今回の京都行き、鞍馬くんは留守番です。 その1
ムム…
ここはどこだろう。見たことのあるオフィス。あ、うちの会社だ。
あれぇー、今日は出社の日だっけー?
あ、誰かいる。あの人に聞いてみよう。
あの…。と、声をかける前にその人がゆっくりと振り返る。
シギ?…
シギだった。もうおわかりでしょうが、以前私が真剣に好きになった人。
一瞬息が詰まるが、そのあと苦しくなるはずだと思った胸は、なぜか痛みもせず、脈も正常。とっても平静だった。その上、「シギ、元気にしてた?」などと、軽く声をかけている自分がいる。
しばらくこちらをみていた彼は、ふっと私が大好きだった笑顔を見せて、背を向けて歩き出す。
「どこ行くの?」
追いかけようとする私の前に誰かが立ちはだかる。
「由利香さん、どうしたんすか?」
「夏樹!?」
そして、夏樹の向こうにいるはずのシギを見失わないよう、肩越しに後ろを見ようとしたら、いきなりグイッと夏樹をどかす人がいて、また声をかけられる。
「どーしたの? ゆーりか」
「冬里!」
あちゃー、冬里をはぐらかすのは骨が折れるなーなどと思っていたら、どういうわけかニッコリ笑った彼はすいっと道を空けてくれる。
「ありがとう」
思わずお礼なんか言っちゃって横を通り過ぎ、前を歩く背中に声をかけようと息を吸い込んだところで、その人が、もう一度ゆっくりとこちらを振り返った。
確かにシギの背中だった。
けれど振り向いてこちらを見つめ、穏やかに笑うその顔は、
「鞍馬くん…?」
いつも見慣れたその人だった。
はっと目が覚める。
あ…、夢だったんだ。でも、変な夢。今頃になってなんでシギを思い出したのかしら?
樫村さんにもらった、研修時代の同期の名刺のせいかな。
私は布団の中で、ウーンと伸びをして身体を目覚めさせる。と、天井が目に入る。えーと、この天井は自分の部屋じゃないなー。ということは、えへへっ、また鞍馬くんの部屋で寝落ちしちゃったんだ。いま何時だろう。
ふと、ベッドのサイドボードにあるデジタル目覚まし時計を見やる。
8時…。ああ、8時か。木曜日の…。もくようび?
「ええっ?!」
私はボウンッと音がするような勢いで飛び起き、ダダッとリビングへと向かう。
「鞍馬くん! なんで起こしてくれなかったの?」
「ああ、由利香さん。おはようございます。よくお休みでしたね」
「よくお休みって、今日は木曜日よー! 木曜日は会社がある日だって知ってるじゃないー。遅刻よ遅刻!」
キーキー言う私に、ソファで優雅に新聞を読んでいた樫村さんがぽつりと答える。
「…俺の目がおかしくなければ、たしか今日は土曜日のはずだがなー。ほれ」
と、新聞を渡してくれる。慌ててそれを受け取り日付の欄を見やると、ホントだ、土曜日になってる。
「あれ? えー? じゃあ鞍馬くんの目覚まし時計壊れてるわよ、木曜日になってたもの」
「?」
鞍馬くんが怪訝な顔をして私を見るので、珍しく、というか初めて鞍馬くんを怒鳴ってしまった手前、確認してこようともう一度サイドボードの時計を覗きに行くと。
鞍馬くんの部屋に目覚まし時計はなかった…。
「はははっ、じゃあ由利香さんってば、夢の中でまた夢を見てたんすかー、変なの」
「夏樹ー」
「へいへーい、すみません」
かるーく謝りながらキッチンに引っ込んだ夏樹が、しばらくすると、パン皿と、彩りよく盛りつけられたベーコンエッグのお皿。それにスープカップまで器用に持って現れる。そして、ダイニングテーブルにそれらを置いて私を呼んだ。
「由利香さん、朝飯置いときますよ」
「あら、ありがとう」
「どういたしまして。ちゃっちゃと食べてもらわないと片付かないんすよね~」
夏樹ってば、最近なんだか皮肉っぽいのよね、反抗期かしら?
ああ、そういえば夏樹の反抗期って、綸ちゃんが来てからよね。久しぶりの同性だったんで、ちょっと嬉しくなって綸ちゃんのこと独占しちゃったから、やきもち焼いたのかしら。うんうん、なかなか可愛いところがあるじゃない。
そんなことを考えて、思わずふふっと微笑みながらスープを口に運んでいると、夏樹がいぶかしげに聞いて来た。
「由利香さん、怒らないんすね。それどころか笑ってるし」
「うんー。かわいげのある夏樹の反抗期が嬉しくてぇ」
「なんなんすか、それは」
「まあ、いいじゃない。それより朝ごはん食べさせてよ。あんたたちはもう食べたの?」
「とっくに終わりました」
あいかわらず冷たく言い放つ夏樹を横目で見ながら、私は今後の予定を確かめるべく、樫村さんに話しかける。
「樫村さんはこのあと、冬里に会いに京都へ行くんでしたよね?」
「ああ、せっかくだからな」
今度はいつ日本に来られるかわからないので、樫村さんは冬里にも会っていくつもりのようだ。
冬里とはこの間会ったばっかりだけど、樫村さんと京都旅行なんてチャンスはもうないかもしれない。あ、私は、か。夏樹たちはあと500年以上あるから、いくらでも行けるじゃない?
だったら、と、ちょっとずるいと思ったけど、言ってみた。
「じゃあ、会社に言ったら休みもらえそうだったから、私も行こうかな」
「あ? ああ、会社が休めるならいいぜ」
すると案の定、夏樹が「ええっ?!」と叫んだあと、小声で「ずるいっすよー由利香さんだけー。本当は俺だって。けど、やっぱまずいし。でもー」とかブツブツ言い出した。
その様子を、困った顔で笑いながら見ていた鞍馬くんだったが、
「夏樹も行ってくればいいよ。店は私ひとりで大丈夫だから」
と、魅力いっぱいの提案をした。
夏樹はまたもや「ええっ?!」と叫んで、「だめっすよ、そんないくらなんでも店をシュウさんひとりに」とか言っている。
「夏樹も知っているだろうけど、最初は私ひとりだったんだよ。大丈夫、しばらくランチの数を減らせば充分まわしていけるから」
「シュウさん…」
夏樹は目をウルウルさせている。あれ?でもそれなら、そんなに無理せず、また前みたいに店を休めばいいんじゃないかしら。
「ねえ、だったらいっそのことお店を休んで皆で行けばいいんじゃない?」
と、言ってみたのだが、そこは真面目な鞍馬くんがOKしてくれなかった。
「駄目です。そんなたびたび店を休むのは」
「あ、やっぱりね」
ペロッと舌を出して言うと、鞍馬くんはまた少し苦笑した。そして、
「そういう訳ですので、ハル、大変でしょうが2人…、いえ、冬里もですから3人、ですね…。の引率をよろしくお願いします」
鞍馬くんは丁寧にお辞儀をする。
それを見ていた夏樹もあわてて頭を下げ、
「ほら、由利香さんもちゃんとお願いしなきゃ」
などと言って手をヒラヒラさせる。
私は、なにを今さら、と思ったけど、鞍馬くんのために(ここ重要!けっして夏樹に言われたからではないのよ)、樫村さんに向き直って、きちんと頭を下げたのだった。