短編。
「じゃ、行ってくるね。ノノ、あまりイタズラしちゃだめだよ」
玄関にちょこん、と座る猫に靴を履き終えた虫麻呂は話しかける。
メッシュの長い毛を持つノノ、と呼ばれた猫はその切れ長の瞳を一度、涼しく主人に向かって瞬きする。虫麻呂の表情が一瞬柔らかくなる。
「ちゃぐのこともお願いね。ご飯、きちんと食べろってノノからも言っておいて」
ナー。
「行ってきます」
ノノの「行ってらっしゃい」を聞いて、虫麻呂はドアを開けて出て行った。
「……十数秒後にオートロックがかかるとはいっても、鍵を閉めないというのは儀式としてはどうなのかしら」
主人がいなくなり、それまで猫がいた場所にはメッシュの長い髪の八頭身の一糸まとわぬ姿の女性が立っていた。
ジーというゼンマイ仕掛けの音とともにカチャリ、とドアが閉まる。
「ちゃぐ、先生はお仕事に行ったわよ。いいかげん起きなさい」
ノノはリビングの奥に声をかけて、自分は虫麻呂のバックヤード・ルームに入る。
おびただしいタブロオの中を泳ぐように進み、ノノはひとつのクローゼットの前に立つ。
長く使われていない様子のクローゼットの一番下の引き出しをあけて、ノノは「人間用」の服を取り出す。下着、ストッキング、マニッシュ系のパンツ、しばらく考えてブルーのデニムシャツを取り出した。
着替えをすませ、ノノがリビングに戻るとチャグがソファに腰を沈めていた。上半身は裸で、うつむいた茶色い髪の毛の中に瞳は沈んでいた。そしてちゃぐはノノの見たことがないジーンズを履いていた。
「眠いんだ……」
消えそうな声でちゃぐはつぶやく。
「そうね。わたしもまだ眠いわ」
そう言いながらノノはカーテンを開ける。ベランダに通じる大きな窓から遠慮なく朝の日差しが入ってくる。「目が覚めたかしら」
このタイミングだろうか。さっきから気になってしかたがないことがあるのだ。
「そのジーンズ、どうしたの?」
もののついで、という感じでノノはちゃぐに問いかける。うまくいっただろうか。
「先週ね、ハンズの周りをうろうろしてたら女の人が買ってくれた」
目のまわりを親指と人差し指で押さえながらどうでもいいことのようにちゃぐは答える
ノノのちゃぐを見る目が少し細くなる。
「ふうん……。お外に出たの。いけない子。いたずらはしちゃだめだって先生が言ってたわよ」
「それ、先生がノノさんに言ったんでしょ」
「先週はいたずらしてもよかったのよ。もうしないわ」
そしてノノもちゃぐと向かい合う形でソファに腰かける。
「外出って人間のカッコして?」
「まさか。違うよ、僕、その時、服持ってなかったし、ふだんのカッコ。猫」
ああ、やっぱり。
「それで、猫の姿のあなたにその女の人はジーンズ、買ってくれたのね?」
「あ、そうか」
そこではじめてちゃぐは首をかしげた。「どうして買ってくれたのかな」
紅茶が飲みたい。
ノノはキッチンに向かってティー・カップをふたつ、取り出して、アールグレイの葉で紅茶を淹れる。
ちょっと温めの紅茶が二人とも好きなのでお湯はすこし冷ましてから注ぐ。
「あなたにはわざわざ言わなかったけれど」
紅茶をひと口飲んでノノはちゃぐを見る。ちゃぐにはちょっと悔しそうな表情に見えたかもしれない。
「わたしもその女の人にあったことあるわ。わたしもその人にいろいろ教わったのよ」
この服もそう、とノノは立ち上がってちゃぐの目の前でくる、と一回転して見せる。
「そうなんだ」
「その人、両方の耳に犬のイヤリングしていなかったかしら」
「よく覚えてない。でも赤い、長い髪の毛の女の人だったよ」
「そう……。」
やっぱり。
「ちゃぐ、外に出かけてみて、どうだった?」
「うーん、楽しかったけど、やっぱりここがいいや」
「そう」
無邪気に笑うちゃぐの顔を見てノノはなんとなくほっとしてつぶやく。笑顔になる。
「わたしもそうなの」