文字化け読めたらゴミじゃない
「安いな」
親方は見積書を裏返した。
裏面は白紙だ。もう一度返して表を見たが、値段は安いままだった。
《建国府環境整備方・外注業務》
《心艮町大太鼓橋北脚/不正文字列残滓除去》
《予定量:軽微》
《作業時間:半日》
《危険度:低》
その下に記された報酬額は、腹が立つほど低い数字だった。
「文字を掻き落として運ぶだけでしょう」
向かいに座った役人は、悪びれもせず言った。
黒い羽織の胸元には、環境整備方の小さな紋がある。
「去年より安くなってないか」
「前年度の実績を踏まえ、適正化されました」
親方は黙った。こういう時、役所は強い。
仕事が安いのは役所のせいだが、断ったあと腹が減るのは彼のせいにされる。
表通りの大きな処理業者なら鼻で笑う金額だろう。
だが彼のところは本人と弟子が一人。それに時々手伝いへ来る婆さんで回している零細だ。
「半日だな?」
「仕様上は」
「危険度は低」
「仕様上は」
「予定量は軽微」
「現地確認時点では」
親方は鼻を鳴らすと、契約札に指を押しつけた。
暇よりはマシ――人は大抵、その判断を後になってから悔やむ。
《COMMIT》
役人は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
その感謝を換金してくれる仕組みはない。
◇
翌朝。
大太鼓橋の北脚を見た弟子は、しばらく口を開かなかった。
《譁�蟄励◆縺励※》
《AUTH▒▒▒▒▒》
《雋ャ莉サ閠�荳肴�》
文字化けが生えている。比喩ではない。
石の隙間から黒や緑や青の符号列が這い出し、苔のように重なっている。
親方は荷車から鉄ベラを二本下ろし、一本を弟子に放った。
「下から剥がせ。でかい塊は切れ。籠に詰めたら蓋をする」
「触って平気なんですか」
「危険度は低い……と役所は言ってる」
雇って三ヶ月になる弟子は、嫌そうな顔をした。
二十そこそこの若造だが、力はあるし、言われたことも素直にやる。
強いて問題があるとすれば……まだ、世の中を多少なりともマトモなものだと思ってそうなところだった。
鉄ベラを石肌へ差し込む。
文字の塊が乾いた海藻のような音を立てて剥がれ、
意味不明だった符号の一部が揺れた。
《蜿門セ励∩譁�》
が、
《取得済文》
になった。
弟子の手が止まる。
「親方、これ読めますよ」
弟子のヘラ先で、短い文字列が淡く明滅している。
《処理報告》
「戻せ」
「え?」
「そこへ戻せ」
「直ったんですよ?」
「いいから戻せ!」
弟子は訳も分からぬまま、剥がした文字を橋脚へ押しつけた。
文字列はしばらく震えた後、
《蜿門セ励∩譁�》
へ戻った。
親方は息を吐き、弟子は首を傾げた。
「危なかった」
「何が?」
「読めたらゴミじゃなくなる。お前、契約書読んでないのか」
「そういう親方だって読めてるじゃないですか」
もっともである。親方は頭を掻いた。
「今回、俺らが捨てていいのは『復元不能文字列の残滓』だ」
「はい」
「読めたら復元可能だ。つまりそれは記録だ。勝手に捨てると記録毀損の罪で捕まる」
弟子は少し考えた。
「じゃあ役所に返せば……」
「分類、照合、搬送は別契約だ。今回の費用には入ってない」
弟子は橋脚、文字化け、そして最後に自分の鉄ベラを見た。
「何の仕事なんですか、これ」
「掃除だよ」
◇
昼前には、二人とも全身が文字屑まみれになっていた。
削っても削っても終わらない。
武者。商人。荷車。子ども。
橋の上では人が行き交う。
誰も橋脚の下で文字を掻いている二人など見ない。
世の中を支える仕事というものは、だいたい見えないところで安く発注される。
弟子は憮然としながら、大きな文字塊を籠へ放り込んだ。
がしゃり。
蓋を閉める直前、中で符号列が一瞬だけ揃った。
《大太鼓橋北脚》
二人は見なかったことにした。
親方が蓋を閉じる。
しばらくして、弟子がまた声を上げた。
「親方。これ、剥がれません」
橋脚の根元だった。
黒ずんだ文字列が石の奥へ食い込み、鉄ベラを差してもびくともしない。
親方はしゃがみ込んだ。
「上から切るか」
「やってみます」
弟子が刃を差し込み、力を込める。
その瞬間だった。
文字列が途中で千切れ、
一つだった黒い塊が、ばらばらと数十行にほどけた。
ノイズが消え、意味が戻る。
「おい、まずい! 見るな!」
親方が叫んだ時には遅かった。
石肌一面に白い文字が浮き上がる。
《大太鼓橋北脚・文字列残滓除去完了報告》
その下にあった日付は三年前のものだった。
さらに下の一行が浮かぶ。
《作業後再発確認》
《追加除去申請》
《申請却下:軽微》
《翌年度の環境整備業務へ移管》
二人は顔を見合わせた。
嫌な予感というものは、たいてい当たる。
少し離れた場所に別の黒い塊があった。
そこをヘラで少し削ると、案の定文字が戻る。
《大太鼓橋北脚・文字列残滓除去完了報告》
今度の日付は四年前。
さらにその横。
《大太鼓橋北脚・文字列残滓除去完了報告》
これは五年前。
「親方、これ……」
「言うな」
毎年掃除した報告書が捨てられ、文字化けしている。
親方は天を仰いだ。
嫌味なくらい清々しい空が広がっていた。
◇
午後。
環境整備方から検分担当の役人がやって来た。
親方は復元してしまった文字列の前へ連れていった。
彼は驚かなかった。
「あんた、知ってたな」
「過年度記録の一部が、保存期限経過後も参照状態に残る事例は報告されています」
本来なら情報管理所の所管だが、現在ここに存在するものは環境整備方の扱いになるらしい。
弟子が横から口を挟んだ。
「だったら、情報管理所に送れば済むんじゃないですか」
「今回、復元された記録については返却申請が可能です。
ただし、判読、分類、原記録照合、搬送の各費用は受注者負担となります」
「なんで!?」
「作業中の復元は受注者側の処理により発生したものですので」
弟子の顔が真っ赤になった。
親方はその肩に手を置き、首を横に振った。
「やめとけ。こいつを殴っても書類が一枚増えるだけだ」
役人は否定しなかった。
それどころか、少し申し訳なさそうに言った。
「恐らく三枚です」
◇
夕刻。
どうにか橋脚は綺麗になった。
見た目だけは。一応。
役人が端末をかざすと、淡い光が石肌を上から下まで走った。
《文字列残滓:基準値以下》
《環境整備:完了》
「検収します」
契約札へ印が捺され、親方はようやく肩の力を抜いた。
「終わった……」
「お疲れ様でした」
その場で精算額が表示される。
親方は細めていた目を見開いた。おかしい。予定より少ない。
「おい、減ってるぞ」
「ええ。作業途中で復元した文字列は、廃棄実績に算入できませんから」
「俺らが余計なことしたせいか?」
「契約上は、そのようになります」
拳を振り上げた弟子を、親方は羽交い締めにするのに必死だった。
「親方! なんで止めるんです!」
「こいつを殴っても単価は上がらねえ!」
日が傾き、影が伸びる。
二人は文字屑を満載した荷車を引き、橋を離れた。
疲れた。儲からなかった。
世の中は何一つ良くなった感じがしない。
弟子が言った。
「もう建国府の仕事、やめましょうよ」
「そうだな。民間の蔵掃除の方がまだましだ」
二人は笑いあった。
その時だった。
弟子の足が止まる。
「親方……あれ」
大太鼓橋の北脚。
つい先ほど、何もなくなるまで削った石肌に。
細い黒い筋が浮いていた。
一本。
二本。
それは徐々に文字の形へ整っていく。
《大太鼓橋・文――
親方は荷車から手を離した。
弟子も黙っている。黒い筋は伸び続ける。
《大太鼓橋・文字列残滓除去――
親方の腰に下げた端末が鳴った。
嫌な予感しかしなかった。
《建国府・環境整備方より受注者各位》
《次年度の環境整備について継続受注希望者を募集します》
《前年度実績業者:優先契約》
《継続加算:三パーセント》
親方はその数字を長いこと眺め、やがてぽつりと言った。
「……五パーセントなら考える」
その様子を弟子が呆れた顔で眺めていた。
橋脚では、今年の作業報告が順調に文字化けを始めていた。
この短編では、制度の不具合そのものよりも、その不具合を仕事として引き受け、文句を言いながらも暮らしていく人々を描いています。
『電脳虚界合戦』本編では、認証や契約、記録によって社会を維持しようとする仕組みと、その「正しさ」からこぼれ落ちる人々を、別の人物たちの視点から描いています。




