警告
「懐かしい。」
散らかった自分の部屋を片付けていると、僕は或るものを見つけました。小学校の卒業アルバムです。人はこのようなものを見ると、修学旅行や運動会などの行事、友との日々なんかが頭に浮かんでくるものでしょう。しかしながら、僕が思い出したのは、そのようなことでは全くありませんでした。
それはざっと十年ほど前の八月でしたっけ。僕は友だちのひろあきくんと、学校から少しばかり離れた山に遊びに行ったことがあります。僕の住んでいるところは緑ばかりが広がる田舎でしたから、遊び場といえば近くの山とか川ぐらいしかなかったのです。
麦わら帽子に半袖短パン、右の手には虫とり網、という誰が見ても「田舎の活発な子ども」とわかってしまうほどありきたりな恰好で、僕は家を出ました。自転車はまだ乗れないし、電車も碌に通っていないから、僕は何処かへ出かけるときにはいっつも歩きでした。目的地に到着すると、遠くから甲高い声が聞こえました。
「おーい!」
ひろあきくんの声でした。ひろあきくんの恰好は、偶然にも僕とほとんどいっしょでした。この近くに、呉服店はないのです。
それから、僕たちは風に吹かれて葉を揺らす木々、山じゅうを元気に飛びまわる虫たちに負けないぐらいに燥いでいました。例えば、そこら辺に落ちていた木の枝でチャンバラをしたり、川の水面に映ってぐにゃぐにゃしている自分の顔とにらめっこをしたり。山や川みたいな自然の中にも遊びというのは潜んでいて、僕らはそれをかくれんぼの鬼さんみたいに見つけてしまうのです。
あるとき、僕はぐるっと周囲を見ました。すると、そこにはおじさんがいました。そのおじさんは、僕の家から五十四メートルばかり離れた家に住んでいるご近所さんでした。おじさんの趣味は昆虫採集で、僕もむろん昆虫採集が好きでしたから、僕とおじさんはそれはそれは馬が合いました。あるときには二つの虫かごに入った、カブトムシとクワガタムシを見せてくれたこともありました。二匹のきらきらと輝く、その焦げ茶の背中の、なんとかっこいいことか。きっとおじさんも、稀有にして未知なる虫を求め、この山にやってきたのでしょう。虫が嫌いな人にとっては至ってふつうの山ですが、彼の目には紺碧の海の底に沈む、宝箱のように見えるのです。
日も沈みかけ、橙の暖かな夕陽は僕ら二人の背中を優しく照らしました。僕とひろあきくんはお互いの虫取りの成果を自慢しながら、帰路につきました。
翌日、僕はまたその山にひろあきくんと行きました。二人で虫を探していると、僕は今まで見たことのないとても珍しい虫を見つけました。これにはつい興奮してしまい、虫とり網を振り翳し、その虫を追いかけました。あのときの僕の視界は、一匹の虫だけが描かれている真っ白な画用紙のようでした。すると突然、ぽちゃっと、冷たい感覚が足を伝いました。そこには川があったのです。思いの外川の流れは速く、思わず転びそうになりました。
「だいじょうぶか?」
それを見るや否や、ひろあきくんは僕に手を差し伸べてくれました。危ないところでした。大事にならなくてよかったと安堵していると、背後から声がしました。
「この山は険しいから、じゅうぶんに気をつけるんだよ。」
おそるおそる声のする方を振り返ると、そこには仁王立ちのおじさんがいました。その顔は何処かぼんやりとしていて、顔の特徴を摑もうとしても摑めません。この山は険しいから、と一言だけ残して彼は山を去ってしまいました。彼が背を向けてとぼとぼ帰っていくのを見たとき、僕はその後ろ姿が誰かに酷似していることに気がつきました。かの昆虫採集好きのおじさんです。髪型も、顔の輪郭も、体格も。何もかもが似ていたのです。きっとこれは、おてんとさまのいたずらに違いない。あのときの僕は子どもながらに考えました。
一ヶ月あまりの夏休みが終わり、目を覚ますと今日は始業式の日でした。登校中、おじさんの家が見えました。おじさんは留守にしているようです。今日も例の山へ行って、虫を探しているのでしょうか。
「おはよう。」
教室に入ったと同時に僕はみんなに挨拶をしました。ですが、返事はありません。これはきっと、休み明け特有の「だるさ」というものでしょう。確かに休み明けの学校というのはめんどうくさいし、できれば行きたくはないですが、行ってみると案外楽しいものです。自分の席に座っていると、忽ち先生がやってきました。あれ?今日の先生は何処か変わっています。僕らの担任の先生はいつも教室に入るとき、挨拶を欠かさない人なのですが、今日ばかりは無言で挨拶もしないで教室に入ってきたのです。その顔を見るに、先生はひどく落ち込んでいるようでした。
少しの間、教室の中に淀んだ空気が漂いました。教卓に手をついて暫く俯いたのち、先生は話し始めました。それは、今朝見たニュースの話でした。
「おととい、あそこの山で、転落事故で亡くなった人のご遺体が見つかったらしい。朝からあんなこと聞いちゃあ、気分も沈むよなあ…。」
僕はそれを聞いているうちに、変な汗の止まらなくなっているのがよくわかりました。そういえば、今日は朝からずっとおかしかったような気がします。教室に入ったときのみんなの反応も、先生の様子も。あまりの恐怖に、僕はひろあきくんのほうに目を遣りました。あのときいっしょにいた彼なら、この恐怖を分かち合えると思ったからです。すると、彼はいったいどんな反応をしたでしょうか。それが、彼は何も知らない傍観者のような表情で首を傾げてみせたのです。どうして?そのとき、僕の背筋は凍ったまま溶けなくなりました。まだ暑いのに。僕はなぜか具合が悪くなって、その日は学校を早退してしまいました。
放課後、ひろあきくんがお見舞いに来てくれました。
「体調がよくなったら、またどこかの山で遊ぼうぜ。」
とひろあきくんは云ってくれましたが、もう山では遊びたくありません。
あれ以来、僕はこの不可思議な想い出を、まだ読者諸君以外には話していないのです。




