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ずっと側にいてね

                 

                  No.6 「ずっと側にいてね」


 彼女は部屋の中でテレビを見つめていた。彼はコップとウーロン茶とスナック菓子を持って、膝を抱き寄せて座っている彼女の側に腰をおろした。彼が飲み物をコップに注いで手渡すと、彼女はありがとうと礼を言ってそれを受け取った。彼はコップの中の飲み物に視線を落としたまま何も話そうとしない彼女を見つめていた。

「なあ、元気ないみたいだけど、何かあったのか?」

 彼女の大きな黒い瞳が彼の目を捉えた。

「別に、何も」

「いや、でも……」

「落ち込むのはいつもの事だから。それに、最近、航君にもあまり会えてなかったし」

 彼は彼女から目を反らした。

「そうか、ごめん」

「謝ることなんてないよ。今は忙しい時期だからね。どう、就職活動はうまくいってる?」

「まあ、それなりに。早く終わらせて、遊びたいよ。希は?」

「うん、私も、まあまあ、かな」

 彼女は親に叱られている小さな子供のように背中を丸めていた。

「私ね、正直言って、ちょっと怖いんだ」

「何が?」

「私、人付き合いとか苦手だし。世の中に出てうまくやっていけるのかなとか、いろいろ考えだすと不安になっちゃって」

「それはみんな同じだよ。俺だってそんなにうまくやっていく自信なんてないしさ」

「やっぱり、そうなのかな?」

「そうだよ。それに、そんな心配は会社に入って、働いてからすればいいんじゃないか?」

 彼女は恥ずかしそうに頬を赤くして笑った。

「そうだよね。まだ雇ってももらわない内から、そんな心配してたって仕方ないよね」

「まずは目の前の壁を乗り越えないとな」

「ところでさっきから気になってたんだけど」

 彼女は部屋の片隅に立てかけられていたギター・ケースを指さした。

「航君、ギター弾けるんだね。初めて知った」

「まあ、大した曲は弾けないけど」

「ねえ、何か弾いてみてくれない?」

「ここで? よそうよ、恥ずかしいから」

「お願い! 私、航君の歌、聞いてみたい」

「えっ、歌も? それじゃ、なおさらイヤだよ」

 彼女が手を合わせて頼みこむと、彼はため息をつきながら頭を掻いた。そして、ようやく重い腰を上げて、ギター・ケースを引っぱり出してきた。

「本当に久しぶりなんだから、あまり期待するなよ」

 彼はケースからアコースティック・ギターを取り出すと、弦の調子を確かめるように指で弾いた。

「曲は何でもいいんだな?」

「うん」

「じゃあ、いくぞ」

 彼の指先から楽しげなポップ・ソングのメロディが奏でられた。しかし、彼はいつまでたっても歌い出そうとはしなかった。息が詰まって、声が出せなかった。そして、歌のないまま流れていたメロディは断ち切られた。彼女はギターを抱えたまま、黙りこんでいる彼を不安そうに見つめていた。

「どうしたの?」

「ゴメン、やっぱり、気が乗らないんだ」

 彼女は大げさに頭を横に振った。

「私こそ、ごめんね。急に変なこと頼んじゃって……」

 床に転がっているデジタル時計は音もなく時を刻み続けていた。彼女は沈黙に耐えきれなくなったように腰を浮かすと、俯いている彼の側に座り直した。そして、彼女は彼の手に触れた。


 ベッドが軋む音が電灯の消された部屋に響き、彼女の口から静かな吐息と喘ぎ声が漏れた。彼女の汗ばんだ体は向こう側が透けて見えそうなくらいに白く、腕に力を込めると壊れてしまいそうなくらい細かった。そして、彼女の腕には線を引っぱったような切り傷が何本も、何本も刻み込まれていた。彼は前からそれに気づいていたが、彼女に理由を訊ねることはなかった。傷に触れられるのは嫌だろうと決めつけて、今まで見て見ぬふりをしてきた。いつも、どこか遠くを見ているような彼女の瞳が彼を切なげに見つめていた。ふと、彼は彼女のその瞳に深く開いた穴を見た。どこまでも続く、果てのない穴。彼は自分の心が体を離れて、その穴の中に吸い込まれていくのを感じていた。


「……航君」

 どこか遠くから彼女の声がした。

「航君、起きてる?」

 彼女が呼びかける声で意識を取り戻した時、彼はベッドの上で彼女の細い肩を抱き寄せていた。彼女は彼のすぐ目の前で何かに怯えているような表情をしていた。

「起きてるの?」

「……うん」

「よかった。ずっと、ぼんやりしてるから、眠ってるのかと思った」

 彼女は彼に甘えるようにすり寄り、彼の胸に額をあてた。

「あのね、私、家のベッドに一人で寝ている時に、すごく寂しくなっちゃうの」

「どうして?」

「私はひょっとしたら誰からも必要とされてないんじゃないかとか、独りぼっちなんじゃないかとか、考え出すと止まらなくなっちゃって」

「そんな事ないよ」

 彼女は彼の胸の中で頷いた。

「でも、そういう時ってね、世界で自分だけが取り残されているような気分になるの。胸が不安でいっぱいになって、息が苦しくなるの。そんな気持ち、分かる?」

「分かるよ。俺も時々そんな気分になる」

「本当に? そう、私だけじゃなかったんだ」

 そして、彼女は彼の愛情を確かめるように、耳元で囁いた。

「好き」

「……うん」

「大好き」

「わかってる」

「ずっと側にいてね」


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