額にたらりと冷や汗が垂れた。

 どうやら心に響いたようだ。


「ならばどうするのじゃ」

 王は剣を下ろした。


 スシーマは最後の仕上げとなる言葉をおごそかに告げる。





「この者を私の妻に迎えましょう」


次話タイトルは「死んでくれて良かった」です。

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