どうしてわからないんですか
No.7 「どうしてわからないんですか」
航は地下鉄のプラットホームに立っていた。
彼の前には彼と同じように就職活動のためのスーツを着た女の子が立っていた。その女の子のよく整えられた長い黒髪と細い背中は希の後ろ姿によく似ていた。最近は就職活動が忙しくて、あまり彼女と連絡を取り合っていなかった。彼はバッグから携帯電話を取り出し、彼女のアドレス帳を開いた。そして、発信ボタンを押して電話を耳にあてた。電話の呼び出し音が鳴った。今、彼女は何をしているのだろうか? 彼女も自宅と学校と会社の間を慌ただしく行き来しているのだろうか? しかし、呼び出し音が7、8回ほど鳴っても、彼女は電話に出なかった。彼は電話を耳から離そうとした。その時、呼び出し音は鳴り止んだ。
「はい」
彼は久しぶりに彼女の声を聴いたからか少しだけ緊張していた。
「あ、もしもし、俺だけど、今、何してる?」
――あれ、返事がない?
「もしもし、希、聴こえてる?」
「……あの、どちら様でしょうか?」
――どちら様?
「あれ、すいません。えっと、希さん……ではないんですか?」
――また、返事がない。何なんだよ、まったく。
「あの、多分、こちらのかけ間違いだと思います。すいません……」
「私は希の母です」
「えっ、お母さんですか?」
「はい」
――何で母親が希の電話に出てるんだ?
「そうでしたか。あの、すいませんけど、希さんに代わっていただけますか?」
「そちらは、どなた様ですか?」
――何で、そんなこと聞くんだよ?
「えっと、僕は希さんの……友達です」
「そうですか、希の……」
「あの、希さんはそちらにいらっしゃるんでしょうか?」
「希は……」
――おい、早くしてくれよ。電車が来ちゃうじゃないか。
「希は亡くなりました」
「……はい?」
「希は亡くなったんです」
――はあ?
「え、あの亡くなったって……」
「これまで、お伝えできなくて、申し訳ありませんでした。葬儀はすでに身内だけで済ませました」
「ちょっと、待ってください。その、亡くなったって、つまり……」
――死?
「あの、もうよろしいでしょうか?」
「待ってください! 何で……どうしてなんですか?」
「はい?」
「どうして、彼女は亡くなってしまったんですか?」
「私にも詳しいことは、わからないのですが……」
――わからない?
「娘は以前から、その……感情が不安定になることがございまして、そういった心の病気がご専門のお医者様にも診てもらってはいたのですが……」
――心の……病気?
「娘が亡くなった際に立ち会ってもらったお医者様がおっしゃるには、おそらく、そういった病院などで処方されている薬の飲みすぎが原因だろうと……」
「その、薬というのは?」
「精神安定剤、それから睡眠薬といったものだと思います」
――……睡眠薬?
「何で、何でそんな薬を飲まなきゃならなくなるまで、彼女は追いつめられていたんですか?」
「それが……わからないんです」
「わからない?」
「はい、私としても……」
「ふざけるな! どうして、わからないんですか! あんた、希の母親だろう!?」
「申し訳ありません。それでは、そろそろ……」
「ちょっと、待って……」
「失礼いたします」
彼は彼女の母親が電話を切った後、何度も電話をかけつづけたが、もう、つながることはなかった。彼は震える腕を下ろし、その電話を握りしめていた。彼の前にいる黒髪の女の子が彼を訝しそうに見つめていたが、そんなことは全く気にならなくなっていた。今、視えるもの、聴こえるもの、感じるものの全てが彼の意識から離れ、遠ざかっていくようだった。その時、電車のすさまじい轟音によって、彼の意識が平日の地下鉄に引き戻された。車輪とレールが擦れる耳障りな音とともに、電車はブレーキをかけながらゆっくりと彼の前に止まり、そして、深い闇をのぞかせた扉が開かれた。