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――――で、だ。
「あのさ」
「……なに」
形のよい眉は常にキツめの斜角を維持している気がする。不機嫌、それ以外の表情を見た記憶がないような気も。
「なぁんで、今日もまた居るわけ?」
「悪いの?」
返しは鋭いが、それはちょっと詭弁だと和成は思った。
「『悪いの?』って、それヒトのことストーカーなんて言った口で言っちゃうの?」
「だからッ! ……ちゃんと悪いかって訊いてるでしょ!!」
そこでそう噛み付くか。今どき、野良犬だってもう少し分別があるだろうに。
「いやいや。悪いとかなんとかっていうことよりも、ですよ? 俺的にはこういう場合、俺のこと避けたり、俺から逃げたりすんのがアナタみたいな立場の人がとるべき正常な対処じゃね? とか思うわけですよ。だって、俺、ストーカーなわけだし」
と、説いてみたり。
結構いい感じに的確な指摘なだと思うが、表情から窺うにイマイチ届いた感触はない。
「別に、私が何時どこで何をどうしようと私の勝手」
やっぱりですか、と和成は内心で肩を落とす。この人をやんわりと納得させる言葉は自分の中にないのだと諦め、直球で投げ返す。
「あっそ。でも、わかってると思いますけれど、今、あなたのやってるそれを世間樣は『付きまとい』って言うんですよぉ。……て、知ってます?」
「違う」
間髪入れず固い否定の声。しかし、ここは和成も主張を崩すつもりはない。
「違いません」
「違うわ」
女が鼻で笑った。ふんっ、とその人を見下したような軽い音がカンに触った。
「違わないでしょう? だってアナタ、メチャメチャ俺に付きまとってるじゃん」
「付きまとってない」
「いいえ、付きまとってます」
「ません」
「ます」
「ません」
無限ループのやりとりにますますイラっときて、和成の語調は荒くなる。
「ま・すッ!」
女は上目遣いの不快な顔をした。
「あなたって、見た目通りしつこいのね。別に私は付きまとってるわけじゃないって言ってるでしょう」
見た目通りって……と憤る気持ちは火がつく前に呆れて通り越した。肩でひとつ大きくため息をつく。
「あのね。じゃあ、この状況はナニ? なんなの? 昨日も。一昨日も。アナタ流の嫌がらせですか? ていうか、正直ちょーウザいんですけど」
並んでみるとちょっとだけ見下ろす角度にある女の顔をキッと睨めつけると、向こうも形良いおとがいをわずかに上向け、剣のある目線で睨み返してくる。村田の提案で互いに自分の主張を裏付ける証拠を提示することになったとはいえ、自白の強要や証拠の捏造も有りなどという荒唐無稽なお題目を、まさか法を順守する立場の人間が本気で言っているとでも思っているのだろうか。だとしたら、馬鹿正直もいいところだ。
あのストーカー疑惑が三日前。それから毎日この女は大船駅に居る。というより、多分わざわざ数本早く前乗りして、和成が来るのをホームのどこかで待ち構えているのだろう。電車を待つ列に並んでいると、いつの間にか彼女もすぐそばに居て監視体制をとっているのだ。証拠の一つもあげようという腹だろうが、いかんせん素人が探偵の真似事みたいにするとただのあら探しでしかない。行動のひとつひとつ、視線の向ける先、いちいち追いかけられるのは癇に障ることこの上ない。
「言っとくけど、普通に考えて捏造した証拠が証拠になるわけないでしょ? アンタ、村さんの言ったこと真に受けすぎ」
「捏造なんてしない。こうやって監視してればきっとボロを出す」
「出さねーって。つーか、やってもないもの出せっこないし」
「でも、そんなこと言いながらちゃっかりヒトの胸は覗くのね。全然本性は隠せてないみたい」
わずかに体をよじって大人しめの色のチュニックの下の大人しくない膨らみを隠す素振りをする。むぐッ、と喉奥から妙な音が出てしまい、女が「それ見たことか」としたり顔をするのが悔しい。
「そ、そりゃ、確かに……でも、そういうのは男の生理現象っていうか、本能の反射とでもいうか……それ自体はむしろ生物として望ましい反応というか、……」
試みた反論はしどろもどろで、自分でも何を言っているのかわからない。そんなに見られたくないんならもうちょっと胸元隠す服でも着てこいよと内心愚痴るが、意識すればするだけ自然と目線もそちらに引き寄せられてしまうのが忌々しい。おまけにそのちょっとしたしぐさを目敏く見付けられてしまうから痛い。
冷たい視線にたじろいだところへ遅れていた電車がタイミングよく滑り込んできたので、和成は扉の開くのももどかしく車内へと逃げ込んだ。
信号機故障の影響でダイヤが乱れていたせいか、車内はいつもよりも混んでいた。そこへあとからあとから乗り込んでくる人、ヒト。その人波の圧力に押されて思いがけず接近した彼女との距離は、最後に無理矢理乗り込んできたサラリーマン一人分のおかげでまつ毛の一本一本がはっきり見てとれるくらいに近くなる。
胸のあたりにかすかに吐息が触れ、その内の臓器がドクンと大きく一回高鳴る。動揺で扉の閉まる気配には気づかず、不意にきた発車の振動でバランスをくずしよろめいてしまった。とっさにつり革をつかもうと伸ばした手が、本当にたまたま偶然、不順な動機は一欠片もなく、でも女の腕にわずかに触れてしまったのだ。
「…………!」
反応は早かった。
女は感電したみたいに素早く腕を引っこめた。大きく見開かれた目が事態を認識するにつれて驚きから困惑の色、そして憤怒へ変わるのが見えた。
和成は慌てて首を横に振った。
「誤解っ! ジコ! 今のは、完ッ全に、偶然っ。悪気はナシ!」
ひと通りの弁解を試みてみるが効果はない。今に思ったことではないが、頼むから少しはヒトの話に耳を傾けることを学べと言いたい。十人が十人「あっ、すいません」「いえ、大丈夫です」のやりとりで流す通勤の一コマが、なんでカオスになり得る?
「つーか、なに微妙に意識してんの。そんなつもりねーから安心しろよ」と聞く耳を持たない相手に皮肉った安全保証、のつもりがそういう時だけ耳が聡い。ぴくっと大きく肩を揺らして、それまでもキツかった目が尋常じゃない角度でつり上がった。
瞬間、直感した体が一も二も無く動いていた。
「ストォぉぉップ!!」
女にだけ聞こえる声で低く低く怒鳴る。ほぼ満員の車内、何を口走ろうとしてくれたのかは想像するまでもなく、和成はその口を素早く手で押さえつけた。それでも何事か叫ぼうとする根性はすごいと思う。
「しぃぃ――――っ。しぃィ――――ぃぃ、い!?」
と、空いてる左の人差し指を立てて黙らせようとしたところに、脊髄を下から上に突っ走る電気で思わず声が上ずった。刺激は頭のてっぺんまで駆け抜けてから、ぐるり一周まわって右手の中指一点に集約すると熱へと変わる。
「っっってぇぇッ!!」
声が勝手に悲鳴になっていた。咄嗟に振り払ったのは本能というか筋肉的な反応だ。
「お前っ、マジでありえねー」
見ると中指の腹辺りにしっかりと歯型がついていた。見てから後悔、見る前よりも痛みが増した。
「真剣に噛みやがったなっ。前世は犬か? 犬だろ?」
「うるさい、変態野郎、ストーカーっ」
「あのねー、こういう場所でマジに誤解を招くようなこと言うの、止めてくれる? 全然、笑えないから。ほら、ほら、なんか急に視線が痛いですよぉ。疑惑の目であっちこっちから見られてチクチクしますよぉ」
「誤解じゃない。本当のこと。付け回して、隠し撮りもして。全部、自業自得でしょ」
隣りのOLさんの視線が本気で冷たく刺さる。これってもう、名誉毀損で訴えられるんじゃないの? なんか無性に腹が立った。謝らせようとまでは思わないが、少しは明日も同じ電車に乗るこっちの身にもなれというもんだ。が、女は無関心とばかりに少しも悪びれる様子はない。
カッチーンと、きた。きました。これって、仕返しを考えるのは当然の権利というものだろう?
「変態とかストーカーとか、ヒトのことは好き勝手言ってくれちゃうくせに、あんた、自分のことはちょー棚上げじゃん。さもこっちだけイカガワシイ奴みたいに言っちゃうその神経、ちょっとスゴくね?」
「は? どういう意味よ?」
今度は言葉で噛み付いてくる。
「どういう意味って、今ここでそれ、言っちゃっていいの? あんたみたいなのが、男だったら誰でも構わず食っちゃうような痴女中の痴女だなんて聞いたら、多分周りの奴らほっとかないぜ」
噛まれた場所を彼女にだけ見えるように手のひらをチラつかせて、ほんの一瞬だけ『んべっ』と舌を出す。
「な、にゃ、ちょ、っ!?」
報復成功。怒って赤くなった顔は何度も見た気がするが、動揺しまくって赤くなるのはこれが初めて。やられっぱなしだっただけに、ちょー気持ちいい!
「お、覚えてなさいよっ!」
藤沢駅に到着するなり、女は一目散に電車を降り、人並みをかき分けるようにして階段を駆け上がって逃げた。まるで昭和のアニメのやられキャラみたいなセリフがますますいい気味で、和成は人目をはばからず腹を抱えて笑った。
それって次回も敗北フラグなんですけど。
ストーカー扱いのOLさんの視線はもうさして気にならなくなっていた。




