勿忘草
「あら、どちら様ですか?」
変わらぬ優しい声音と柔らかな物腰であなたは言った。
とうとうこの日がやって来た。覚悟はしていたがやはり辛いものである。
私にそう言ったのは紛れもなく私の母であった。
今から半年前、医者が宣告した病気、認知症。
物忘れがひどくなった母を病院に連れていった、何となくそんな気がしていた。しかし、ショックだった。
忘れていく、何もかも奪っていく、母から私たちの思い出を。
辛かった、でも最もつらいのはそんな病気を患ってしまった母自身である。
日に日に悪くなっていく物忘れ、幼児後退、見ているのも耐え難く、それよりもう私たち家族だけでは介護をするのは無理になっていた。
泣く泣く私たちは介護施設に母を入れた。
毎日会いに行った。母はぼんやりしているときが多く会話もなかなかできなかったが、つい最近私にこんなことを言った。
「私はこんなに良い娘を持って幸せよ……ありがとうね」
その言葉を聞いて涙が目から止めどなく流れた。そんな私の手を皺だらけの手で母は握りしめてくれた。ああ、何て温かいのだろう。
現実は残酷で夢を見せてくれた後、悪夢を運んで来た。
不思議そうな顔で母は私を見つめている。
何度も練習した笑顔を私は浮かべる、うまく笑えているだろうか。
「あなたの、娘ですよ……」
ごめんなさい、やっぱり泣かないのは無理だった。
母は微笑んで「ああ、そうなの?」と言った。
「お母さん……」
「あらあら、どうして泣いてるの?」
昔のように言う母、だけど私のことは覚えていないだろう。
「ねぇ、お母さん」
こちらを向くこともなく母は窓の外を笑顔で見続けている。それでも私は続ける。
私は持ってきた鉢植えを母の方に向ける。
「勿忘草って花なんだよ、可愛いでしょ?」
鉢植えをそっと母のそばにおきながら話続ける。
「花言葉、知ってる?」
勿忘草の花言葉、それはーー
「私を忘れないで」
どうやら私の願いは病気には勝てなかったらしい。
母の好きな花でもあった勿忘草、今はもう見向きもしないその花に私は毎日祈り続けた。
明日も明後日も母が私のことを覚えていますように。
「今日も良い天気ねぇ」
「そうだね」
温かい日差しが差し込む部屋で母と二人で過ごす時間、私の心は氷のように冷たくなっていった。