なあ、起きてくれよ
No.8 「なあ、起きてくれよ」
彼は電車の中から窓の外を見つめていた。彼の隣にいる希は彼の肩に頭を預けて、深い眠りに落ちていた。電車は暗いトンネルの中を音もなく走り続け、その車内には二人の他に人の姿は見当たらなかった。彼は黒い窓に映る自分とそして彼女の姿を見つめた。
――どうして、僕たちはこんな寂しい所にいるんだろう?
その時、彼女の手から何かが滑り落ち、乾いた音をたてて床に転がり落ちた。それは、どこかで見たことのあるナイフだった。ふと、彼は胸騒ぎがして、隣で眠っている彼女を見た。
――この子は……誰だ?
彼は彼女の顔を睨みつけながら、ナイフで切り刻まれたような記憶の断片をかき集めた。しかし、何も、答えは出てこなかった。見ず知らずの他人のようにも見える彼女の顔を眺めていると、なぜか、胸を絞めつけるような不安とともに手の平に冷たい汗が滲み出た。
――とにかく、彼女を起こそう。
彼は彼に寄り添うように眠っている彼女の肩に手を置いた。
「……起きろ」
彼は彼女の細い両肩を掴んで、揺さぶった。
「なあ、起きてくれよ! 早く、ここから出よう!」
彼は彼女の肩を揺さぶりながら何度も呼びかけたが、彼女は目を覚まさなかった。彼が腕に力をこめて揺さぶると、彼女はまるで壊れた人形みたいにその動きに合わせて揺れ動いた。彼女の腕は力なく垂れ下がり、その手首からは赤い血が流れ出して、床に滴り落ちていた。その光景に、彼は息を呑み、彼女の肩から手を離した。彼女の体は支えを失ってゆっくりと傾き、血だまりのできた床に崩れ落ちた。彼は血に染まった彼女と自分の手の平を見つめた。血まみれの手で冷たい手すりに掴まり、ようやく立ちあがると、後ろのドアを振り返った。電車はいつの間にか止まっていて、ドアは暗いプラットホームへ開かれていた。彼はうつ伏せに倒れている彼女の姿を確かめながら、そのドアに向かって後ずさりした。
電車から降りるとドアは閉まり、深い穴を覗かせたトンネルの向こうへと走り去っていった。彼は静まりかえった地下鉄のプラットホームに立ちつくしていた。呼吸が乱れ、目眩が襲い、その場に屈みこんで、うずくまっていた。その時、彼のすぐ側に人の気配を感じ、ホームの上に這いつくばったまま顔を上げた。そこにはもう一人の『彼』の姿があった。『彼』は片手に血のこびりついたナイフを握りしめ、表情のない虚ろな瞳を彼に向けていた。そして、『彼』はゆっくりと腕を上げて、反対側のホームを指さした。その指の先には希がいた。彼女はホームの先端に立って、線路の上 を見つめていた。やがて、電車がトンネルの向こうから近づいてくる音がした。
その地鳴りのような音はしだいに大きくなっていったが、彼女は身動きもしなかった。彼の胸が張り裂けそうなほど高鳴り彼女から目を反らそうとしたが、金縛りにあったように体が全く動かなかった。耳が破れそうなほどの轟音がすぐそこまで迫ってきた。その時、彼女は顔を上げた。そして、何のためらいも見せずにホームから飛び降りると、目の眩む閃光が宙を舞う彼女を消し去った。
航はベッドの中で目を覚ました。彼の着ている服は体から湧きだす冷や汗で濡れていた。息を何度も吸っても、胸の苦しさが治まらず、ベッドの上にうずくまったまま起き上がれずにいた。ひどい頭痛と……吐き気。重く、冷たい体を何とか持ち上げて、洋服、雑誌、そして、ワインの空き瓶が転がっている床をおぼつかない足取りで踏み分けて、部屋から出た。そのまま階段を下りて、トイレに入ると、便器の上に屈みこんで、顔を突っ込んだ。しばらくして、胃の中にある物を全て吐き切ると、痛みが和らがない頭を手で押さえながら洗面所に行き、酸っぱい味のする口の中を水ですすいだ。鏡の中の彼は病人のように頬が痩せこけ、落ちくぼんだ目が彼を見つめ返していた。汗や垢で嫌な臭いのする服を脱ぎ捨てると、バスルームに入った。シャワーから溢れ出すお湯は彼の冷えきった体を温め、彼に久しぶりの安らぎを与えた。そして、頭からシャワーを浴びながら、マスターベーションをした。彼は目を閉じて、彼女を想っていた。彼の膝元に屈んでいる彼女は硬くなったペニスを包み込むように手で撫でると、顔を寄せ、唇を当てた。彼女の胸の上で十字架のネックレスが揺れた。ふと、彼と目が合うと、彼女は絵画に描かれた聖女のように優しく微笑んだ。