世界のカタチ
水の跳ねる音がした。風の降り注ぐ音がした。そんなわけない。気のせいだ。
薄水色に透き通る町で、私が小さくため息をつくと、その息は小さな気泡となって、天に昇っていった。高い高い天の上。見上げても青い色しか見当たらない。たまに飛行機が通り過ぎる影が横切ったり、何かの欠片や物が流れる影が天をよぎるけれど。
音がした、と感じたのにそれを自分で否定した理由はそのままここが水の中にあるから。水の中で、空気中で感じていたような水の跳ね音や、風の音は聞こえない。水はもっと、くぐもった鈍い音を、ごふんごふんと重苦しくたてるし、風の音はどうやって聞け、というのだか。
もっとも、んな水の中で息してる自分はなんなんだって話ではありますけれども。
髪は水のうねりに合わせてことすると広がって周囲に広がりがちだし、衣服も同じく揺らめいて、体にまとわりついて、やりづらい。でも、目は見えるし息も出来るし、鼻からも耳からも口からも、水が入っても痛くない。水が入ってきていないのかもしれない。
水の中は普通に陸上の頃と同じ町が広がっている。
パンだって、普通ならふやけてべちゃべちゃになってしまいそうなものなのに、っていうか、それ以前に粉が散って作れないはずなのに、きちんと店頭に並んでいる。今、私がこうして購入して手に持っているように。
加工食物だけではなく、野菜だって育つし、家畜だって何事もなかったように草を食んでる。
私はこうして歩くのに多少の水の抵抗を感じているけれど、それもまったく感じない人だっているんだと思う。別に良いけど。私の口から呼吸する度に天に昇るこの気泡も、動く度に揺らぐ衣服も、広がる髪も、どれだけの人に見えているのだろうか?
町に水が入り込んできたのは10年ほど前。それは町の人の殆どが気づかない間に、ゆっくり少しずつどこからか入り込み、当時まだ小さかった私は「それ」が異常なことだとは気づけなかった。そういうことも、雨が降ったり風が吹いたり、私が呼吸をすると言うことと同様、日常的に起こりうる事柄なのだと理解していた。はじめ、足元に小さな水溜りを作るだけだったそれは1年かけて、足をひたすようになり、膝に届き、肩まで届いて、しまいには当時幼稚園児だった私の身長を追い抜いていった。
水に見えるそれなのに、濡れても母親は雨に濡れたときのように慌てたりしないし、体の水をふき取ったりしない。おまけにプールに行ったときのように呼吸できないわけでもないと、気づくと同時に、その水の存在について、親や周囲に訴えるのをやめた。それまでしばしばそれを主張して、母親や教師を困惑させていた。変な子。よくそう言われた。
ようは、見えるか見えないかの違いなのだと、今の私は悟っているけど。
思春期くらいになって、いよいよ私はこの「水」が私にしか見えていないのだと気づいた。気づいたときはもう、水面ははるかかなた上のほうにあった。陸上にいるときと違って、動きも多少にぶくなったし、声も聞こえ辛くなった。常に世界は青くなって、水上が曇りや雨の日には、陸上にいた頃よりももっと薄暗く、陰鬱な風景になった。その頃私はてっきり自分の精神になんらかの異常を来たしたのかと本当に悩んで、片っ端から心理学やら精神医学系の本やサイトを読み漁った。私の見えている世界は私の脳が作り上げた嘘の世界で。私は幻覚を見、耳は難聴となり、動きが遅くなったのも、なんらかの体調不良ならびに神経の不調が原因なのかと。そういう悩みを抱えて、怖くて怖くて世界が信じられなくて眠れない日も少なくなかった。
そこから私を救い上げたのはコンピューターの箱。インターネットで私はある日、この「水」が見えているのが私だけではないと知った。その「他の人」の存在にさえ疑問を持った私に、彼らは実際私に会いに来て、自分達が両親や周囲の人間に見える事を証明してくれた。彼らも「水」が見える他者も存在し、私の精神が病んでいるのではないと証明してくれた。ではなぜ、みんなに「水」に気づかないの? たとえ見えていないにしても、私は水中にいるように体の動きが鈍いし、気泡も出るし、髪も広がる。声だって聞こえ辛い。そういう不調は他の人にはないの?
そう問いかけた私に、彼らの一人が言った。あくまでも仮説でしかないけれど。
水が見えるか見えないかの違いなんだ。
彼らの主観では、確実に「水」は存在している。それは彼らには水が見えているから、存在していると感じる。だから僕らの体はその視覚のシグナルにしたがって、水の中にいるという感覚に作り変えられる。でも、彼らにとっては水は存在しないから、気泡だって必要ない。その他諸々、水の中にいる生活に順応させる必要はない。
じゃあ、どちらが正しいの?
私の問いに、彼は笑った。
どっちかが正しいだなんて、どうして思うの? 僕が見えてないだけで、もしかしたら誰かの目には炎に包まれているのかもしれないのに。空に住んでるかもしれないのに。マグマが噴き出しているかもしれないのに。なんにもないのかもしれないのに。僕らに他人とこういう齟齬が起こっている以上、誰かにもそれが起こっていると考えるのが妥当だし、それら全てが矛盾なしに成立する正しい世界だなんて、僕らが完全に知覚できるとは思えない。だから、君が知覚する世界が君にとって一番正しい世界ということでいいんだと思うよ。人は自分の感覚でしか、世界を感じ取れないのだから。
ある日、どこからともなく低く響くような音が聞こえてきた。ごごごごご、と町全体を震わすような音をたてて、それは訪れて。耳をつんざくようなその音と共に、水が渦を巻いて、周囲の色々なモノを巻き込んで巻き上げて、濁流となって、渦巻いて、私はたまたま遠出した帰りで、それを渦の外から見ていて。
そして、水は、どこかへ流れ去ってしまった。町の全てを巻き込んで。小さな水溜りをいくつか残しただけで。
水溜りと土だけの元町だった場所を、私は呆然と見つめる。
これが、今日から新しい、私の世界。こんな殺伐とした世界に、私は耐えられるのだろうか?
でも、わからない。私に見えていないだけで、実際は、まだ家族も友人もそこに存在して、いつもと同じように生活をしているのかもしれない。私が知覚していないだけで、ここにはきっと……。
私は、自分の知覚する自分の世界を捨ててでも、それを願う。