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陽花  作者: ワイニスト
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 空は抜けるような青空だ。

「あっ、……ふぅ……」

 なんて中途半端にあくびを噛み殺しながら窓の外を望む。つい30分前に起き抜けの目には清々しいはずの朝の日差しもただ痛い。

 JR大船駅から藤沢駅に向かう東海道本線の車窓。住宅地、マンション群、薬品会社の工場と続いて突然ポッと現れるほぼ全景の富士山を横目にぼんやりと眺める。それは能見和成にとって朝の日課、というよりはジンクスみたいなものだ。進行方向右側の窓から、天気が良く空気が澄んだ日には意外と簡単に見ることができる霊峰。それだけに見逃した日はちょっと損した気分になったりもする。

 車内アナウンスが藤沢駅に近づいたことを知らせると電車は緩い右カーブに差し掛かり、車窓の風景も住宅地へと移り変わっていく。家々の影に飲まれていく富士山を見送ってから、和成は立ち位置を少し車内中程に移した。次の駅で立っていた側の扉が出口になるからだ。

 なんの気なしに車内を横舐めに眺めると、視界の端がなにかを引っ掛けたので目を眇める。

 斜め向かいのシートに座る、ちょっといい感じのおみ脚様がまさに左と右とを組み替えたところだ。下ろした右足の上に左の足を重ねる、たったそれだけの単純な動きなのにこれがやたらと艶かしい。ゴクリと響いた音が自分の唾液を飲み込む音だと気付くのに数秒、見るからにつややかな肌の質感に無意識で吸い寄せられていたのは、多分たっぷり十秒は下らない。

 せっかくならばお顔ほうのも拝みたいと思ってしまうのは男の性で、せめてあけすけにならないようさり気なく横目で伺うと、向こうもそんなヨコシマな気配を察したのかスッと目線が上向いた。

 バッチリと目が合ってしまってはいまさら逸らすのも不自然で、ここはどうにか笑顔で乗り切れないかと思ったがそういうわけにはいかないらしい。形の良い眉が射角45度くらいに歪んで、いっそ気持ちのいいくらいに険悪な表情と剣呑な目をされると、頭の中にとっさに用意した程度の言い訳やら自己弁護では自分の正当性を主張しきれない。

 しかもこんなときに限って相手は和成好みのかわいい系美人さんである。年は和成よりは少し上だろうか。せっかく神様がくれた出会いは、けれど実るどころか始まる前に散った。こういうのを釣り逃した魚とは言わないだろうが、小市民和成にとって大物は出会いそのものからして少ないわけで、せめてなんとか誤解? くらいは解きたいところだが、如何せん恋愛経験値低めの男子ごときに優良物件を前にサラッと気の利いたセリフが浮かぶわけもなく、結局尻込みである。

 が、そんな気後れ気味の和成相手にいい女のほうは容赦がない。

 藤沢駅で席を立った彼女は、すれ違いざまにキッと刺すような眼光で和成へとどめの一瞥を見舞ってから電車を降りていった。

 階段のほうへと遠ざかっていく背中を目が呆然と追いかける。

 おいおい、10人いたら10人振り返るような美人は嘘でも10人全員に笑顔で応えるのが礼儀じゃねーの、と心中密かに抗議してみるがそれで萎れた気持ちが復活するはずもない。いい女がみんな性格が悪いとはいわないが、性格の悪いいい女は男にとって天敵だ。多分男はみんないい女にだけは嫌われたくないと心のどこかで思っている。好きになってくれとまでは言わんがせめて無関心でいろ。嫌いにはなるな。心が死ぬから。

 音を立てて閉まった扉にもたれるように肩を預け、脱力する。

 今日は朝からツイてない。

「なんだよ、富士山。ご利益、全然ねーじゃん……」

 窓の外に向けて呟いた。完全に八つ当たりであるが、3776メートルもあれば受け流すくらいの寛大さはあるはずだ。

 ていうか、あの女は心狭すぎ。

 そう割り切ってスッパリ忘れることにしたが、翌日からなんとなく乗車位置を変えてしまうあたりスパっとしてない。

 心の傷は結構深かった。


 能見和成は今年二十歳になる大学一年生だ。

 身長は平均身長ぴったり、体重はやや低め。成績はもうちょっと低めで、そのおかげで去年は辛く厳しい修行の一年を過ごすことになった。取り立てて優れた部分があるわけでもなく、履歴書に書けるような資格は原付免許のみ。脚はちょっと速いほうではあるが、それだって誰かと争ってどうこうなるほどのものでもない。

 通っている大学ではコンピュータデザイン関係の学科を選択しているが、だからといって将来設計がはっきりしているわけでもない。学校を選んだ理由からして偏差値の都合と「文系よりは理系の方が就職で有利」くらいのものなのだ。周りも多くは似たりよったり。まだ一年生なわけだし、そのへんは慌てる必要もない。

 普通で、しかも熱量低めな和成だけに交友関係が広いわけもなく、また積極的に拡大する意思もないので、つるむ相手は今でも高校時代の同級生が多い。これは地元の学校に通う人間の特権である。工学系の大学だけに圧倒的に性別上の偏りはあるし、合コンの勝率は防御率と間違いたくなるくらい0.なんちゃら%(それでも決してゼロではないと主張する)。ちょっと気心しれた女友達なら高校からの子が何人もいるし、そういう子達の何人かは実は気になる子でもある。あえて新規開拓の必要性を感じてはいなかった、のだが――

「奈津、来れないって。カレシとでデートだってさ。ちぇー」

 場所は湘南モール一階のカフェである。高校時代の腐れ縁、帰宅部同志の山下享が携帯をテーブルに放った。

「これで女子、全滅じゃん。うわ、マジありえね」

「マージーかーっ、キッツぅー」

 二人してテーブルの上に突っ伏した。

「どいつもこいつもみーんなオトコって、女共め、急にサカりが付きやがってムカつくぜー……でもどうするよ、これ?」

 高校を卒業して一年以上も経てばそれぞれが新しい環境に新しい関係を作るのは当然で、いつかはこういう時が来るだろうとは思っていたが、それが今日だったわけで。

「どうするったってさ、お前、どうするよ?」

「オンナの子、ゼロじゃ全然楽しくないじゃん。むしろ拷問? 修行? ちょー、無理なんですけど」

 享が頭の上でヒラヒラと手を振った。

「ていうか、今の絵ヅラがすでに無理。男二人、inカフェってさ。むさッ! キモッ!」

 和成も露骨にげんなりの顔をする。

「おー、悪ぃ。遅れた」

 そこへ同じく高校のクラスメイトだった堂珍保仁が現れた。

「お前は来んな!」

「オトコ密度が増す。空気が濁る。消えろ!」

 すかさず和成と享が追い払おうとするが、常にクール&無関心が心情の保仁はあまり動じない。

「なん? そこまで言う?」

 薄笑いで当たり前のように同席する。

「うわぁ、これで男子率100%じゃん」

「アホか、元々100%だっつーの」

 和成がツッコむと、「100%がさらに濃くなったー」と享はわけのわからない論理を展開する。

「ん? もしかして、女子・ズはボイコット?」

 保仁がワンテンポ遅れて状況を認識したらしい。それに和成と享は目一杯のローテンションを顔に書いて答えた。

「えー。俺、帰ろうかなー」

「早ッ! おま、早ッ!!」

 保仁の決断も速かったが、享のツッコミも高速だ。つるんでる期間が長いとこんなところで無駄に息が合う。

「つーか、さ。本気でどうするよ、これ。まさがオトコ三人つるんで映画とかカラオケとか、なくない?」

「意味不明。そんな3P、願い下げ」

 享が辟易の顔で首を横に振る。

「帰る?」

 そして保仁のほうはあくまでドライだ。正直、和成もそっちにはノってもいい気がする。

「思い切ってさ……ここは現地調達、いっとく?」

 享の提案にはちょっと心が怯んだ。防御率0.なんちゃら%の腕前には自分が期待していないし、それにチラッと周りを見渡すと、女といえばオバちゃん、オバちゃん、主婦、カップル。まともなフリー物件は見当たらねーぞと目顔で訴えると、遅まきながら享も気づいたらしく顔が苦った。

「ですよねー」

 自嘲の笑みも力なく、うな垂れる。

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